【変わっていくあなた】2

 直樹が別に家を借りて住むようになって、一週間が経った。

 依久が住んでいるのは賃貸アパートの一室だ。二階の角部屋のこの部屋で二人暮らしをして、ちょうど十年くらいになる。住み慣れた部屋なのに、今はなんだか居心地が悪い。

 直樹は「最初から完全に一人暮らしは無理だろうから、帰宅を週の半分にする」というルールを提示した。「日、月、火曜日は依久の住む家に帰り、その他の曜日は借りた新居に帰る」。そう宣言した。

 依久に話をする前に新居の賃貸契約を済ませ、具体的なルールまで決めていたのだから、最初から依久に選択の余地はなかった。

 依久はそれが気に入らなかった。

 最初から話し合いに参加出来ていて、依久の意見も取り入れてくれていれば、こんな風にもやもやを抱えることはなかったと思う。

 依久の母親が亡くなったとき、直樹は後を追うのではないかと思うほど落ち込んでいた。そんな直樹のそばにずっといたのは依久だ。一緒に泣いて、ときには励まして、そんな風にしてたくさんの時間を過ごし、直樹はやっとまた笑えるようになった。

 依久が落ち込んだときには直樹が、直樹が落ち込んだときには依久が励まし、ときには意見をぶつけあい、ここまで二人で歩んできた。なにかを決めるときも、いつもきちんと話し合って決めてきた。

 それなのに、今回、直樹は依久に一言も相談せず、大事なことを決めてしまった。それが依久には許せない。

 話し合いの直後は、あまりに突然すぎて、怒りより戸惑いの感情が大きかった。直樹がいくつかの荷物鞄を手に家を出ていき、本当に帰ってこない夜を四日過ごす間に、依久は頭を整理した。直樹に対して怒っている理由も、きちんと理解することが出来た。

 だからと言って、簡単には割り切れない。感情は制御出来ない。

 依久の胸の中には虚しさや、やるせなさ、そして悲しさがずっと居座っている。マイナスのものばかりが渦巻く心の中は、依久の胃の調子を悪くした。

 なにも食べたくないから、煙草を吸う本数が増えた。あっという間にひと箱が空になる。ラッキーストライクの空き箱と吸殻が、どんどん溜まっていく。

 捨てなきゃなあと思いながらその上に吸殻を積む。そんな風に毎日を過ごした。

 直樹が帰宅する日曜日は、わざと朝からアルバイトを入れた。直樹は「朝九時ごろ来る」と言っていた。その少し前に家を出た。

 普段は十二時から二十一時までのシフトだけれど、前日のうちに店長に「朝から出られます」と申告すると、十時から出勤することになった。

 もう三年ほど働いているから、店長との意思疎通はスムーズだ。仕事をしている間は、仕事のことを考えることが出来た。

 ベリーズカフェはアプリ会員に週末クーポンを配布するから、土日祝日は特に忙しい。その日も朝から忙しかった。

 休憩時間と退勤後の時間に、直樹のことを考えた。今日顔を合わせるというのに、どういう態度をとればいいのか。依久はまだ決めあぐねていた。

 本当は文句を言いたい。勝手に決めないでと直樹を責めたい。でも、そのことにメリットを見いだせない。

 直樹はきっと、依久が何を言おうと、以前までの生活に戻る気はない。依久と再び同居するつもりはないのだと、依久は思う。遊びで二軒分の家の家賃と光熱費を支払うほど、直樹は気まぐれでも裕福でもない。

 依久には、直樹が家を出る理由に心当たりがある。

 直樹には、恐らく彼女がいる。その彼女と、一緒に暮らすための下準備として、直樹は家を出たのだ。

 ここ二年ほど、直樹はときどき、甘い匂いを漂わせて帰宅するようになった。香水の香りだ。若い女の子が好む、ピーチのような甘い香り。直樹の身体に馴染まないその香りは、依久を攻撃しているように感じた。

 直樹に「香水の匂いする」と言うと、直樹は耳たぶをしきりに触り、「職場の部下が最近つけてくるんだ」と言い訳をした。依久はそれ以上追求しなかったけれど、直樹はそれ以後も、同じ香りをまとって帰宅した。

 更に、依久に「最近の若い子の好み」や「メイクの仕方」、「流行りのファッション」をやたらたずねてくるようになった。依久がメイクをしているのをじっと見たり、使っている道具を知りたがったり。

 四十代後半の男には無関係であろうことに興味を示す姿を見て、依久は確信した。「若い彼女がいるんだな」と。

 もちろん、それ自体に罪はない。直樹は独身だ。もし彼女が出来ても、咎める必要はない。結婚したければ、再婚も出来る。結婚するかどうかは本人の意思だ。いくら依久が嫌だと言っても、法的な拘束力はない。

 その時点で依久はもう高校を卒業していた。高校時代から働いていたベリーズカフェでのシフトを増やして、フリーターとして生きていた。社会的には自立出来る歳。直樹の子育ては終わっている。親の責任は十分果たしたという時期。彼女を作ることはむしろ自然なことなのかもしれない。

 直樹は依久が何度尋ねても、彼女の存在を否定した。それでも香水の匂いは直樹に染みついていた。直樹が家を出た理由とその香りを切り離して考えるほど、依久は楽観的ではない。

