第四話:嵐の咆哮と、空から降る命
その夜、世界は終わりを告げるような響に包まれていた。
空は黒い紫色に濁り、史上最大級という台風が、団地の古いコンクリートを剥ぎ取らんばかりの勢いで襲いかかってきた。
一階の軒下にいた僕の所にも、横殴りの雨が容赦なく吹き込んでくる。風は唸り声を上げ、どこかで何かが破壊される乾いた音が響く。住人たちは恐怖に震えながら、雨戸をこれ以上ないほど固く閉ざしていた。
けれど、僕がずっと見上げ続けている三階のあの部屋だけは、死んだように静まり返っていた。灯り一つない窓は、闇を映す鏡のように冷たかった。
僕は震えていた。寒さのせいじゃない。
三階から漂ってくる、あの不吉な「静寂」に、野生の血が激しく警鐘を鳴らしていたんだ。
おばあちゃん。ねえ、おばあちゃん。
僕は心の中で何度も叫んだ。皮膚病の首筋が、雨水に濡れてヒリヒリと痛む。でも、そんな痛みはどうでもよかった。
その時だった。
暴風の唸りを切り裂くように、ガタッ、と三階のベランダのドアが開く音がした。
僕は泥だらけの体を引きずり出し、激しい雨に打たれながら上を見た。
そこには、暴風に今にも吹き飛ばされそうな、里子おばあちゃんの影があった。
彼女はパジャマの上に古いコートを羽織っただけの姿で、白くなるほど強く手すりにしがみついている。その細い体は、まるで枯れ葉のように脆く見えた。
「マメ……! マメ、そこにいるのかい!」
風にかき消されそうな、けれど、魂を振り絞るような叫び。
彼女の腕には、古びたハンカチに包まれた、ずっしりと重そうな「包み」が抱えられていた。
「拾いなさい! それを、絶対に離しちゃいけないよ! あんたの、あんたの命なんだから!」
おばあちゃんの手から、包みが放たれた。
それは雨の壁を突き抜け、重力に従って僕のすぐ近くの泥濘に落ちた。
ドサリ、という重苦しい音。
包みの隙間から、何重にもビニールに包まれた通帳と、一通の手紙、そして、あの高級な軟膏が覗いていた。
さらに、一枚の紙片が風に舞い、僕の鼻先に張り付いた。
それは、お母さんの家で撮った、色褪せた写真だった。お母さんの膝の上で、首に傷のない僕が、幸せそうに目を細めている。
僕は夢中で包みを咥えた。重い。泥の味と、おばあさんの部屋の古い匂いが混ざり合う。
見上げると、おばあちゃんは手すりから力なく崩れ落ち、ベランダの冷たい床に膝をついていた。
彼女の唇が、音もなく動くのを僕は見た。
「……ごめんね、マメ。抱きしめてあげられなくて。……美津子のところに、もうすぐ行くよ」
それが、彼女との最後の対話だった。
彼女の指先が、最後に一度だけ、僕に向かって空を切った。
それは撫でるためではなく、僕をこの絶望的な嵐から「押し出す」ための、最後の突き放しだったのかもしれない。僕が彼女に縛られず、新しい世界へ行けるように。
嵐はさらに激しさを増し、三階の影は、部屋の奥へと消えていった。
僕は包みを離さなかった。
泥水を啜り、風に体を煽られ、何度も転びそうになりながらも、僕はその「命の重み」を軒下の奥深くに運び込んだ。
首筋の火傷のあとが、激しく熱を持つ。
あの日、燃え盛る家の中でお母さんの袖を引っ張っていたあの夜と同じ、命を繋ぎ止めようとする必死の熱さが。
おばあちゃん。
ちくわなんて、もういらない。
薬も、ミルクも、写真だって、本当はいらなかった。
ただ、一度でいいから、その震える指先で、僕の首を撫でてほしかった。
「汚くないよ」って、「生きてていいんだよ」って、その声で言ってほしかったんだ。
僕は暗闇の中、濡れた包みを抱きしめて丸まった。
三階からは、もう何の音も聞こえてこない。
空から降るものは、冷たい雨と、おばあさんが最後に遺した、あまりに重すぎる愛の記憶だけだった。
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