12月11日『星間クジラ』
拝啓
火星での暮らしには慣れましたか。この間不思議なことがあったので、あなたにお話ししたいと思い筆を執りました。
それは私が出張先の小さな衛星に向かっているときのことでした。船は就寝時間をとうに過ぎて寝静まり、展望デッキには私ひとりだけでした……宇宙には昼夜はありませんがあれは本当に、静かな夜だった。デッキの照明は最低限にまで落とされ、窓に近寄れば星々が奔放に光を振り撒いていて、私たちは息を潜めるようにその間をゆっくり進んでいたのです。
ちょうど近くに見えたガニメデの姿を眺めていると、不意に窓になにか巨大なものが現れたのです。星の光は遮られ、それは私の視界を覆った。私は目を疑いました。
宇宙空間を、大きな鯨が泳いでいたのです。
種類でいえばナガスクジラでしょうか、あなたならもっと詳しいのでしょうが。とにかくデッキの窓を、鯨の白い腹が覆っていました。幻覚でも見ているのかと思った……だってそうでしょう、宇宙に鯨なんているわけがない。でも、私の両手が触れたガラスはひんやりとしていて、鯨の輪郭の後ろから見え隠れする星々も眩しくて、私はこれを現実だと信じてみることにしました。一等星に背後から照らされて、つるつるとした紺色の体表が光っていました。
子供のころ読んだ『海底二万海里』を思い出しました。私は深海にいて、こちらを気にも留めない鯨を観察していると、そう思わされるような景色でした。
しばらく並走したあと、鯨は少しずつ船から離れてゆきました。少し名残惜しさもありましたがそろそろベッドに入ろう。そう思ってデッキを出ていこうとしたとき、彼の穏やかな眼が、こちらを向いたように感じたのです。
その眼は星の光を反射して、まるでその眼球じたいが宇宙のようでした。一瞬ぬらっと光ったのは涙だったんだろうか。そして彼はゆっくりと首を傾げ、どこかへと泳ぎ去ってゆきました。ひとときの邂逅は、こうして終わったのです。
夢だったのかもしれませんね。でも私は思うのです。あの鯨はずっと昔から、太陽系が生まれるずっと前からこの宇宙を泳ぎ続けていたんじゃないかと。地球の、あの美しい海にいた鯨たちは彼の模造品だったのかもしれません。
この長い出張が終わったらきっと、たくさんお土産を持ってあなたの元に帰ります。それでは、お元気で。
敬具
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