人間を捨てた日、異界の扉が開いた

影守 玄

プロローグ 少年が愛した村





ノアが暮らしていた村は、ノイセル共和国の片隅——

地図にも載らぬ辺境の、小さな点にすぎなかった。


共和国といっても、名ばかりだ。

四方の国境線に気を取られ続ける国家にとって、

小さな村の暮らしなど、風に消える囁きのようなものだった。


だからこの村は、

誰からも守られることなく、ただ静かに存在していた。


麦畑と川。

小さな礼拝堂。

藁葺き屋根の家々が、身を寄せ合うように並ぶだけの、

どこにでもある田舎の村。


だが、ノアにとっては——

そこが、世界のすべてだった。 


「ノア、パンをこぼさないのよ」


母の柔らかな声が、質素な木の食卓に落ちる。

干し草と土の匂いが混じるこの家は、

共和国の中心都市とは無縁の、素朴な生活そのものだった。


「こぼしてないよ、母さん。ほら、ちゃんと食べてるじゃないか」


ノアは黒パンを一口大にして頬張り、わざとむくれた顔で母に抗議する。


「おう、元気がいいな」


父はひげ面をくしゃりとさせ、椅子にもたれて笑った。

共和国の労役税は重い。

だが、それに押し潰されないだけの強さを、この男は持っていた。


「ノア、お前、今日は畑をよく手伝ったそうじゃないか。大したもんだ」


「兄ちゃんの方がずっと働いてたよ。僕なんか、まだまだだよ」


向かいでパンをかじっていた兄アルトが、肩をすくめる。


「そりゃあ俺の方が年上で、力もあるからな。

ノアはノアの分をやればいい。焦る必要なんてないさ」


「アルト、あんたももっと食べなさい。

背ばっか伸びて、ほんとやせっぽちなんだから」


「母さん、それ褒めてるのか、けなしてるのか……?」


父が吹き出すように笑い、

母も「両方よ」と当然のように肩をすくめる。 


貧しい家だ。

共和国の端に生きる者として、裕福になることは一度もなかった。


だが、この小さな食卓には、確かに満ち足りた光があった。


食事を終えると、ノアは外へ飛び出した。

朝露の残る地面を踏みしめると、

ひんやりとした感触が裸足に心地よい。


「ノアー! こっちだ!」


川辺から声が飛ぶ。

同じ村の少年、ブラムだった。


「また遅いぞ! 今日は魚がたくさん見えるんだ!」


「今行く!」


二人は川に石を投げ、

跳ね返る水しぶきに声を上げて笑った。


少し上流では、年老いた漁師が網を修繕しながら、

「またガキどもが騒いでるな」と苦笑している。


「いいじゃねぇか。

 ああやって笑えるうちは、村もまだ生きてる」


そんな言葉を、ノアは意味も分からず聞いていた。


昼前になると、畑仕事をする大人たちの声が村に満ちる。


「今年の麦は出来がいいぞ」

「雨が少なかったのが幸いしたな」

「共和国の徴収官が来なきゃいいが……」


そんな会話が、風に混じって流れていく。


夕暮れが近づくと、家々の煙突から細い煙が立ち上る。


母たちは井戸端で言葉を交わし、

男たちは仕事の疲れを笑いで紛らわせる。


「今日も一日、何もなかったな」

「それが一番だ」


誰かがそう言って、皆が頷いた。


夜。

星は、驚くほど近くにあった。


ノアは家の前で腰を下ろし、兄アルトと並んで空を見上げる。


「なあ、ノア。

 ずっとこの村で暮らすのも、悪くないよな」


「うん……。

 父さんと母さんがいて、兄ちゃんがいて……」


「それで十分だよな」


アルトはそう言って、ノアの頭をくしゃりと撫でた。


 


——この日々が、続くのだと。

ノアは、疑いもしなかった。


世界のどこかで、ノイセル共和国が弱いことも、

助けを求めても誰も来ない現実があることも、

この夜の星空の下では、

あまりにも遠い話だった。


その静けさが、どれほど脆く、どれほど残酷に奪われるものかを——

少年は、まだ知らなかった。

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