死と不死の狭間で

村を出てから、何日が過ぎたのか。

ノアにはもう、正確な時間の感覚がなかった。


昼と夜の区別は、空の色でしか分からない。

縄で縛られた手首は擦れて赤く腫れ、歩くたびに足裏が裂けるように痛んだ。


食事と呼べるものは、硬く乾いたパンの欠片だけ。

水は回ってこないことの方が多く、喉の奥は常に焼けつくように乾いていた。


「……のど、かわいた……」


小さな声で呟いた子がいた。

返事はない。

泣く力すら残っていない子どもたちは、ただ前を向いて歩かされるだけだった。


夜になると、森の冷え込みが骨に染みた。

地面に転がされ、互いの体温を奪い合うように寄り添う。

誰かが震え始めると、連鎖するように皆が震え出す。


「……ねぇ……お母さん……」


眠りと覚醒の狭間で、そう呟く声が何度も聞こえた。

呼び返されることのない名前。

答える者のいない祈り。


ノアは、その声を聞くたびに胸が締めつけられた。

思い出そうとしなくても、父の背中、母の声が脳裏に浮かぶ。


(……やめて……思い出したくない……)


だが、思い出は容赦なく蘇る。

炎の色。

鈍い音。

母の悲鳴が途切れた瞬間。


ノアは歯を食いしばり、必死にアルトの袖を掴んだ。


「兄ちゃん……」


アルトは何も言わず、ノアの手を強く握り返した。

その指先は、冷たく、震えている。


「大丈夫だ。……大丈夫だから」


自分に言い聞かせるような声だった。


盗賊たちは、子どもたちを“荷”としか見ていなかった。

歩けない子が転べば、鞭が飛ぶ。

声を上げれば、殴られる。


「静かにしろ。商品が傷む」


その言葉が、何度も耳に残った。


ある夜、隣を歩いていた年下の子が、ふらりと倒れた。


「……起きて……」


ノアが声をかけても、反応はない。

盗賊の一人が舌打ちし、

その子の髪を掴んで引きずった。


「チッ……使えねぇな」


次の瞬間、鈍い音。

それ以上、その子が動くことはなかった。


誰も声を上げなかった。

上げられなかった。



数日後。

盗賊団はノイセル共和国の国境付近の森で野営していた。

焚き火が赤い舌を揺らし、酒瓶を回し飲みする盗賊たちの笑い声が湿った空気を震わせる。


「この辺に“呪いの泉”があるって話、覚えてるか?」

「おうよ。飲んだら死ぬってやつだろ? あれ本当らしいぜ」


盗賊の軽い冗談のような会話。

しかし、その言葉を聞いたアルトの表情が硬く変わる。


数日かけて縄を擦り切らせていた彼は、

もはや逃げるための準備を整えつつあった。


「ノア……聞こえるか」


アルトは弟の耳元に唇を寄せて囁いた。


「今夜……逃げるぞ。もうここが限界だ」


「む……無理だよ……兄ちゃんまで……殺されちゃう……」


「大丈夫だ。俺は死なねぇ。ノアを守るためなら、何だってやる」


その言葉は震えていたが、同時に強かった。

ノアの胸に、熱いものがきゅっと満ちていく。


「……兄ちゃんも、一緒に逃げるんだよね……?」


「当たり前だ。ノアだけ生かして、俺が死ぬわけないだろう?」


その瞬間、ノアの中にわずかな希望が灯った。



「……よし。今だ、ノア!」


アルトは擦り切れた縄を断ち切り、

ノアの腕を掴んで闇へと駆け出した。


「おい! ガキが逃げたぞ!!」


「クソッ、見張りは何してやがる!!」


盗賊たちは焚き火を蹴り上げて走り出す。

草を踏み潰す音、怒号、武器が揺れる音が森に満ちた。


「兄ちゃん……怖い……!」


「大丈夫だ……! ここから離れれば……!」


だが、盗賊たちの脚力は速かった。

野盗として山を駆け巡ってきた男たちの足音が、

二人の背後に迫ってくる。


「いたぞ!! あっちだ!!」


複数の影が松明を振りかざしながら追ってくる。

その光が、アルトの背中にまとわりつく影を伸ばした。


ヒュンッ——!


「っああああああ!!」


ノアの足に矢が突き刺さった。

ノアは痛みに叫び、地面へ崩れ落ちる。


「ノア!」


アルトは迷わず弟を背負い、再び走り出した。

血がアルトの肩を温かく濡らす。


「兄ちゃん……痛い……!」


「我慢しろ……! 絶対……逃げるんだ……!」


しかし——。


ヒュンッ!


