第一話:緋色の勲章


僕の首には、毛が生えていない。



指先でなぞれば、そこだけが硬く、引きつれたような感触がする。人間たちはそれを「火傷のあと」と呼び、僕を不吉なものを見るような目で見る。



けれど、僕にとってこれは、世界で一番大好きだった「お母さん」に触れていた、最後の一瞬の記憶だ。

 


数年前、僕はまだ「地域猫」なんて呼ばれていなかった。



日の当たる畳の上。お母さんの膝の上。そこが僕のすべてだった。お母さんはいつも僕の喉元を優しく撫でて、「マメは賢いね、私の宝物だよ」と笑っていた。



あの日、闇を切り裂いたのは、鋭い火の匂いだった。



夜中に目が覚めたとき、部屋はもう真っ黒な煙で満ちていた。お母さんは布団の中で激しく咳き込み、起き上がることができずにいた。僕は必死に叫んだ。お母さんのパジャマの袖を咥え、出口の方へ力いっぱい引っ張った。



天井から、真っ赤な雨が降ってきた。



「アツい、アツいよ、マメ……!」



火の粉が僕の首筋に舞い落ち、肉を焦がす音がした。けれど、僕はそこを動けなかった。ここで手を離したら、お母さんが消えてしまう。熱い、熱い、熱い。首筋に焼き付く感覚は、次第に痛みさえ通り越し、ただただ熱という重みになって僕を押し潰した。



結局、助かったのは僕だけだった。



崩れ落ちる柱。消防士に抱え上げられた僕の視線の先で、家は激しく燃え続けていた。



あの日から、僕の首には「緋色の勲章」が残った。お母さんの命の代わりに刻まれた、消えない熱の記憶だ。



その後、僕は団地の軒下へ辿り着いた。



焼け残った数少ない家具と一緒に、お母さんの親友だった「里子おばあちゃん」もこの団地に移ってきたからだ。



でも、里子おばあちゃんは僕を見ても、かつてのように笑いかけてはくれなかった。



「寄るんじゃないよ、薄汚い! あんたを見てると、あの日を思い出すんだよ!」



三階のベランダから投げられる言葉は、いつも氷のように冷たい。



彼女は、火事をただ見ていることしかできなかった自分を許せずにいた。親友を救えず、僕に一生残る傷を負わせてしまった。その罪悪感が、彼女を「意地悪な老婆」という殻に閉じ込めてしまったのだ。



彼女は、僕の傷に触れようとはしない。



けれど、僕が空腹で鳴く前に、必ずちくわを投げてくれる。



僕が寒さで震える夜には、わざとらしく「ゴミを捨てるついで」を装って、温かい新聞紙の束を軒下に置いていく。



住人たちは里子おばあちゃんを「狂った猫嫌い」だと思っている。



猫を罵倒しながら餌を投げ、近所に迷惑をかける偏屈な老人だと。



でも、僕は知っている。



彼女がベランダから僕を罵るとき、その指先が、僕の首の傷と同じように激しく震えていることを。

 



彼女の「意地悪」は、僕をこの団地という名のシェルターに留めておく為の、彼女なりの贖罪だった。



「私が追い払っているのだから、わざわざ保健所に電話なんてしなくていい」



そう周囲に思わせることで、彼女は僕の命を、その身を挺して守っていた。



僕の首の傷は、今でも雨が降ると少しだけ疼く。



そのたびに、僕は三階を見上げる。



そこにはいつも、僕との間に「見えない壁」を築きながら、誰よりも必死に僕を愛そうとしている、不器用な老婆の影があった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る