第3話:理科準備室の不可侵条約

 硝煙と血の臭いが漂う廊下を後にし、忍たちは「理科準備室」へと引き揚げた。

 そこは、鉄錆と油の臭い、そして最新の計算機が吐き出す熱気が混ざり合う、九十九零の絶対領域だ。半蔵は警戒を解かず、振動刃を収めたホルダーに手をかけたまま、嫌悪感を隠さずに室内の光景を睥睨した。


「……掃き溜めだな。政府の基準なら、一秒で閉鎖される違法ラボだ」

「あら、最高の褒め言葉ね。政府の基準なんて、思考停止した凡才たちが決めた『安全な停滞』でしょ?」


 零は半蔵の冷徹な視線を意に介さず、作業台に無造作に置かれたモニターを指先で弾いた。画面には、先ほどの戦闘で忍が放った衝撃波のログが、既存の物理学では説明のつかない歪な波形として表示されている。


「忍くん、さっきの第三撃。腕の角度が理論値より〇・二度低かった。そのせいで衝撃の収束が甘くなって、余計な熱エネルギーが逃げちゃったじゃない。私の理論を台無しにしないでくれる?」

「……こっちは殺し合いの最中だったんだよ。零の理論通りに動くには、俺の関節をあと三つくらい増やしてくれないと無理だ」


 忍は辟易とした表情で黒い手甲を外した。

 装着部には、理論の「代償」としての鬱血が走っている。零の道具は、使う側の肉体を一切考慮していない。ただ、彼女の頭の中にある「完全な物理現象」を現界させるためだけに、装着者の身体を無理やり数式の部品へと変質させるのだ。


「……大伴」

 半蔵が、重い口調で忍の名を呼んだ。

「貴様、いつまでその狂人の遊びに付き合っている。その実力、そして大伴の名……政府に降れば、最新の環境と地位が約束される。そんなガラクタを纏って命を削る必要などないはずだ」


 半蔵にとって、忍の強さは「無駄遣い」に他ならなかった。

 国家の庇護下にある服部家から見れば、一族の「正統」を、どこの馬の骨とも知れぬ少女の独自理論のために使い潰す忍の姿は、正視に耐えない侮辱に映る。


「ガラクタ、か」

 忍は、赤く腫れた自分の手首をさすりながら、窓の外を見つめた。

「半蔵、お前は『道具』に意味を求めるよな。でも俺にとっては、これはただの『付き合い』なんだ。零が作ったものを、俺が使う。そこに理由も、国家の利益もない。……ただ、これを使える奴が、俺以外にいないっていうだけだ」


 その言葉は、半蔵が信じる「忍=国家の道具」というアイデンティティを根本から否定するものだった。


 その時、それまで沈黙を守っていた王女リヴィアが、忍の前に歩み出た。

 彼女の華奢な指先が、忍の外した手甲に、恐る恐る触れる。


「……美しいわ。これには、魂の匂いがする」


 リヴィアの声は微かに震えていた。彼女は半蔵の完璧な護衛に感謝などしていなかった。彼女が求めていたのは、強固な盾ではなく、運命という閉ざされた扉を「理不尽な力」でこじ開ける、破壊の象徴だったのだ。


「忍様。私は、大伴の当主に会えば、この国に留学した目的が果たせると聞かされてきました。……でも、違いました。私が探していたのは、大伴の歴史ではなく、あなたのその『身勝手な強さ』です」


 リヴィアは懐から、一つの古びたペンダントを取り出した。

 それを見た瞬間、零の瞳が初めて「理論」以外の熱を帯びて輝く。


「……あら、面白そう。そのペンダントの内部構造、私の『特異点観測理論』の第四項の証明に使えるかもしれない。忍くん、これ借りてもいい?」

「零、勝手に話を進めるなよ。……それは姫さんの大事なもんだろ」


 半蔵が割って入ろうとしたが、それより早く零がペンダントを奪い取り、怪しげなスキャナーに放り込んだ。

 

「解析……開始。ふふ、忍くん、やっぱり君は私の最高の検体だわ。このペンダントの中に隠された情報の『鍵』、解くためには君の身体をあと数回、死ぬ寸前まで追い込む必要があるみたい」


「おい、零……」


 忍の溜息が、夜の理科準備室に溶けていく。

 半蔵の殺気、姫の期待、そして零の独走。

 聖徳太子の時代から続く「正統」の末裔は、押し寄せる因果の波に翻弄されながらも、まだ自らの「本気」をどこにも置けずにいた。


 窓の外、月明かりが忍の影を長く引き伸ばす。

 その影は、まだ誰の理論にも、誰の刃にも染まっていない、圧倒的な虚無を孕んでいた。

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