第7話:小さな灯(ともり)
ラモンの屋敷の庭は、冬の曇り空の下でしんと静まり返っていた。
冷たい風が高い壁の内側を巡り、枯れ葉を転がしては乾いた音を
石畳に散らしていく。
外の世界は、この壁の向こうにある。
だが、青年ノアに許された外は、 窓越しに眺めるこの庭だけだった。
窓辺に腰を下ろし、ノアはぼんやりと庭を見下ろす。
戦場の土の匂いも、血の色も、ここにはない。
けれど、静けさは安らぎではなく、 ただ冷たく、息苦しい沈黙だった。
(……今日も、何も起きない)
それが良いことなのか、
それとも、ただ生き延びているだけなのか――
ノア自身にも、もう分からなかった。
そんな閉ざされた世界に、ふいに、小さな影が忍び寄った。
黒猫だった。
夜の闇をそのまま纏ったような、深い黒の毛並み。
その中で、黄金の瞳だけが焚き火のように揺れている。
ノアは思わず身を乗り出した。
(……猫?)
その瞬間、屋敷の外から、弾んだ子供たちの声が聞こえてきた。
「コリン! こっちだよ!」
「また来たの?」
「今日も元気だね、コリン!」
街の子供たちが、塀の隙間から庭へ入り込み、
黒猫を囲んで走り回る。
「ほら見て! 尻尾ふってる!」
「かわいいなあ、コリン!」
「また明日も来てね!」
笑い声が、冬の庭に溶けていく。
黒猫は軽やかに跳ね、子供たちの足元をすり抜けた。
ノアは、その光景をただ見つめていた。
(……あんなふうに、笑ったこと……あったかな)
思い出そうとしても、 戦場の叫びと、蔑まれた日々ばかりが先に浮かぶ。
誰かと笑った記憶は、遠く、霞んでいた。
(……もう、忘れてしまったのかもしれない)
やがて子供たちは満足したのか、
「またね!」と声を残して庭の外へ駆け戻っていった。
静寂が、戻る。
だが――黒猫だけは、そこに残っていた。
くるりと尾を揺らし、
ゆっくりとノアの方を見上げる。
黄金の瞳が、まっすぐにノアを捉えた。
(……来るのか?)
ノアが息を呑む間もなく、黒猫は音もなく歩み寄り、
窓の下にちょこんと座った。
逃げる様子も、怯える様子もない。
まるで、最初からそこが居場所であるかのように。
「あ……」
ノアは、戸惑いながらも窓を少し開けた。
冷たい空気が流れ込む。
「……怖く、ないのか?」
思わず、声が漏れる。
黒猫は答えない。
ただ、ゆっくりと瞬きをして、 ノアの方へ一歩近づいた。
ノアは震える手で、そっと手を伸ばす。
「……触っても、いいのか……?」
指先が、黒い毛並みに触れた瞬間――
柔らかな温もりが、凍えた指を包んだ。
思わず息が止まる。
(……あったかい……)
黒猫は嫌がることなく、むしろ、ノアの手に顔を押し付けてくる。
「……コリン、っていうのか」
子供たちが呼んでいた名を、そっと口にする。
「……コリン……」
黒猫は喉を鳴らし、
まるで「そうだ」と言うかのように尾を揺らした。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
苦しいのに、どこか心地いい。
(……まだ、こんな気持ちが……残ってたんだ)
ノアは、黒猫に話しかける。
「……俺は、ノアだ」
「……変な名前だろ?」
返事はない。
だが、コリンはじっとノアを見つめている。
「……戦ってきた」
「……たくさん、死んだ」
「……でも、俺だけ、死ななかった」
言葉は、途切れ途切れだった。
誰にも話したことのないこと。
「……怖いんだ」
「……生きてるのが……」
コリンはただ、ノアの手に額を預けて、喉を鳴らす。
それだけで、胸の奥の張りつめていた何かが、少し緩んだ。
(……聞いてくれてる……)
その日から、コリンは時々、ノアの元を訪れるようになった。
寒い日には窓辺で丸まり、
晴れた日には庭を跳ね回る。
ノアは、その姿を見るたびに声をかけた。
「……今日は来てくれたな」
「……寒くないか?」
「……どこで寝てるんだ?」
答えは返らない。
それでも、コリンは必ずノアのそばに来た。
コリンが来る日は、
ノアの胸に小さな灯がともった。
それは、激しい炎ではない。
吹けば消えそうな、か細い光。
けれど――その灯は、確かに孤独を和らげていた。
ノアは、祈るように思う。
(……また来てほしい)
(……明日も……会いたい)
黒猫コリンは、彼にとって救いであり、
凍りついた世界に差し込む、たったひとつの光だった。
冬の庭に生まれた、小さな温もり。
ノアはそれを胸に抱きながら、
今日を――ほんの少しだけ、生きやすく感じていた。
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