空から降る嘘、軒下で拾う愛 〜 嫌われ老婆が野良猫にちくわを投げ続けた理由 〜
空飛ぶチキンと愉快な仲間達
プロローグ:境界線上のちくわ
空から降ってくるのは、雨だけじゃない。
時折、ちくわが降ってくる。
あるいは、少し硬くなったパンの端切れや、安物のソーセージ。
それが僕の、一日を繋ぎ止めるための命の綱だ。
僕の名前はマメ。
この団地の、一番低い場所で生きている。
一階の軒下。そこが僕の城であり、世界から隠れるための殻だ。
三階のベランダを見上げると、いつも決まって、あの「意地悪ばあさん」――里子が顔を出す。
彼女は団地で一番の嫌われ者だ。
深く刻まれた眉間のしわ。不機嫌そうに歪められた薄い唇。彼女がベランダの柵に手をかけるたび、階下の住人たちは舌打ちをしながら窓を閉める。
「シッ! シッ! まだそこにいやがるのかい、この汚らしい猫!」
しわがれた声が、礫(つぶて)のように頭上から降ってくる。
僕は身を縮め、彼女の罵声を受け止める。
でも、逃げはしない。
彼女が僕に向かって投げ落としたのは、丁寧に新聞紙で包まれた、まだ温かいちくわだからだ。
「さっさと食べて、どこへなりと消えちまいな!」
彼女は鬼のような形相で僕を睨みつける。
だが、その手は柵を白くなるほど強く握りしめていた。
もし、彼女が「優しい顔」で僕を呼んでしまったら。もし、彼女が僕を「可愛い飼い猫」のように扱ってしまったら。
その瞬間に、この団地のルールが僕を飲み込むだろう。
「ペット禁止の団地で猫を飼うな」
「不潔な野良猫を排除しろ」
そんな正義の牙から僕を守るために、彼女はあえて「意地悪な老婆」という仮面を被り、僕との間に三階分という絶望的なまでの距離を保っているのだ。
僕はちくわの包みを前足で器用に開き、一口、その柔らかな身を噛み締める。
魚の旨味と共に、ほんの少しだけ、彼女の切ない嘘の味がした。
見上げると、里子はまだ僕を見下ろしていた。
僕の首筋に刻まれた、毛の生えていない赤茶色の「火傷のあと」を、彼女はじっと見つめている。
その瞳に宿るのは、嫌悪ではない。
触れたくても触れられない、届かない指先をもどかしく思う、深い、深い、悲しみだった。
これが、僕とおばあさんの、終わりの始まりの風景。
空から降る愛に生かされた、僕の物語のプロローグだ。
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