11月22日『心音』

 その昔、心音は音楽だったらしい。それを聞いたのは、原野の遺跡でのことだった。

 そのときにはすでに白髪であった教授は、発掘された副葬品の数々を見下ろしながら言った。遠く昔の人々にはそれぞれに固有の音楽があったのだよ、と。

 私は作業着についた泥をはたきながらその話を聴いていた。あたりにはカーン、カーンとつるはしを振るう音が響いていた。

 教授は様々な分野の専門家だった。考古学はもちろん、文化人類学や歴史学にも精通していた。医師免許を持っているという噂もあった。そして、ピアノとチェロを弾いた。

 特にピアノの腕前はプロ顔負けで、私も何度もコンサートに足を運んだ。小さなサロンホールに、年の暮れになるとその緻密で切ない音色が響いた。ドビュッシーの「月の光」が私のお気に入りだった。

 そんな彼の言葉だからこそだろう。心音が音楽だった、という話には不思議な説得力があった。

 私は教授の横顔を盗み見る。春の陽光のもと、その眼は太古のネックレスをじっと見つめていた。

 私も自分の心音を聴こうとしてみた。どくん、どくん。ただ心臓が血液を送り出しているようにしか聞こえない。なぜですか、と私は問うた。古代の人々の心臓はなぜ、音楽を奏でていたのですか。

 今も音楽ではあるのだよ、と彼は答えた。ただ、私たちの耳に聴こえないだけで。

 寂しいことだ。そうぽつりと言った。風が吹いて遠くで木の葉がそよいだ。

 

 あれから何年が経っただろうか。私がその直線的な病室に入ると、管に繋がれた教授は微かにその理知的な目を開けて出迎えてくれた。

 調子はどうですか。優しく訊くと、少しの沈黙ののち小さく頷く。しかし彼の頬や首は見る影もないほどに痩せ細っていた。

 不意に彼が囁き声で話し始めた。音楽の始まりを知っているかい、と。出会った頃と何も変わらない話し方で。

 メロディーの始まりは、感情を表す叫び声。リズムの始まりは、歩くときや石器をつくるときの拍子。元来音楽とはピアノでもチェロでもない、もっと直截的なものだったのだよ。

 私は教授の手を取りながら黙ってそれを聴く。

 ……そろそろみたいだ。では、私は古代人と火を囲んで踊ってくるよ。彼はそう小さな声で言い放ったきり、目を閉じた。

 ふと思い至り、私は隣にいた医者の首から聴診器を借りる。両耳に装着し、そしてその先端を、彼の浮いた肋骨の上に布越しに当てた。

 ただ残響があった。

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