第6話:服部の焦燥、大伴の覚醒

 校舎の廊下は、もはや学び舎の静謐を失っていた。

 天井の蛍光灯が不規則に明滅し、スプリンクラーから漏れ出した水が、半蔵の足元を濡らす。その水面に映る彼は、国家の威信を背負った「完成された兵器」の姿そのものであった。


 だが、半蔵の網膜に投影されるARディスプレイには、無情な警告文字が羅列されている。

『警告:対象の移動アルゴリズムを解析不能。装備の出力最適化に失敗しました』


「……馬鹿な。この私が、予測を外すだと?」


 半蔵の前に立つのは、装束の隙間から古びた機械の駆動音を漏らす『八咫烏』の精鋭部隊だ。彼らは政府の技術体系とは全く異なる、呪術的とも言える古式忍法を現代の暗殺技術に組み込んでいた。半蔵が振るう振動破砕刃は、その超高周波の唸りによってあらゆる物質を分子レベルで断ち切るはずだった。しかし、敵の放つ不規則な鋼糸の結界は、振動の波形を完全に相殺し、刃を虚空へと弾き返す。


 半蔵の息が上がる。スーツ内部の人工筋肉が過負荷で熱を持ち、皮膚を焼くような痛みが走る。

「くそっ、これ以上の出力は……!」

 合理性を極めたはずの最新兵器が、理解不能な「異端」の前に、ただの重い鎧へと変わり果てていく。半蔵の瞳に宿るのは、任務への忠誠心ではなく、自分の存在基盤が崩れ去ることへの、剥き出しの焦燥だった。


 その時、廊下の突き当たりから、重く、しかし軽やかな足音が響いた。

 大伴忍だ。

 彼は、ひび割れた黒い手甲を装着したまま、散乱する瓦礫を厭わずに歩いてくる。その後ろには、タブレット端末を叩きながら、狂気的な笑みを隠そうともしない九十九零が続いていた。


「忍くん、今の半蔵くんの敗因はね、計算式の変数が『国家』という狭い枠組みに縛られているからよ。……でも、君ならもっと広い空虚(ゼロ)を見せてくれるんでしょ?」

「……零。お前の理論、さっきからノイズが混じってるぞ。俺の鼓動と合ってない」


 忍は、半蔵の横を通り抜けようとした。

 その肩を、半蔵の血に濡れた手が掴む。


「待て、大伴……! 行くな。貴様の装備も、その女のガラクタも、もはや通用する相手ではない。引くんだ。増援を待てば、政府の重火器が……」

「半蔵」

 忍が、静かにその手を振り払う。

「お前、さっきから何と戦ってるんだ? 目の前の敵か。それとも、自分の『道具』が役に立たないっていう現実か」


 その一言は、半蔵の誇りを粉々に砕いた。

 忍の瞳には、かつて十年前、廃神社の畳の上で見たあの「空虚」が、より深く、より静かに湛えられていた。


 敵の暗殺者が、同時に三方向から跳躍する。鋼糸が網のように広がり、忍の退路を完全に断つ。半蔵の視点では、それは回避不能、防御不能の絶望的な包囲網だった。


「忍くん、展開して! 私の『重力偏位理論』の極小出力を――」

「悪いな、零。……それだと、遅すぎる」


 忍の身体から、一切の「気配」が消失した。

 零の理論、半蔵のセンサー、敵の殺気。それらすべての「尺度」から、大伴忍という存在が脱落した瞬間だった。


 忍は、ただ一歩、前に出た。

 手甲のスイッチは入っていない。零が構築した「高次理論」の回路は、今やただの死んだ導線に過ぎない。

 だが、忍が腕を振るった瞬間、空気が物理的な壁となって爆ぜた。


 大伴家秘伝――『無拍子(むびょうし)』。

 動作の始まりも終わりも持たず、ただ「結果」だけが戦場に出現する。

 鋼糸は忍の肌に触れるよりも早く、彼が放った「拳圧の余波」だけで霧散した。忍の拳は、零が設計したエネルギー収束の計算式を遥かに超え、大気の抵抗そのものを「正統の意志」でねじ伏せていた。


 一撃。

 ただの正拳突きが、暗殺者の腹部を捉える。

 防弾繊維も、強化プラスチックのプロテクターも、大伴の血が運ぶ「歴史の質量」の前には無力だった。敵の身体がへの字に折れ曲がり、廊下の壁を三枚貫通して、校庭の土煙の中へと消えていく。


「……ありえない」

 半蔵が、膝をついたまま呟く。

「道具……なしで。ただの突きが、最新の振動刃を凌駕したというのか……?」


 忍は、粉々に砕けた手甲の破片を、無造作に床へ捨てた。

「零。お前の理論は確かに美しかった。でも、俺の身体が求めていたのは、もっと……単純なことだったみたいだ」


 零は、手元のタブレットが「計測不能」の警告を出しているのを見て、悔しそうに唇を噛んだ。しかし、その瞳には忍への深い羨望が混じっている。

「……悔しいわね。私の最高傑作(理論)を、君のその古臭い血筋が、たった一撃で踏み潰しちゃうなんて」


 忍は、まだ無傷のまま、暗闇が広がる廊下の奥を見つめた。

 そこには、今回の襲撃を仕組んだ「本当の敵」の気配があった。

 

「行くぞ。……姫さんが待ってる」


 半蔵は、もはや立ち上がることすらできなかった。

 自分の背負ってきた「完成」が、忍の「覚醒」によってただの子供騙しに成り下がった現実。その格差が、物理的な傷よりも深く、彼の魂を削り取っていた。


 聖徳太子の時代から続く「正統」は、今、理論という名の鎧を脱ぎ捨て、剥き出しの神話へと回帰しつつあった。

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