第7話:『終』の始まり
校庭に降り積もった静寂を、冷たい夜風が撫でていく。
粉々に砕けた手甲の破片を背に、忍は暗闇が澱(よど)む廊下の奥へと足を進めた。半蔵はまだ床に膝をついたまま、震える手で折れかけた振動刃を握りしめている。その最新鋭の兵器は、もはや彼を支える「杖」としての機能すら果たしていなかった。
「……待て、大伴。奥には、まだ『奴ら』の本体が……」
「半蔵、座ってろ。お前の理論(スペック)じゃ、あそこの空気は吸えない」
忍の言葉には、蔑みも同情もなかった。ただ、事実を事実として述べる「正統」ゆえの残酷な平熱があった。
理科準備室の扉は、跡形もなく吹き飛んでいた。
室内の精密機器は、すべてが磁気嵐にでも曝されたかのように機能を停止し、零が心血を注いだホログラムディスプレイだけが、断末魔のようなノイズを撒き散らしている。
その破壊の中心に、一人の男が立っていた。
男は装束を纏っていない。仕立ての良い漆黒の三つ揃いのスーツを、夜の闇そのもののように着こなしていた。
男の名は――九頭竜(くずりゅう)。『八咫烏』を統べる者にして、かつて服部と大伴の影で「忍の記録」を管理してきた一族の末裔だ。
「四十代目。ようやく、その剥き出しの貌(かお)を見せてくれたな」
九頭竜の足元には、恐怖で声を失った王女リヴィアが崩れ落ちていた。男の手には、先ほど零が解析していたあのペンダントが握られている。
「大伴忍。君の家系が聖徳太子の時代から守り抜いてきたのは、日本という国ではない。……『忍』という、歪な力の連鎖を終わらせるための、最後に振り下ろされるべき断頭台の役目だ」
「……そのために、姫さんを攫(さら)おうとしたのか?」
忍が問い返す。手甲を捨てたその拳は、だらりと脱力したまま、しかし世界そのものを握り潰せるような静かな威圧感を放っていた。
「攫う? 違うな。彼女は『捧げ物』だ。このペンダントの中に封印された大伴の真理を起動させるための、高純度な因果の鍵。……君がその『業』を継ぐことを拒むなら、私が代わりに、この世界から忍という概念を根絶やしにしてやろうと思ってね」
九頭竜が指先を弾く。
瞬間に、理科準備室の空間が物理的に捻じ曲がった。
それは零の「独自理論」に似て非なる、歴史という重みが作り出す「因果の檻」だ。
「忍くん、逃げて……! その男、私の数式が……私の理論が、存在自体を否定してる! 『そこにいないはずのもの』が、そこに立ってるのよ!」
背後で、零が初めて恐怖に染まった声を上げた。
彼女の「理論」は、この世に存在する物理現象を前提としている。だが、九頭竜が展開しているのは、物理を越えた「意味の侵食」だった。歴史から忘れ去られた者たちが抱く、千年分の怨嗟(えんさ)。
忍は、ゆっくりと一歩を踏み出した。
「……零。お前の理論は、世界を正しくしようとしすぎる。……だから、あんな奴の『出鱈目(でたらめ)』に驚くんだ」
忍の身体が、再び消えた。
九頭竜が展開する因果の檻を、忍は「避ける」のではなく、「ただの景色」として通り抜けた。
「何……!?」
九頭竜の端正な顔が、驚愕に歪む。
彼が放った「忍の歴史を消去する一撃」は、忍という男をかすめることすらできなかった。
大伴忍は、歴史に縛られていない。
四十代目という重荷を背負いながら、彼はそのすべてを「どうでもいいこと」として切り捨てていた。期待も、使命も、絶望も。
ただ、幼馴染が作ったガラクタに付き合い、不器用なライバルの無様を眺め、目の前の面倒事を片付ける。
その「徹底した日常性」こそが、大伴家が千四百年かけて辿り着いた、あらゆる術(わざ)を無効化する究極の心身、――『無位(むい)』の境地だった。
「……お前の歴史の話は、長すぎる。俺の身体が、飽きてるんだよ」
忍の拳が、九頭竜の鼻先に突きつけられる。
当たれば、死ぬ。
九頭竜はその瞬間、悟った。この四十代目当主は、忍を終わらせるために立ち上がったのではない。
彼は、ただ「終わらせること」すら面倒だから、目の前の敵を殴るのだ。
「……フ。ハハハ……! 素晴らしい! これぞ、聖徳太子の求めた『和』の正体か! 執着を捨て去り、ただそこに在るだけの破壊神!」
九頭竜は笑いながら、ペンダントを高く掲げた。
「だが大伴、これで終わりではないぞ。服部が、政府が、そして世界が、君のその『無』を放っておくはずがない。……今日という日が、君の平穏という名の『助走』の終焉だ」
ペンダントが眩い光を放ち、九頭竜の姿を夜の闇へと溶かしていく。
後に残されたのは、震えるリヴィアと、ひび割れた床。
そして、己の理論が敗北したことを確信し、それでもなお忍を熱っぽく見つめる零の視線だけだった。
「……忍くん。今の動き、後で絶対、一秒一コマずつ解析させてね」
「……嫌だって言っても、やるんだろ、お前は」
忍は、ようやく長い溜息をついた。
廊下からは、傷ついた誇りを引きずる半蔵の、重い足音が近づいてくる。
物語は、ここから本格的な「連鎖」を開始する。
大伴忍という不確定要素を中心に、世界という巨大な装置が、音を立てて狂い始めていた。
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