11月19日『兄』
父の眼前には彫刻があった。
学校から帰ってきた私はそれを精巧だとも美しいとも感じなかった。ああ、兄だ。そう思った。
兄が死んだのは昨夏で、だから作業中、家中を酷い腐臭が漂っていた。母はそれに耐えかねて家を出て行き、生まれつき鼻の鈍い私だけが父と暮らしていた。
完成したぞ、と父は言った。そう、と私は返した。妹の私から見ても美青年だった兄は、みすぼらしい老人の像に作りかえられていた。
辺りには細かく乾いた肉片やら骨片やらが散乱していた。見たこともないような黒く小さな虫が湧いていた。骨の芯から赤黒い骨髄液が床に染みて模様を成していた。カーテンの隙間から黄色い陽光が差し、フローリングで血痕と踊った。
どうして兄さんを死なせたの。何の感情もなく私は訊いた。喜怒哀楽は兄が向こうに持っていってしまっていた。
聴こえなかった? ……分からないか。父はそう小声で言い放って、鑿を左手に持ったまま、大股で部屋を出ていった。踏みつけられた兄の肉が、まだ乾き切っていない肉が、くちゅと音を立てた。ドアが開き、春先の新鮮な空気が流れ込んだかと思えば、閉まってまた淀んだ。
私は目を閉じて耳を澄ませた。窓もほとんど閉め切られたこの部屋に、私の心音以外に微かに聴こえてくるものがあった。
盲目になったまま、音源を探って歩く。数メートル先で、彫刻と私の身体がぶつかる。
兄が歌っていた。
灰褐色の滑らかな唇の隙間から、微かに息が漏れていた。歌詞も旋律もはっきりしないが彼は確かに、歌っていた。その声音は春を歓んでいるように感じられた。
私は彼に歌ってほしくなどなかった。だから口付けをした。少しだけ背伸びをして、制服や髪が体液で汚れるのも気にせずに。
唇は陶製の器のように冷え切っていて、逆にその内奥の舌(だったもの)は生温かかった。それは私の咥内にまろびでて、くちゅという音を立てた。なんだか苦かった。
高三の春であった。
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