第2部:構造の補正
第10話:無と有の境界
地下ドックの湿った空気は、一瞬にして沸点に達した。
天井の裸電球が電圧の異常に耐えかねて激しく明滅し、コンクリートの壁に映る二人の影を、巨大な怪物の如く歪に引き伸ばす。
服部半蔵――かつて「政府の完成品」と呼ばれた男は、今やその美しき鎧をかなぐり捨てていた。露出した鍛え上げられた上半身、その広背筋から上腕にかけて、服部家禁忌の術式である「血墨の呪紋」が、どす黒い拍動と共に紅く発火している。
彼が握る真剣『十六夜』は、政府支給の振動刃のような電子音を立てない。代わりに、持ち主の命を削り、大気中の霊子を強制的に「刃」へと変質させる、物理法則の枠外にある古き執念の重みを湛えていた。
「大伴……。貴様という空虚を、この血で、この刃で、今こそ埋め尽くしてやる」
半蔵が踏み込んだ。
その一歩は、もはや「移動」ではなかった。足元のコンクリートが蜘蛛の巣状に砕け、爆音と共に彼の姿が視界から消失する。
半蔵の放つ剣筋は、零の「独自理論」すら予測不可能な、人間の意志と憎悪そのものが描く非線形の軌跡。最短ルートの合理性を捨て、相手を「確実に殺す」ためだけに因果を捻じ曲げる服部流の奥義だ。
「忍くん、動かないで! まだ『因果触媒』の同期が終わってないわ!」
零が叫ぶ。忍の右腕に巻き付いた「非干渉の帯」が、生き物のようにのたうち、忍の周囲の空気を異常な密度で圧縮していく。だが、忍はその警告を無視するように、静かに左足を半歩、前に出した。
「……いいよ、零。お前の理屈に合わせる前に、こいつの『熱』が俺を焼き殺しちまう。……付き合いも、ここらが限界だ」
忍は、抜刀された『十六夜』の切っ先が自分の喉元に触れるその刹那、意識を「自分」から切り離した。
大伴の「正統」たる身体操作と、零の作りかけの「帯」が、意図せぬ、そして理論外の共鳴を起こす。
半蔵の刃が、忍の首筋を確かに捉えた――はずだった。
だが、そこにあるはずの「肉の抵抗」が、唐突に消失する。零が設計した『非干渉型・因果触媒』が、忍の「どうでもいい」という無意識に反応し、半蔵の刃が持つ「斬る」という意志を、忍という構造体の外側へと強制的にスライドさせたのだ。
「――っ!? 斬り応えがないだと……!?」
半蔵の瞳に驚愕が走る。
手応えは「空」。しかし、目の前には確かに大伴忍が立っている。
半蔵は止まらない。一度狂った世界の歯車を力任せに回すように、流れるような、しかし一撃一撃が地響きを伴う連撃を叩き込む。袈裟斬り、逆風、そして心臓を穿つ突き。そのすべてが、大伴忍という実体を捉えながらも、深い霧の中を斬るように虚空を彷徨い、背後のコンクリート柱だけを無惨に粉砕していく。
「……お前の刃は、相変わらず重いな、半蔵。……そして、相変わらず『正解』を探しすぎだ」
忍が、刃の暴風域の中で静かに、溜息混じりに囁いた。
忍は、右腕に巻き付いていた帯を、鬱陶しい枷を外すように振り払う。零の理論上では「世界の側を矯正する」はずのその帯が、忍が意志を乗せて振るった瞬間に、大気を結晶化させたような鋭利な、そして絶対的な「質量」へと変貌した。
大伴の血が、零の難解な理論を「自分勝手に」解釈し直した結果。
忍が放った「帯」の一撃は、半蔵の『十六夜』の側面を叩き、地下ドック全体を震わせる金属音を爆発させた。
「ぐっ……、この、理不尽な重さは……!」
「零が言ってたろ。お前の完成は『狭い』んだよ。……俺たちは、もっと広い場所で、ただのガキみたいに殴り合えばよかったのかもな」
忍の拳が、防御を崩された半蔵の胸元に吸い込まれるように迫る。
半蔵は逃げなかった。あえてその拳を、己の骨が砕けるのを覚悟で受け止めるように前に出た。
拳と刃が、肉と鉄が、剥き出しの意志として交錯する。
その瞬間、二人の脳裏に、あの十年前の「挨拶」の光景が、かつてない鮮明さで蘇った。
冷たい畳の感触。窓から差し込む、埃の舞う西日。
自分を見つめていた、あの時の少年の――すべてを諦めたようでいて、すべてを見通していたあの目。
半蔵は、初めて理解した。
自分が求めていたのは、国家の完成でも、服部の再興でもない。
ただ、自分を「Error」として置き去りにし、平然と日常の中に消えていったこの大伴忍という男を、自分と同じ「血の通った苦しみ」の場所まで引き摺り下ろし、対等の男として、その熱を確かめたかっただけなのだ。
「……大伴、まだだ! まだ私は……貴様に、置いていかせるわけにはいかない!」
半蔵の咆哮と共に、地下ドックの照明がすべて破砕した。
完全な暗黒が支配する世界。
その中で、零の持つタブレットだけが、忍の身体から発せられる「理論を超えた熱量」と、半蔵の放つ「執念の輝き」を、観測不能の限界値として記録し続けていた。
「……いいわよ。もっと壊しなさい、二人とも。その壊れた理論の破片からしか、私の『本当の真理』は見えてこないんだから」
零の狂気的な呟きが、暗闇に不気味な期待を伴って溶けていく。
王女リヴィアは、ただ、その闇の中で激突し続ける二つの火花を、救いを見出すように――あるいは、この世の終わりを見つめるように、瞳に焼き付けていた。
第2部。
「完成」を捨てた服部と、「理論」を弄ぶ大伴。
交わるはずのなかった二つの線が、国家という地図をはみ出し、血まみれの結び目を作ろうとしていた。
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