第3話 薄暗い店内でのプレゼン

 一八時五五分。


 私たちは、すでにシャッターが半分下りかけた「洋菓子クラタ」の前に立っていた。

 最寄り駅から徒歩一〇分。古びた商店街のアーケードは、まばらな街灯に照らされてひっそりと静まり返っている。


「入ろうか」

 佐伯が躊躇なく半開きのシャッターをくぐり、ガラス戸を開ける。


 カウベルが鈍く鳴った。

 一歩足を踏み入れた瞬間、濃厚な空気に包まれた。

 焦がしバターとバニラエッセンス。そして、わずかに混じる古い木材の匂い。

 五〇年という歳月が染み付いた、甘くて重たい匂いだ。

 閉店後の店内は照明が落とされ、薄暗い。

 その中で、年季の入った冷蔵ショーケースだけが「ブーン」という低い駆動音を立てていた。ガラスの向こうには、売れ残った数個のケーキが黄色い光の中で鎮座している。

 床のテラコッタタイルは所々ひび割れ、壁の腰板は艶やかに黒光りしている。


(……うわ、すごくいい)


 仕事中だというのに、私の「レトロ愛好家」としての触覚がざわついた。

 計算されたヴィンテージ風加工ではない、本物の経年変化。ここにあるすべての傷に、誰かの記憶が宿っている。そんな気配がした。


「お待ちしておりました。暗いでしょう、今電気を」


 奥の厨房から、エプロン姿の女性が現れた。

 オーナーの倉田芳子くらた よしこさんだ。小柄で、目尻の笑い皺が優しい印象を与えるが、その表情には微かな疲労の色が見える。


「いえ、お構いなく。画面をお見せするので、少し暗いくらいが丁度いいです」

 佐伯は手早くイートインスペースのテーブルにノートPCを広げた。

 古い木のテーブルが、最新のアルミボディのPCと触れて、コツンと硬い音を立てる。

 その不調和な音が、これから始まる互いのズレを予感させた。


「では、早速ですが」

 佐伯が画面を芳子さんに向ける。

 薄暗い店内に、青白い液晶の光が浮かび上がった。

 そこに映し出されたのは、昼間に私がコーディングした「完璧なWebサイト」だ。

 雪のように白い背景。洗練されたフォント。そして、美術館の展示品のように美しくトリミングされたショートケーキ。


 その場の雰囲気を切り裂くような、圧倒的な「白」だった。

 店内の飴色の照明や、使い込まれた木の質感とは、何もかもが違っていた。


 芳子さんは、眼鏡の位置を直しながら、じっと画面を見つめている。

 沈黙が落ちる。

 冷蔵庫の低い唸り音だけが、やけに大きく響く。

 私は膝の上で拳を握り、彼女の第一声を待った。

 この場所の空気を吸えば分かる。あのサイトは、ここにはあまりに冷たすぎる。


「……綺麗ですね」

 長い沈黙のあと、芳子さんがぽつりと溢した。

 けれど、その声に弾みはない。

「まるで、銀座かどこかの、高級なお店みたい」


「ええ、そのイメージです」

 佐伯が身を乗り出す。

「既存の『街のケーキ屋さん』というイメージから脱却し、贈答用としても選ばれる高級ブランドとして認知させる。それが今回の狙いです」

 佐伯は別のウィンドウを開き、棒グラフやヒートマップが並んだ資料を表示させた。

「近隣の人口動態データです。この商店街の利用者は年々減少していますが、一方で、このエリアには三〇代の共働き世帯が流入しています。彼らは『古さ』よりも『洗練』や『映え』を消費の基準にします」

 佐伯の声は、滑らかで、淀みがない。

 彼は決して、芳子さんを騙そうとしたり、言いくるめようとしているわけではない。

 本気でこの店の経営を心配し、彼が信じる「正解」を提示している。その誠実さは、隣にいる私にも痛いほど伝わってきた。

「このサイトデザインなら、ECでのクリック率は現在の三倍を見込めます。データが証明しています」


「……ええ、そうですね。佐伯さんのおっしゃることは、分かります」

 芳子さんは困ったように眉を下げ、視線を画面から手元のテーブルへと落とした。指先が、テーブルの傷跡を無意識になぞっている。


「でも……なんだか、うちの店じゃないみたいで」

 拒絶、というほど強い言葉ではなかった。

 ただ、迷子になった子供のような、心細い響きだった。

「ショートケーキも、ちょっと余所行きすぎて……緊張しているみたいに見えます」


「それは、新しいイメージに目が慣れていないだけです」

 佐伯は即座に返した。

「変化には違和感が付き物です。ですが、変わらないという選択は、ビジネスでは致命的です」

 言葉が、鋭利な刃物のように静寂を切り裂く。


 私は息を飲んだ。

 正しい。佐伯の言うことは、あまりにも正しい。

 けれど、その正しさは、芳子さんが五〇年間守り続けてきた「この店の匂い」を、ただの古い埃として否定するものだった。


 芳子さんが口を閉ざす。

 何かを言いたそうに唇を震わせ、けれど言葉が見つからずに飲み込む。

 その沈黙が、私には耐え難かった。


(違うんです、オーナー)


 心の中で叫ぶ。

 佐伯さんは、店を壊したいわけじゃないんです。ただ、数値化できない「愛着」や「匂い」といったパラメータは、彼にとってノイズとして処理される対象でしかないん。

 そして芳子さんも、変わりたくないわけじゃない。店を守りたいからこそ、変わらなきゃいけないと分かっている。

 二人の視線は、どちらも「店」に向いているはずなのに、決定的に交わらない。


「今を見ないと、生き残れません」

 佐伯が、決定的な一言を放った。

「過去の常連客に甘えているだけでは、この先の一〇年は持たない。それは倉田さんが一番よくご存じのはずです」


 空気が、凍りついた。

 冷蔵庫のブーンという音さえ、遠のいた気がした。

 芳子さんの肩が小さく跳ね、それから力なく落ちる。

「……そう、ですね。おっしゃる通りです」

 それは同意ではなく、諦めの言葉だった。


 彼女はもう一度、画面の中の「白すぎるケーキ」を見た。

 そこには、愛着や思い出もなく、ただ「売らなければならない商品」としての冷たい画像データがあるだけだった。


「……少し、考えさせてください」

 芳子さんが絞り出すように言った。


 佐伯は一瞬、眉をすがめたが、すぐにビジネスライクな表情に戻って頷いた。

「分かりました。ですが、納期も迫っています。あまりお時間は取れません」


 重苦しい沈黙が、薄暗い店内に澱む。

 私は逃げ出したかった。

 定時を過ぎているからではない。

 ここで起きていることが、あまりに悲しいすれ違いだからだ。


 合理的な「正解」が、人の心を殺そうとしている。

 そして、その片棒を担いでいるのは、紛れもなく、あの冷たいコードを書いた私自身なのだ。

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