第4話 『F12』の魔法
芳子さんが、ショーケースの方へ視線をさまよわせる。
「このショートケーキね、主人が……先代が、三〇年前に初めて作ったレシピそのままで焼いているんです」
彼女の声は微かに震えていた。
「洗練されていないかもしれません。でも、この少しボソッとしたスポンジが、紅茶によく合うのよって……そう言ってくださるお客さんと一緒に、年を重ねてきたケーキなんです」
芳子さんの指先が、エプロンの裾をぎゅっと掴む。
「それを『変わらなきゃいけない』と言われると……まるで、私たちが積み重ねてきた時間が、間違いだったと言われているようで」
その言葉が、私の心臓を鷲掴みにした。
間違いなんかじゃない。
この店の薄暗さも、傷だらけのテーブルも、少し不格好なケーキも。すべてが愛おしい「文脈(コンテキスト)」だ。
それを「ノイズ」として切り捨てるなんて、あんまりだ。
佐伯が口を開きかける。きっとまた、正しいデータで彼女を黙らせるつもりだ。
(だめだ)
私の身体が勝手に動いていた。
「……佐伯さん、ちょっと失礼します」
「え?」
佐伯が反応するより早く、私はテーブルの上のノートPCを引き寄せていた。
「一ノ瀬さん、何を」
制止する声を無視して、私はキーボードに指を走らせる。
右手の小指が、最上段のキーを弾いた。
『F12』。
画面の右側から、コンソール画面がスライドして現れる。
検証ツール(DevTools)。
Webサイトの裏側、骨組みと装飾を司るソースコードが、緑やオレンジの文字列となって羅列される。
私の領域だ。
「ちょ、一ノ瀬さん?」
「今見せますから。この店の『正解』を」
私は迷わず、CSSのプロパティを書き換えていく。
小気味よいタイピング音が、静まり返った店内に響く。
ターゲットは、画面全体を覆う無機質な背景色。
body { background-color: #ffffff; }
この純白が、ショートケーキを孤独にしている元凶だ。
私はカラーピッカーを呼び出し、数値を打ち込む。
#fcf8f2
生成り色。この店の歴史ともいえる壁と同じ、温かみのある色。
Enter。
一瞬で、画面の温度が上がる。
佐伯が息を飲む気配がした。まだだ。まだ足りない。
次はフォント。
font-family: "M PLUS 1p", sans-serif;
この洗練されたゴシック体を、記憶の中にある古いレシピ本の文字を思い浮かべながら、別の指定に書き換える。
font-family: "Shippori Mincho", serif;
インク溜まりのあるような、少し太めの明朝体。
Enter。
画面上の文字が、無機質な記号から、語りかけるような「言葉」へと変わる。
そして仕上げだ。
文字と文字の間隔。
今の詰め込まれた設定では、急かされているようで息苦しい。
letter-spacing: 0.05em;
少しだけ、広げる。
この店に流れる、ゆったりとした時間と同じリズムになるように。
Enter。
すべての修正が終わるまで、わずか数十秒。
私は検証ツールを閉じ、ノートPCを芳子さんの方へ向けた。
「……あっ」
芳子さんが、口元を手で覆った。
画面の構成は、何ひとつ変わっていない。
写真は同じ。レイアウトも同じ。
けれど、そこにある景色は劇的に変わっていた。
背景がクリーム色に馴染んだことで、ショートケーキの白さが「冷たさ」から「温かみ」へと変化している。
明朝体の文字は、まるで芳子さんが語りかけているかのように優しく、余白には焼きたてのスポンジの香りが漂っているようだった。
それはもう、美術館の展示品ではない。
誰かの午後のティータイムに寄り添う、いつもの「洋菓子クラタ」のショートケーキだった。
「……これ」
芳子さんの目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「これです。これが、うちのケーキです」
彼女は画面の中のケーキを、遠い日の記憶を確かめるように指先で撫でた。
「不思議……写真も変えていないのに、どうして」
「古さは、ノイズじゃありません」
私は短く言って、佐伯の方をちらりと見る。
佐伯は何か言おうとして言葉を飲み込み、手元のマーケティング資料を静かに閉じた。
「積み重ねた時間は『信頼』という名のテクスチャになるんです。AIにはまだ、その学習データが足りなかっただけです」
芳子さんが、何度も頷きながら涙を拭う。
「ありがとうございます……これなら、胸を張って『うちのお店です』って言えそうね」
その笑顔を見た瞬間、私の中で燻っていた「仕事への恐怖」のようなものが、すうっと消えていくのを感じた。
定時を過ぎた薄暗い店内で、私はようやく、本当の意味でデザイナーになれた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます