第三話:嵐の前触れと、泥を啜る正義


団地の掲示板に、僕の姿が貼られたのは、湿り気を帯びた風が街の匂いを変え始めた日のことだった。



無機質な画鋲で四隅を留められたその紙の中で、僕は首筋の赤い皮膚を無防備に晒し、うずくまっていた。誰かが物陰から、盗み撮りしたのだろう。



『害獣および感染症を媒介する野良猫の駆除について』



そんな太い見出しの下に、誰かが赤いマジックで大きくバツ印を書き込んでいた。



住人たちはその前を通るたびに、まるで腐敗した生ゴミでも見るような嫌悪を、僕の住処。一階の軒下へと投げつけていく。



「不潔ね」



「子供にうつったらどうするの」



「あの意地悪な婆さんが餌をやるから居着くんだわ」



彼らの言葉は、雨樋を伝う泥水のように僕の心に溜まっていった。



その日の午後。



静まり返っていた団地が、突然、地鳴りのような怒号で震えた。



自治会長を筆頭にした数人の人間たちが、里子おばあちゃんの部屋へ押し寄せたのだ。



一階の軒下にいた僕の耳には、コンクリートの壁を振動として伝わってくる三階の罵声が、逃げ場のない叫びとなって響いた。



「いい加減にしてください、里子さん! あの猫は明らかに病気だ。保健所に通報するのが、この団地の住人の総意、つまりは『正義』なんですよ!」



「ふん、正義だって? 笑わせるんじゃないよ!」



おばあちゃんの声が響く。いつもよりずっと鋭く、張り詰めた弦が今にも弾けそうなほど、悲痛な響きを帯びていた。



「あんたたちの言う『綺麗』ってのは、自分たちと違うものを踏みつけて作るもんだったかね! 美津子が生きていたら、あんたたちのその卑しい顔に痰を吐きかけているところだよ!」



美津子。それは僕の「お母さん」の名前だ。



彼女の名前が出た瞬間、三階の空気が凍りつくのが分かった。



住人たちは、里子おばあちゃんがかつて火事で親友を亡くしたことを知っている。それを盾に使う彼女を「狂った老人」として片付けようとしていた。



「生活保護を受けている身で、よくもまあそんな傲慢な。あなたの滞納している管理費のことも、組合では問題になっているんですよ。その金があれば、猫にエサを投げる余裕なんてないはずだ!」



一言一言が、石礫となっておばあちゃんを打ちのめしていく。



僕は軒下の暗がりに鼻先を突っ込み、ただ震えていた。



おばあちゃん、ごめんなさい。僕がここにいるせいで、おばあちゃんが怒られている。おばあちゃんが、ご飯を食べられなくなってしまう。



僕が、汚いから。僕が、生きているから。



ドシン、と重い衝撃音がして、ドアが乱暴に閉められる音がした。



嵐のような沈黙が三階を支配したあと、ベランダのアルミ柵がガタガタと鳴った。



僕は顔を上げ、どんよりとした空を見上げた。



そこには、いつものように身を乗り出す里子おばあちゃんの姿があった。



でも、その手は白くなるほど柵を握りしめ、顔は幽霊のように真っ青にやつれ果てていた。彼女は住人たちの前では毅然と振る舞いながら、その実、心はボロボロに引き裂かれていたのだ。



落ちてきたのは、ちくわじゃなかった。



小さな容器に入った、温かいミルクだ。



よく見ると、彼女の指先は震え、点々と赤い血が滲んでいた。住人たちと揉み合ったときに、どこかをぶつけたのだろうか。



「マメ、飲みなさい。……今のうちに、お腹いっぱいにするんだよ。ごめんね、不甲斐ないばあさんで」



おばあちゃんの声が、雨を含んだ湿った風に乗って、僕の耳をかすめた。



彼女の頬を伝い落ちる雫は、雨なのか、それとも。



彼女は僕を見下ろしながら、何かを悟ったような、ひどく静かで冷徹な決意を瞳に宿していた。



僕は容器に顔を寄せ、温かなミルクを啜った。



お腹の底がじんわりと温かくなるけれど、胸の奥はざわざわと騒がしい。



ミルクの白い液体に、彼女の涙が一滴、混ざったような気がした。



その夜。団地が寝静まった頃、僕は三階の窓をじっと見つめていた。



おばあちゃんの部屋は、灯りもつけずに真っ暗だった。



電気代さえ惜しんでいるのだろうか。



でも、静寂の中に、ペンが紙の上を走るカサカサという乾いた音が微かに混じっていた。



ペンが紙の上を走る音。時折、何かが重なり合う紙の擦れる音。



一階の軒下から見上げる僕には、彼女が何を書いているのかはわからない。ただ、その音と一緒に、彼女の小さな溜息や、祈るような呟きが、夜の湿気を通じてもどかしく降ってくるだけだった。



「……あの子を、マメを、助けて……。美津子、私もう、これ以上は無理だよ……」




途切れ途切れに聞こえる彼女の声は、誰に宛てたものかも知らない。



でも、その時、おばあちゃんがベランダの淵に影のように立ち、暗闇の中にいる僕をじっと見つめている気配だけはわかった。



その視線は、抱きしめることのできない代わりに、僕の全身を包み込もうとしているようだった。




空からは、再び雨が降り始めていた。



彼女の手には、何かを大事そうに抱えた影が見える。


彼女が夜通し何をしていたのか、僕は知る由もなかった。



ただ、紙の音と、彼女の震える吐息が、やがて来る嵐への序曲のように、重く、長く、僕の耳に残っていた。



それが僕の命を繋ぐための「遺言」であったことを知るのは、もっとずっと後のことだ。









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