絶望の赤い夜
その夜、村は燃えた。
怒号が闇を裂き、炎が藁葺き屋根を舐め上げる。乾いた破裂音が連続し、火の粉が風に舞って夜空を赤く染めた。
牛や山羊が恐慌のまま囲いを蹴破り、縄を引きずり、鳴き声と蹄の音が石と泥を叩いた。家々の影は炎に引き伸ばされ、狂った踊りのように地面へ揺れ落ちる。
ノアは寝床から飛び起きた。
外が赤い——夜なのに、昼のように明るい。
喉の奥が乾く。胸が痛いほど速く脈を打つ。
何が起きているのか理解するより先に、恐怖が体を満たしていく。
「ノア! アルト! こっちだ!」
父の叫びが家の中に飛び込み、母が二人に手を伸ばした。母の指先が震えている。
父は扉の隙間から外を覗き、顔色を変えた。
「な、なにが起きてるの!? 父さん!」
「盗賊だ……!」
父の声は怒りと焦りを押し殺して震えていた。
戸外からは、男たちの怒鳴り声、泣き叫ぶ声、獣の鳴き声が渦のように押し寄せる。
鉄と煙と血の匂いが、風に乗って鼻を刺した。
扉が揺れる。どこかで誰かが壁を叩く音がする。
母はノアを胸に抱き寄せ、アルトの肩に手を置いた。
「落ち着いて。……息をして」
だが、落ち着けるはずがなかった。
外では、粗末だが数の揃った武器を手にした男たちが溢れ、村人を次々と地面へ叩き伏せていた。
「やめてくれぇっ! うちには金なんて——ぐあッ!」
家畜小屋の前で老人が鉄棒で頭を砕かれ、膝から崩れ落ちる。
助けようと駆け寄った若者が背後から斬りつけられ、地面に手をついたまま動かなくなった。
誰かが「神よ!」と叫んだ。礼拝堂の方角から鐘が鳴った気がしたが、すぐに鈍い音とともに途切れた。
泣き叫ぶ女性の髪を掴み、地面に引き倒す者。
赤子を抱いた母親を蹴り飛ばし、赤子の泣き声を笑い声でかき消す者。
逃げようとする子どもの襟首を掴み、引きずって戻す者。
惨劇が村中で同時に起きていた。
ノアの隣で母が震え、父は二人を背にかばいながら入口に立った。
父の背中は大きい。いつもは頼もしいその背中が、今は燃える闇の中で、あまりにも薄い壁に思えた。
「ノア、アルト! 逃げろ! 裏手へ回れ!」
「父さんは!? 母さんは!?」
ノアが叫ぶ。声が裏返り、涙が勝手に溢れた。
「お前たちを守るのが……俺たちの役目だろう?」
父はそう言い切った。
その声には恐怖ではなく決意があった。
母は涙ぐみながらも、確かに笑った。
「必ず、生き延びるのよ……二人とも」
アルトがノアの手を掴んだ。その手は冷たく汗ばんでいる。
ノアは首を振った。嫌だ。行きたくない。父と母を置いていけない。
でも、アルトの指は強かった。
「ノア、走れ。今だけ……言うこと聞け」
「でも——!」
「いいから!」
アルトの声は鋭く、震えていた。
ノアはそれでやっと分かった。兄も怖いのだ。怖いのに、弟の手を離さないのだ。
戸口から外へ踏み出した瞬間、熱が肌を刺した。
炎の明るさで、盗賊たちの顔がよく見える。笑っている者、怒鳴っている者、獣みたいに唾を飛ばす者。
村の道はもう道ではなく、逃げる者と倒れる者で埋まった地獄だった。
その瞬間——
外から飛び込んだ影が、父を押し倒した。
「ガキども、逃がすかよ」
怒鳴り声。酒と血の臭いが風に乗って鼻を突く。
ノアが振り返った時には、父と母は既に複数の盗賊に押さえつけられていた。
「やめっ……放せッ!!」
父が立ち上がろうとした瞬間、鈍い音が響く。
鉄の棒が父の背中に叩きつけられる音。
父の体が折れ、息が詰まるような呻きが漏れる。
それでも父は立とうとした。もう一度、もう一度と、子どもたちの方へ手を伸ばそうとして——。
「父さんっ!!」
次の打撃で父の膝が崩れた。
母が叫ぶ。盗賊の手が母の髪を引き、顔を上げさせ、笑いながら頬を打った。
母の悲鳴が上がり——すぐに途切れた。
「母さ——!」
「見るな!!」
アルトはノアの顔を抱え込むようにして背を向かせ、そのまま走った。
肩で荒く息をしながら、必死で弟を引っ張る。
ノアは抵抗した。振り返りたかった。助けたかった。
でも、背後から聞こえる音が、ノアの心臓を握り潰す。
鈍い音、笑い声、そして——もう父と母の声がしない。
(いやだ……いやだ……!)
心の中で叫んでも、足は勝手に動き、涙で視界が歪む。
しかし、逃げ切ることはできなかった。
背後から伸びた太い腕が兄弟を掴み、二人は泥の上へ叩きつけられた。
肺の空気が押し出され、ノアは声にならない息を吐く。
「あぁ? ガキが逃げられると思ってんのか」
巨体の盗賊が覆いかぶさるように立ちはだかり、夜空の炎に照らされたその目は獣のように光っていた。
「やめろ!!」
アルトはノアを庇い、身を横に投げ出す。
だが盗賊の蹴りがその腹を抉り、アルトは吐き出すようにうめいた。
次の瞬間、ノアの脇腹に重い蹴りが叩き込まれる。息が詰まり、視界が白く弾けた。
「兄ちゃんっ!」
「……大丈夫……ノア……離れるな……」
アルトの声は弱々しく震えていた。
ノアは兄の袖を掴み、必死に頷く。
指先が泥と血で滑り、現実が夢のように遠い。
やがて兄弟は縄で手首を縛られ、他の子どもたちと一緒に荷車へ放り込まれた。
荷車の中には、泣き声と嗚咽と鼻水の匂いが詰まっていた。
小さな子が「お母さん……」と呼び続ける。
別の子は声が枯れて、ただ震えるだけだった。
周囲では盗賊が倒れた村人を棒で突き、まだ息があると見るや首を刎ねていた。
ためらいはない。命を切るのが、薪を割るのと同じ動作に見えた。
「動くなよ、小僧ども。売り物なんだからなぁ」
その言葉に、ノアの心が凍る。
売り物——自分は、物になる。
父と母の命が消えた音が、まだ耳の奥で鳴っているのに。
村の男たちは殺され、女たちは泣き叫びながら別の場所へ引きずられていく。
抵抗する声は殴打で途切れ、祈りの言葉は笑い声で踏み潰された。
炎の向こうで、誰かが倒れ、誰かが連れていかれ、誰かがもう動かなくなる。
それが“夜の出来事”ではなく、世界の法則のように繰り返されていく。
燃え上がる家々。
倒れた父の姿。
母の白い手が泥に沈む光景。
炎の色に染まった村。
ノアは涙で霞む視界の中で、その全てを脳裏に焼き付けた。
焼き付けたくなどないのに、瞼を閉じても見えてしまう。
(……終わった)
胸の奥で、何かが折れる音がした。
ノアの世界が——静かに、確かに崩れ落ちた。
——その夜、ノアの世界は終わった。
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