最終話:黄金の毛並み、届いた指先
嵐が去った後の朝は、残酷なほどに透き通った青空だった。
団地の地面には折れた枝やゴミが散乱し、僕の城である軒下も、泥水に浸かって見るも無惨な状態だった。けれど、僕は一歩もそこを動かなかった。一晩中、あごの下に抱え込んでいた「包み」は、僕の体温と吐息で生温かくなっていた。泥と雨の混じった匂いの中に、かすかにおばあちゃんの部屋の、あの古い石鹸のような香りが混ざっている。
団地が騒がしくなったのは、太陽が真上に昇り、濡れたコンクリートが白く乾き始めた頃だ。
「里子さん! 里子さん、開けてください! 窓が開きっぱなしですよ! 下まで水が漏れてるんだ!」
自治会長の苛立った声が三階に響く。やがて、救急車のサイレンが遠くから近づき、重い足音が階段を駆け上がっていった。
「鍵がかかってないぞ。おい、入るぞ!」
激しい音を立ててドアが開く。その直後、張り詰めた沈黙が団地を支配した。
それは、ただの静寂じゃなかった。何かが決定的に、修復不可能なほどに失われたことを告げる、冷たい空白だった。
僕は震える足で、一歩、また一歩と軒下から這い出した。
口には、あのおばあちゃんの人生そのものと言える重い包みを咥えている。僕は震える足で、階段を上った。一度も足を踏み入れたことのない、禁断の領域。二階の踊り場を過ぎ、心臓の鼓動が耳元で鳴り響く中、三階へ。
三〇五号室。おばあちゃんの部屋の玄関前には、警察官や数人の住人が集まっていた。
「……孤独死か。持病があったのに、この嵐の中、ベランダで何をしていたんだ」
「窓を開けっ放しにして、冷え切っていたそうですよ。まったく、最後まで迷惑な……」
住人たちの無慈悲な言葉が飛ぶ。僕は彼らの足元をすり抜け、開いたままのドアの前に立った。そして、泥だらけになったあの包みを、おばあちゃんの靴が一足だけ置かれた玄関に、そっと置いた。
「なんだ、この猫……。それに、この荷物は?」
駆けつけたお母さんの親戚――美津子お母さんの従姉妹だという女性が、怪訝な顔で包みを解いた。
中から出てきたのは、ボロボロになったた何枚もの千円札。そして、表紙が擦り切れた一冊の小さなノート。
親戚の女性が、震える手でそのノートをめくった。
「……これ、全部日記だわ。あの子のことばかり書いてある」
彼女が読み上げる声が、廊下に集まった住人たちの耳に届く。その一文字一文字が、鈍色の空気を震わせた。
『○月○日。今日もマメにちくわを投げた。住人の視線が痛い。でも、これでいい。私が「気味の悪い餌やり婆」でいれば、あの子は人間に媚びることなく、私の元へ来ることもない。もしあの子が私に懐いていると知られれば、あの子は連れて行かれてしまうだろう。美津子、私を恨んでいるかい。あの子に一度も触れてやれない私を』
『○月○日。マメの火傷のあとが膿んでいる。胸が張り裂けそうだ。薬局で一番高い軟膏を買った。パンに塗り込んで投げたけれど、あの子は食べてくれただろうか。抱きしめて、傷を洗ってやりたい。でも、私の指先にはあの日の火の匂いが染み付いている気がして、触れるのが怖いんだ。あの子の痛みを、私の手が思い出させてしまうのが怖い』
『○月○日。管理組合が最後通告に来た。立ち退きを迫られても構わない。ただ、マメの行き先が決まるまでは死ねない。自分の葬式代として貯めていた金は、全部あの子を保護してくれる施設への寄付にするつもりだ。私は、あの子が太陽の下で、誰にも気兼ねなく昼寝ができる日を、ただそれだけを願っている』
日記を読み上げる声が、次第に涙で詰まっていく。
廊下に集まっていた住人たちの間に、波紋のように静寂が広がった。僕を「汚い」と罵り、おばあちゃんを「狂人」だと吐き捨てた自治会長が、その場に力なく立ち尽くしていた。
彼女がベランダから投げ続けていた「嘘」の正体。
それは、自分という盾をボロボロに削り、自分一人が泥を被ることで、たった一匹の猫の命を守り抜こうとした、あまりにも不器用で、孤独なたたかいの記録だった。
僕は開いたドアの隙間から、部屋の中を見た。
白い布を被せられたおばあちゃんが、ストレッチャーに乗せられていく。
その時、揺れに合わせて布の端から、彼女の手がこぼれ落ちた。
シミだらけで、節くれだった、あの日、空中で止まったままだったあの手。
僕は誰にも止められず、その手のもとへ歩み寄った。
そして、冷たくなった彼女の指先に、自分の首筋を――あの緋色の勲章を、そっと押し当てた。
おばあちゃん。
見てよ。やっと触れたよ。
あなたの手は、ちっとも汚くない。僕の傷も、もう熱くないよ。
あなたが守ってくれたから、僕はまだ、ここにいられるんだよ。
数ヶ月後。
僕は団地から遠く離れた、緑豊かな丘の上の家にいた。
日記を読み、すべてを悟ったお母さんの親戚の女性が、僕を家族として迎え入れてくれたんだ。
僕の首筋には、もう赤茶けた肌は見えない。おばあちゃんが遺してくれた薬と、新しい家族が毎日欠かさず撫でてくれた手のおかげで、そこには驚くほど柔らかく、光り輝く黄金色の新しい毛が生え揃っていた。
僕は窓辺で、黄金の毛並みを午後の柔らかな光に輝かせながら、空を見上げる。
そこにはもう、ちくわを投げてくれる人はいない。罵声を浴びせる人も、不機嫌そうな顔で身を乗り出すおばあちゃんもいない。
けれど、僕は今でも感じるんだ。
風が僕の新しい毛を優しく揺らすたび、それはあの嵐の夜、届かなかったはずの彼女の指先が、空から僕を祝福してくれているのだと。
空から降ってくるのは、もう、僕たちを引き裂く嘘じゃない。
「よく頑張ったね、マメ」という、おばあちゃんの誇らしげな微笑みだ。
僕は、彼女が守り抜いてくれたこの命を、黄金の勲章のように誇らしく輝かせて、ゆっくりと、幸せな夢の中へと瞳を閉じた。
(完)
空から降る嘘、軒下で拾う愛 〜 嫌われ老婆が野良猫にちくわを投げ続けた理由 〜 空飛ぶチキンと愉快な仲間達 @sabanomisoni0730
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