【変わっていくあなた】1
良いことは続かない。でも、悪いことは続くものだと、
ずっと楽しみにしていた推しバンド、Escapeのライブで、最前列神席に当選したから、当然なにか報いはあると思っていた。
叫んで跳ねて、サイリウムを振りまわして、楽しみにしていたトークコーナーで、最推しであるボーカルのHARUが、改まった声で「実は僕は、今回のライブをもって、Escapeを卒業することになりました」と言ったとき、一番に頭を掠めたのは「やっぱりな」という感想だった。
神席を引き当てて、こんなに近くで推しを見られた。そうなれば相応の報いは当然あるだろうとは思っていた。
そんな風に身構えていたとしても、やっぱりショックで、悲しかった。
HARUが「やりたいことがある。そのための、前向きな卒業と捉えて欲しい」と熱っぽく語っている間、依久は半ば放心状態だった。その後のライブの記憶は、正直ほとんどない。
それから数日、依久は傷心の日々を過ごした。
心の支えである推しの、恐らく人生を賭けた一大決心を応援したいと思う気持ちと、ということは彼は、今までのEscapeのHARUの人生に満足していなかったということか、ならばそこで輝けるように願い、推してきたファンの想いはどうなるのだという気持ちが、何をしていても、考えまいと思っても、頭の中を支配する。
そんな不安定な心の片隅には「悪いことがあったということは、次の悪いことももうすぐ起こるぞ」という警戒ももちろんあって、なにかにつけて怯えてしまう。
そして迎えた十一月二十二日。一生に一度の、依久の二十歳の誕生日がやってきた。
依久は父の直樹と二人暮らしだ。長らく父子家庭で支えあって生きてきたから、仲は悪くない。現在彼氏もおらず、仲の良い友人もいない依久のために、仕事帰りの直樹が、ケーキと、オードブルを買って帰ってきた。
二人で依久の人生の門出を祝い、酒を飲んだ。和やかな雰囲気に騙されて、依久の「悪いこと」に対する警戒心が薄れた。そんなとき、直樹がなんでもないような口調で、とんでもないことを言った。
「依久ももう二十歳になったことだし、少し、距離を置くことにしないか?」
依久の世界は一瞬、動きを止めた。
「……その冗談、全然面白くないよ」
無理矢理顔に笑みを浮かべ、依久はその話を流そうとした。しかし、直樹は引かなかった。
「パパは本気だよ」
依久は再び、確信する。
ああ、やっぱり。悪いことは続く。どんなに一生懸命生きていても。
「先輩、大丈夫ですか?」
声をかけられて、依久ははっと正気に戻った。声の主は、
「え? ああ、うん。ちょっとぼーっとしてた」
依久は手元の煙草を灰皿に押し付けた。じゅ、と音を立てて火が消える。着ているパーカーのポケットからラッキーストライクの箱を取り出し、一本抜いて火をつける。口元に運んで、吸う。ニコチンが身体に沁みていく。
「大分、お疲れみたいですもんね」
大和は依久の隣に座った。そして、マルボロの赤い箱を取り出し、依久と同じように火をつけた。白い煙を吐き出す。
その横顔は、少しだけHARUが歌うときの顔に似ている。遠くを睨みつけるような、挑戦的な目。普段は穏やかなのに、大和は煙草を吸うときだけ、HARUは歌うときだけ、こういう表情を見せる。
「疲れてるように見えた?」
「頑張って元気に見せようとしてるなーって感じでした」
依久の口から「ふ」と笑いだか溜息だか分からない吐息が漏れた。
「そうやって言ってくるってことはさ」
ふうー、と上を向いて白い煙を吐き出す。ガラス張りの喫煙所は、依久と大和の吐き出す煙で充満している。
この喫煙所には、ベリーズカフェのスタッフはほとんど来ない。カフェで働くリア充たちは大抵煙草よりも良いストレス発散方法を知っているし、勤務時間を終えたらさっさと帰る。
ベリーズカフェは連結駅の中にある駅ナカ店舗で、従業員休憩室と喫煙所はほかのテナントと共用だ。喫煙者に厳しいこのご時世、端っこに追いやられ、冬は寒くて夏は暑い喫煙所に留まるもの好きは、さほど多くない。
「あたしの悩みに興味があるってことだよね?」
大和と依久の距離は、さほど近くない。これまでプライベートな会話をしたことはほとんどない。そんな大和がわざわざ踏み込んで来た。依久は探るような視線を大和に送る。
「いや別にそういうわけじゃないんですけど」
大和は首を横に振った。大和の表情は、いつもぼんやりして見える。なにを考えてるか分からない後輩だけれど、顔だけは好みだ。バイト中も、気付くと目で追ってしまう。
「あはは。せっかくだから聞いてよ。一本吸う間だけでいいからさ」
依久の誘いに、大和は「分かりました」と頷いた。
「あたし、父子家庭なんだけどさ、パパがいきなり別居しようって言いだしたんだよね」
大和は新しい煙草に火をつけた。そして、遠くを見ながら、煙を吐いた。
「二十歳になったからーって簡単に言うけどさ。うち、母親も早くに死んでて、ずっと二人で頑張ってきたんだよ。小さいときは、パパのことを支えられるように早く大人になりたいって思ってた。でも、いざ大人になったら、パパはあたしから離れようとする」
依久は煙草を吸った。もやもやした気持ちは、白い煙に溶けて、世界の一部になる。
「そのちょっと前に、ずっと推してた人が所属バンドから脱退するって発表もあってさ。なんか、今の環境じゃ出来ないことをしたいんだって。でもそれって何だろうね。今までの場所じゃ出来ないことなのかね。私が今まで応援してたのは、ずっと脱退して大空に羽ばたきたいと願ってたカゴの鳥だったってこと? パパもそうだよ。一緒に頑張ってきたと思ってたのに、満足してたのはあたしだけってこと? そういうことを考えるとさ、ちょっと、虚しくなって」
「虚しく、ですか」
大和が静かに相槌を打つ。依久は頷く。
「変化を望む人、新しい世界に飛び立つ人をさ、世間て賞賛するじゃん。それってすごく勇気のいることなのかもしれないけど、実際、わがままだよね。だってそれまでの想いとか、人とか、関係とか、そういうの、一方的に全部なかったことにするんだから。ぶっちぎって、ぶった切って、それがさも美しいことみたいに。残された人の気持ちなんて、本気で考えてないんだよ」
はあー、と白い煙を吐き出した。世界に放ったはずの白いもやもやは、結局依久の周りにまとわりついたままだ。
「とかそういうことをね、考えちゃって。まあでも、仕方ないんだけどさ」
「仕方ない?」
大和は依久を見た。依久は少しだけ笑って見せた。
「そうだよ。世界なんて、仕方ないであふれてる。そう思わないと、やっていけないよね」
依久の言葉を聞いて、大和は「確かに」と言った。
「仕方ないことばっかりです」
大和はまた遠くを睨んで、煙草を吸った。そして、吸殻を灰皿に押し付けた。
「ちょうど、一本吸う間でしたね」
立ち上がり、「それじゃ、お疲れ様です」と言った大和は、喫煙所を出て行った。
依久は吸っていた煙草を消し、新しい一本に火をつけた。この一本だけ、この一本を吸ったら帰ろう。そう思いながら、もう三本吸っている。家にはなんとなく、帰りたくない。
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