11月29日『エンジェルベイビー』

 隣では友人が単語帳を見始めた。冬の十六時、西陽の差す電車内だった。

 彼とは家の方向が同じだから、下校のときにはよく一緒になる。沈黙、が、苦にならない関係だ。だから彼は勉強をするし、僕は彼に向けていない方の耳にイヤホンを嵌める。

 電車はがたんごとんと都心から離れる。建物の隙間からぴかぴかと茜色の夕日が僕を照らして眩しい。この時間帯にしては空いている……というか僕たち以外に誰もいない車内で、僕はひとり目を細める。友人は難しい単語を憶えている。

 どうやらうちは進学校、らしい。部活も行事も楽しいから学校選びに後悔はしていないけれど、勉強しようね、という無言の圧力は苦しい。緩いところだから先生はあまりうるさくないけれど、「高校生らしいことを楽しみつつも、なんだかんだ勉強はやろうね」みたいな空気がある。というか、周りはみんな要領がいいからこなせてしまうのだ。

 僕は違うみたいだ。ひとつのことにしか集中できないし、机に向かうのは苦痛でしかない。勉強に身が入らないというか、勉強という存在が怖くて仕方ないのだ。己の生活から一刻も早く排除したくて仕方ないのだ。

 部活を引退してからはずっとこんな焦りが続いている。それなのに体はまったく動かなくて、ベッドに寝転んでスマホを弄る。悩みがあるだけ寝られもしない。そんな毎日だ。元々授業もサボりがちだし、学校も行きたくない。というか、どこかに行ってしまいたい。

 考えていて情けなくなってきた。左耳に意識を戻せばイヤホンからは耳をつんざくようなけたたましいイントロが聴こえる。銀杏BOYZの『エンジェルベイビー』だ。

 

〽どうして僕いつもひとりなんだろ

 ここじゃないどこかへ行きたかった

 自意識と自慰で息が詰まる頃

 ラジオからロックが流れた

 

 もう何度も聴いているけれどその度に耳が冷水で洗われるような衝撃を覚える。絞り出すような歌声が、リュックサックの奥の奥の心臓に直接響く。僕のちっぽけな焦燥感が吹き飛ばされていく。気づけば私は抱えた荷物を全部落として立ち上がっていた。友人がびっくりした顔をしてこちらを見る。構わず僕は大声で歌い出す。

 

〽hello my friend

 君と僕は一生の友達さ

 さようなら 美しき傷だらけの青春に

 

 エアギターをかき鳴らしながら私は四号車を即席のライブハウスにする。僕の下手な歌がたんごとんと会場を揺らす。列車の軋む音が伴奏だ。

 そして私は反対側の車窓に駆け寄り思いっきり窓を開ける。身を切るような木枯らしが一気に吹き込んでくる。


〽ロックンロールは世界を変えて

 涙を抱きしめて

 ロックンロールは世界を変えて

 エンジェルベイビー

 ここにしかないどこかへ

 

 僕は心臓に問う。僕は世界を変えられるかと。心臓はどくんと跳ねる。そして僕は車窓の外に全身を投げた。ひゅうと耳の中で風の音がする。目を丸くする友人はもう、ガラスの向こう側だ。

 思ったよりもすごい速さで地面は近づいてくる。世界よ変われ! そう単純に願った瞬間、目の前には一面の海が広がっていた。

 理解する前に、着水。水の冷たさが心地よく、いつの間にか季節も変わっていることを知る。膝までの水深……周りを見渡せば綺麗な無人の砂浜があった。真夏の海水浴場だ。

 訳もわからず楽しくなってしまって私は水を跳ねながら走り出す。その間も『エンジェルベイビー』はどこからか大音量で流れ続けている。

 

〽ロックンロールは世界を変えて

 涙を抱きしめて

 あの子のちっちゃな手を繋がせて

 ねえ エンジェルベイビー

 ここにしかないどこかへ

 

 砂浜にたどり着くと僕は、靴が汚れるのも構わずにあたりを駆けずり回った。意味もなく。だが最高の気分だ。脳内物質のマスゲームがバグを起こして空回りを続けている。体は勝手に動く。ボーカルは「ロックンロールは世界を変えて」と繰り返し歌い続けている。本来なら二回で終わるはずなのにリフレインが終わらない。

 僕は砂の上に一本のギターが置かれているのを見つけた。近づいて見れば汚れて古いギターだ。弦だって錆びている。けれどそのときの僕は無性にギターを持ってみたくて、その場に座り込んで抱えてみた。木目調のそれは思ったよりもずっしりとしていて太腿に縁が食い込む。

 ピックはないし、弾き方なんて一つも分からないけれど指で弦を鳴らしてみる。ジャーンと音が鳴る。それだけで僕の世界を変えるには十分だった。繰り返される歌詞に割り込むようにして僕は叫んだ。

「ロックンロールは世界を変えて エンジェルベイビー ここにしかないどこかへ」

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