第9話:潜伏と、理論の再定義
政府という巨大な機構が、その全機能を「一人の高校生」を抹殺するために稼働させ始めた。
深夜。都心の喧騒から遠く離れた、古い臨海地区の工業地帯。かつて九十九家が大伴家の影で「禁忌の試作」を繰り返していたという、廃材の山に隠れた地下ドックに、忍たちの姿はあった。
海水と錆びた鉄の臭いが混ざり合う、薄暗い地下室。
零は到着するや否や、埃を被った旧式のサーバーを起動し、狂ったようにキーボードを叩き始めた。
「……あはは! 最高、本当に最高だわ! 国家の全通信網が『大伴忍』っていうノイズを排除するために悲鳴を上げている。忍くん、君は今、この国で最も価値のある『バグ』になったのよ」
零の背中越しに映る複数のモニターには、政府の監視衛星が捉えた熱源探査データや、服部家が展開する特殊部隊の配置図が、幾何学的な模様となって踊っている。しかし、彼女の視線が本当に追いかけているのは、逃走ルートではなく、忍が先ほど見せた「無位」の境地――理論を超越した肉体のログだった。
「忍くん、さっきの『空蝉』。あれは認知のバグじゃない。……空間そのものが、君を『観測すること』を諦めたんだわ。私のこれまでの理論は、まだ君を『物質』として扱いすぎていたのね」
零は、自らの頬を紅潮させ、一心不乱に新たな設計図を引き始めた。
彼女の独自理論は、敗北を経て、より先鋭的で、より狂気的な領域へと足を踏み入れようとしていた。
「……なぁ、零。さっきから黙って聞いてりゃ、また俺を実験台にする気満々だな」
忍は、冷たいコンクリートの床に座り込み、深く溜息をついた。
傍らでは、リヴィア王女が毛布に包まりながら、不安げに二人を見つめている。彼女が持っていたペンダントは奪われ、いまや彼女を守る公的な盾はどこにもない。あるのは、政府を敵に回した「正統」の少年と、常識を捨てた「異端」の少女だけだ。
「当たり前でしょ。君が『正統』を脱ぎ捨てようとするなら、私はその先にある『虚無』を武装させる。……忍くん、これまでの手甲は捨てていいわ。あれは、君の『不自由』を加速させるためのものだった。でも、次に作るのは違う」
零がモニターに映し出したのは、一本の細い帯のような、歪な形状の「布」だった。
それは防御のためでも、攻撃のためでもない。
「独自理論:『非干渉型・因果触媒』。……君の動きを助けるんじゃない。君の周囲にある『空気』や『地面』、果ては『敵の意志』が、君を邪魔しないように強制的に調律するための、世界の側(そば)を矯正する道具よ」
「……ますます、意味が分からなくなってきたぞ」
忍が苦笑する。
彼にとって、零の理論は常に「面倒な付き合い」だ。だが、そのガラクタのような理屈に付き合っている間だけは、自分が背負わされた「四十代目」という重い宿命から、わずかに自由になれる気がしていた。
その時、地下室の厚い鉄扉が、外部からの衝撃で微かに軋んだ。
会話が止まる。
忍の耳には、訓練された足音が近づく気配が届いていた。それは、先ほどの黒服たちのような凡才の足音ではない。より重く、より迷いのない、鋼の意志を宿した足音。
「……来たか。早いな、半蔵」
扉の向こう側から、聞き慣れた声が響く。
「大伴。……逃げ場はない。この廃工場は、既に政府の『結界忍法・鳥籠』によって、物理的・情報的に完全に隔離された」
扉がゆっくりと開き、蒸気の中から服部半蔵が現れた。
だが、その姿は先ほどまでとは一変していた。
政府から支給された最新鋭のタクティカル・スーツを、彼は自らの手で剥ぎ取っていた。露出した鍛え上げられた上半身には、びっしりと古式忍法の封印呪紋が刻まれ、その手には振動刃ではない、鈍い輝きを放つ真剣――服部家伝来の『十六夜』が握られていた。
「国家の兵器としてではなく、服部二十代目として、貴様を討つ。……大伴忍、貴様が『無』であるというのなら、私は『絶対の有』として、その存在を歴史ごと切り捨てる」
半蔵の瞳には、もはや焦燥も迷いもなかった。
彼は政府に絶望し、そして同時に、政府の枠組みを捨てることで、忍と同じ「正統の闇」に足を踏み入れたのだ。
「……あーあ。せっかくの隠れ家が、一晩も持たなかったな」
忍がゆっくりと立ち上がる。
彼の周囲で、零が即席で展開した実験用ドローンが唸りを上げ、開発途中の「非干渉の帯」が、忍の右腕に吸い付くように巻き付いていく。
「付き合ってやるよ、半蔵。……お前のその、暑苦しいプライドにな」
暗い地下ドックで、宿命を背負った二人の男が、ついに「国家」という枷を外して対峙する。
零は、その光景を狂喜の表情でタブレットに収め始めた。
理論と正統、そして完成と伝統。
すべてが混ざり合い、物語は第2部「構造の補正」へと、激しく加速していく。
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