第二話:届かない指先
季節が移り、団地を湿った梅雨の空気が包み込むようになると、僕の首筋に刻まれた「緋色の勲章」に異変が起きた。
お母さんといたあの夜、火の粉に焼かれた皮膚は、もともと薄くて脆い。そこへ逃げ場のない湿気と、軒下の不衛生な埃がこびりついた。
最初は、小さな痒みだった。前足で少し掻くと、そこからじわりと熱が広がった。次第にその熱は拍動を始め、ドクドクと僕の命を急かすような音を立て始めた。赤く腫れ上がり、一部の肌がジュクジュクとただれ、黄色い膿が黄金色だったはずの毛並みを汚していく。
「見てよ、あの猫。やっぱり病気じゃない。あんな汚いのがうろついてるなんて」
「首のところ、腐ってるわよ。風に乗って変な菌が飛んできたらどうするの?」
頭上から降ってくる住人たちの言葉は、ちくわよりもずっと正確に、僕の心を削り取っていく。
以前は「不気味な火傷の跡」という好奇の目線で済んでいたものが、今は明確な「害悪」としての憎悪に変わっていた。彼らは僕の姿を見るたびに、わざとらしく鼻を突き、持っているカバンを振り回して僕を威嚇した。
そんな中、三階のベランダのドアが、いつにも増して激しく音を立てて開いた。
「うるさいねえ! あんたたちの顔を見てるほうが、よっぽど反吐が出るよ! どっかへ行きな!」
里子おばあちゃんの怒鳴り声だ。彼女は手すりから身を乗り出し、あえて下品な言葉を喚き散らして住人たちを追い散らす。
でも、僕を見下ろす彼女の瞳は、激しい動揺で泳いでいた。
彼女の手から、いつもの新聞紙の包みが落ちてくる。
その日は、いつものちくわの横に、見慣れない小さな金属のチューブが、厳重にビニールで巻かれて添えられていた。
僕はそれを前足で転がしてみた。ツンとした独特の匂いがする。
おばあちゃんは、僕の傷を見て、人間用の薬を薬局で買ってきたのだ。それを僕に「塗ってやりたい」一心で。
けれど、僕は猫だ。自分の首に薬を塗る術なんて持っていない。
おばあちゃんは、ベランダの柵を白くなるほど握りしめ、声にならない声で僕を見つめていた。
見上げた彼女の声は、泣き出しそうなほど震えていた。
本当は、分かっている。
彼女は僕を今すぐにでも抱き上げて、あの三階の部屋へ連れていきたいはずだ。温かいお湯で僕の傷を洗い、清潔なタオルで包み、朝まで僕の喉を撫でてやりたいはずだ。
でも、彼女は絶対に僕を家に入れない。
かつて、僕を家に入れようとした彼女を、自治会長が追い詰めたことがあった。
『もし一歩でもその猫を部屋に入れたら、即刻強制退去の申し立てをしますよ。そうなれば、その猫は保健所に直行だ』
彼女は僕を「飼い猫」としてではなく、「勝手に居着いた不潔な野良猫」として扱うことで、僕の居場所を――この湿った軒下という名の、首の皮一枚の場所を守り続けていたんだ。
ある夜、雨足が強まった頃だった。
里子おばあちゃんが、傘も差さずに階段を降りてきた。
僕は痛む首を引きずりながら、彼女の足元へ歩み寄った。彼女の古いスリッパは雨水でぐっしょりと濡れ、歩くたびに嫌な音を立てている。
彼女はおずおずと、節くれだった、シミだらけの手を僕の首元へ伸ばした。
「……マメ。痛いのかい。熱いのかい」
あと数センチ。
カサカサに乾いた彼女の指先が、僕の傷に触れるまで、あとほんの少し。
けれど、その手は僕の首筋の熱を恐れるように激しく震え、そのまま空中で固まった。
彼女の瞳に、あの日と同じ「炎」が映っているのが見えた気がした。お母さんを飲み込み、僕の首を焼いたあの猛火。
彼女は、自分の手が僕に触れることで、また僕が熱い思いをするのを恐れているようだった。あるいは、自分の冷え切った孤独な人生が、僕のわずかな命の灯火を消してしまうのを恐れていたのかもしれない。
「ごめんよ……。おばあちゃん、怖いのさ。あんたを傷つけるのが、あんたを壊してしまうのが、怖くてたまらないんだよ……」
彼女は触れる代わりに、持ってきたビニール袋から、大きな鮭の切り身を取り出し、泥だらけの地面に置いた。
それは彼女の食卓に並ぶはずだった、なけなしの贅沢品だ。
自分の胃袋を空っぽにして、その浮いた小銭で、僕の為に最高級の魚を買う。
住人たちには「腐った残飯を捨てている」と罵られながら、彼女は自分の命の端切れを僕に与え続けていた。
僕は、雨に濡れた鮭を口に運ぶ。
それは魚の味というより、彼女が誰にも見せずに押し殺した涙の味がした。
三階のベランダと、一階の軒下。
僕たちは世界から嫌われ、孤立することでしか、お互いの絆を守れなかった。
その距離は、あまりにも遠く、そしてあまりにも、残酷なほど愛に満ちていた。
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