「ッ……!」


アルトの太ももに矢が突き刺さった。

その衝撃でひざが折れかける。


それでも、彼は走った。


倒れそうな体を無理やり前に投げ出すように、

ノアを背負ったまま必死に。


「くそ……! 逃げやがって……!」


「手間かけさせやがって!!」


荒い息の盗賊たちが追いつき、

兄弟は地面に叩きつけられた。


ドンッ!


「ぎっ——!」


アルトの背中に盗賊の膝がめり込み、ノアの脇腹に重い蹴りが叩き込まれる。


「このガキどもが……! 売り物にしてやろうと思ったのによ……!」


「逃げた罰だ。痛ぇ目見せてやれ!」


殴打が降り注ぐ。

蹴りが鳩尾に、背中に、顔に打ち込まれる。


ノアは小さく震えながら兄に縋る。

アルトは血を吐きながらも、腕でノアを必死に守った。


「ノア……離すな……絶対……手ぇ離すな……!」


「兄ちゃん……兄ちゃん……!」


手間を取らされた腹いせに、盗賊たちはさらに蹴りを強めた。


「ほら、立てよガキ!!」


やがて、泉の気配が森の奥に現れた。

青白く、不気味に光る水面。


「おい、あそこに見えるのは……」


「本当にあったのかよ……呪いの泉」


「試してみようぜ。どうせ売り物にならねぇしな」


「ひっひ……どんな風に死ぬんだろうな?」


「にい……ちゃん……」


「ノア……逃げ……」


アルトの声はかすれていたが、弟を庇う姿勢だけは崩さなかった。


「ほらよ、兄貴からだ。珍しい死に方、見せてもらおうぜ?」


「やめろ!!!!」


ノアの叫びは森に吸い込まれていった。


盗賊はアルトの髪を掴み、泉の縁へ引きずる。

アルトは必死に抵抗するが、傷だらけの体では力が入らない。


「飲め!!」


冷たい水が、兄の口に強引に流し込まれた。


 ——次の瞬間。


「——っぐ……がああああああああああああっ!!」


アルトの体が跳ね上がるように痙攣した。


目から、鼻から、耳から、

赤い液体が細く、そしてどろどろと溢れ出し——


その顔は苦痛にゆがみ、

喉の奥から絞り出される絶叫が森を震わせた。


「兄ちゃん!! 兄ちゃん!! いやだ!! やめて!!」


ノアの悲鳴には、幼い声とは思えないほどの絶望が混じっていた。


「ほら見ろよ……呪いの泉だ。本物だぜ……!」


「ははっ……すげぇ死に方だな……!」


アルトは数度痙攣したのち、喉を鳴らし、

最後に小さく息を零し——完全に動かなくなった。


「にい……ちゃん……?」


その言葉は震え、崩れ、途切れた。


「じゃあ次は弟だ。兄貴のあとを追わせてやれ」


「やっ……やだ……! やだよっ……兄ちゃん……っ……!」


ノアは這って逃げようとするが、足が痛みで動かない。

盗賊がノアの顎を掴み、泉の水をすくって押し流し込む。


「飲め。地獄の味だ」


「——あああああああああああッ!!」


痛みが爆発する。

体が裂けるような苦しみ。

血流が逆巻き、骨が軋み、皮膚の下で何かが蠢く。


まるで——体の構造そのものを“組み替えている”ような感覚。


泉の底から青白い光が吹き上がり、ノアの体を包む。


髪が蒼白に染まり、瞳は紅く輝き、 刺さった矢が勝手に抜け落ち、

殴られ蹴られた痣も裂傷も——瞬く間に消えていく。


「な……なんだ……こいつ……!」


「傷が……全部……消えた……!」


「化け物だ!!」


盗賊たちは恐怖で後ずさった。


ノアは荒い息を吐きながら、兄の亡骸を見つめた。


胸の奥で——小さな黒い灯が揺れ動いた。


黒炎。


熱ではなく、凍りつくような怒り。

形のない闇の炎がノアの心に根を下ろし、

ゆっくりと、しかし確かに燃え始めた。


「兄ちゃん……兄ちゃん……!!」


絶望の叫びが森の奥に吸い込まれたとき、

盗賊たちは顔を見合わせた。


「……これ、どうするよ」

「カシラに……グラドス様に報告だ。こんな怪物、俺たちじゃ手に負えねぇ」


「そうだな……売れるかもしれねぇし……

 いや、高値どころか、とんでもねぇもんになるぞ……!」


「とにかく、連れてくしかねぇ。グラドス様が決める」


「ははっ……喜ぶぜ、グラドス様は……なんてよ……!」


 盗賊たちは震えながらも、興奮を隠せなかった。


 それは、ノアの地獄の始まりだった。

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