 大和は日曜日のシフトに入っていないので、退勤後、依久は一人で三本煙草を吸った。それから重たい足取りで家に帰った。

 今日は家に直樹がいるのだ。一週間前までは当たり前だったことが、いつの間にか非日常になっている。そしてそれを思うと気が重い。

 家の扉を開けると、暖かい空気がむわっと顔に襲い掛かってきた。

「おかえり。遅かったね」

 直樹は今までと変わらない顔でそこにいた。

「……うん」

 依久は思わず目を逸らした。

「今日は寒いから鍋にした。たまには一緒にご飯食べよう。どうせ、ちゃんと食べてないんだろう?」

 直樹が土鍋をの乗ったカセットコンロに火をつけた。テーブルには、今朝まで出ていなかったこたつ布団がセットされていた。すでに取り皿と箸が用意されている。

「……食欲、ないんだけど」

「少しでいいから食べなさい。せめて汁を飲むだけでもいいから。ちゃんと食べないと、身体に悪い」

 依久は諦めて自室に鞄とジャケットを放り、手を洗ってこたつに入った。暖かい。冷えていた指先に、じんわりと熱が回る。

「じゃあ、いただきます」

 直樹が手を合わせた。依久も一緒に手を合わせた。これまで何度も繰り返したこの動作。でも、心の中はこれまでとは違う。なんだか、虚しい。


「だから、教えてやったんだよパパ。『それはフルーティサンドの曲じゃなくて、どきどき乙女委員会って別のアイドルの曲です』って。やだね。ジジイになると若い子の見分けつかなくなるんだからさあ」

「パパだってもうジジイだよ」

「パパはまだジジイじゃない! おじさん! まだおじさん!」

「一緒じゃん」

「全然違うよ。ジジイはもっと老いてる!」

「まあ、本人にとっては大事なことだよね」

「絶対に譲れない部分だよ」

 直樹はよく喋った。もともと寡黙な方ではないのだけれど、今日は特に元気だ。会話が途切れるのが怖いのだろう。依久は適当に相槌を打ちながら、トロトロになった白菜を食べた。身体に良さそうな味がする。

「依久、少し痩せた?」

「え? ああ、うんまあ。ダイエットしてるからね」

 嘘を吐いた。胃が痛くて食べたくない、とは言いたくなかった。なんだか、負けたような気がするからだ。だから平気な顔をして、消化に良さそうな白菜や豆腐ばかりを選んで、口に運んだ。

「ちゃんとご飯、食べてる?」

「食べてるときと食べてないときある。最近バイト忙しくて、おなか空かないときもあるし」

「食べないとだめだよ。身体に悪い」

 煙草が吸いたい、と思った。この家には、依久の部屋にしか灰皿がない。

 吸い始めたとき、直樹と「吸うなら自分の部屋で。本数はきちんと管理する」と約束したからだ。

 そうか。直樹がいないときは、別にどこで煙草を吸ってもいいのだ。

 そんな当たり前のことに、依久は今更になって気付いた。

「別に身体に悪くたっていいよ。長生きしてしたいこととか特にないし」

「そんなこと言わない。若いんだから」

「じゃあパパがごはん作ってくれればいいじゃん」

「そんなわがまま言わないの。パパは依久より先に死ぬんだから。自分でなんでも出来るようにならないと」

「別にあたし、出来るよ。やりたくないだけで」

「知ってる。じゃあせめて、早く彼氏を作りなさい」

「そんなこと言われてもねえ」

 依久はこれまで何人かと付き合ったことはある。でもいつも長続きしない。最初は良くても、そのうち、相手に合わせることに疲れてしまう。歯の浮くようなセリフを吐かれても、信じられない。

 人の心なんて、一番信用ならない。

 そのとき本気であったとしても、数秒後にはどうか分からない。そんな不安定なものにすがり、自分を犠牲にすることが、馬鹿らしいと感じて、すぐに醒めてしまうのだ。

「パパは依久の花嫁姿が見たいよ。バージンロードを歩かせてくれよ」

「歩きたきゃ、勝手に歩けばいいじゃん。その辺の教会にお願いしてさ」

「一人で歩いたらただの散歩だよ」

「別に二人で歩いたってただの散歩だよ」

「本当にうちの娘は可愛げがない」

 直樹はやれやれ、と首を横に振った。

「……パパが結婚式、やればいいじゃん」

「は?」

「だから、そんなに教会歩きたきゃ、パパが彼女と結婚式すりゃいいじゃん」

「なに言ってんの急に」

 依久は取り皿の上に箸を置いた。思いのほか力がこもり、かちゃん、と音が鳴った。

「ねえパパ、別に隠さなくていいよ。本当は彼女いるんでしょ? もう一緒に暮らしてるの?」

 直樹は目を丸くして、「はあ?」と大きな声を出した。

「なんでそうなる? いないよパパに彼女なんか。そのことは依久もよく知ってるでしょ」

「嘘つかなくていいよパパ。ママが死んでからずっとパパ一人だったもんね。子育ても終わったし、今から第二の人生、悪くないんじゃない?」

 直樹は「いや」と言った。依久は構わず続ける。

「そもそもママに義理立てする必要なんかないんだよ。勝手に男作って、勝手に死んじゃったんだから。パパは被害者。だからむしろ、堂々と再婚すればいいじゃん。別にあたし、邪魔しないからさ」

「依久、落ち着いて」

「別にそれならそうでいいから、本当のこと言ってよ。一人で生きろって言われれば、あたしはそれでもいいよ。パパまであたしを捨てたなんて、そんなこと言わないから」

「依久」

「ごちそうさまでした。あたし、疲れてるからもう寝る。明日パパ仕事でしょ? 多分起きれないけど、頑張って行ってきてね」

 早口でまくし立て、依久は駆け足で自室へ走った。扉を閉めて、部屋の中にへたり込む。ポケットからラッキーストライクの箱を取りだし、震える手で中の一本を指に挟み、火をつけた。煙を思い切り吸って、吐き出した。

 今はもうなにも、考えたくない。

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