【放課後のたこ焼きと君】10
「本当によく来たなあ」
赤い軽自動車のライトが、真っ暗な夜道を照らす。
駅前は一応街灯があったけれど、真一が走る田んぼに挟まれた道路には、人口の光は見当たらない。
「そっちは、お友達かい?」
清史郎と川口は、二人で顔を見合わせた。少し迷って、清史郎は「うん」と答えた。川口は文句を言う様子もなく、窓の外に視線を移した。窓ガラスに反射した川口の顔は、少し笑っているような気がした。
「ごはん食べたの? 泊まっていくんでしょう? 今お風呂も沸かしてるから」
明るい場所で見ると。千鶴も真一も年を取っていた。十年ぶりだから仕方ないが、前に見た時よりも一回り小さくなった気がする。
「いや、さっきコンビニでパン買って食べたから」
話しながら、居間に通される。テーブルも箪笥も畳の上に敷いたカーペットも、十年前と変わらない。唯一テレビだけが新しくなっている。
座布団の上に腰かけて、清史郎は深く息を吸った。懐かしい。体中がジーンとして、なんだか少し涙が出た。
「若いんだから足りないでしょう。大したもんはないけど」
千鶴が出してきたのは、大皿に乗った煮物だった。ほかほかと湯気が出ているそれを見たら、確かに足りない気がしてきた。
小皿と箸を受け取り、「いただきます」と手を合わせて煮物に箸を伸ばす。醤油の味が口の中を支配する。美味い。ちゃんと、味がする。
「お友達さんも、ほら」
言いながら、千鶴は豆腐の味噌汁を出してきた。川口も「いただきます」と言い、箸を伸ばす。「美味しいです」というと、千鶴はにかっと笑った。歯が何本か欠けている。それを恥ずかしがる様子はなかった。
結局風呂にも入った。肩まで湯船につかり、深く息を吐いた。
自宅の風呂に比べると、古くて汚い。タイルのデザインもはっきり言ってダサい。でも、見覚えがある。懐かしい、と思うたびに、清史郎の心がほぐれていく気がした。
風呂から出ると、真一はもう寝ていた。今度は川口が風呂場に消え、千鶴と二人きりになった。清史郎と千鶴は、ぼんやりとテレビを眺める。スマートフォンを何度か確認したけれど、舞子からも、誠からも、何の連絡もなかった。
「清史郎。明日には帰るんか?」
千鶴の声は寂しそうだった。
「ああ、うん。どうしようかな……」
正直家に帰りたくはなかった。でも、自分は未成年だ。いずれ帰らなければならないことは、分かりたくないけど、分かっている。
「うちの子になりな」
「え?」
清史郎は千鶴の顔を見た。真面目な顔をしていた。
「帰りたくないなら、無理に帰らなくてもいい。うちの子になりな。ばあちゃん、うんと可愛がってやる」
「ばあちゃん……」
言いたいことはたくさんあった。けれど、どれもためらってしまう。
今日あったことを、打ち明けるべきかどうか。
清史郎は悩んだ。そっと、首元に手をやる。そして結局、言うのをやめた。
「ありがとうばあちゃん。俺、ばあちゃんのこと、好きだよ」
千鶴は清史郎を見て、少し悲しそうな顔をした。
そのとき、ちょうど後ろのふすまが開いた。風呂から出た川口が、戻ってきたのだ。
「ありがとうございました」
川口が頭を下げると、千鶴は笑顔に戻った。
「いいのよいいのよ。さあ、お布団敷いてあるからね。二人とも疲れたでしょう。早く寝なさい」
仏壇の前に並んで布団が敷かれていた。
川口と二人、もそもそと布団に入る。
電気を消しても、しばらく眠れなかった。今日起きた色んなことが、まるで走馬灯のように頭の中を駆け巡る。今になって、舞子に首を絞められたことが、悲しくなってくる。
死んで欲しいと思うほど、嫌いだったんだなあ。
改めて考えると、本当に、胸が痛かった。また、涙が出た。電気が消えていて良かった。川口にはあまり、見せたくない。
清史郎がこっそり泣いて、涙を拭いたとき、川口が「坂井」と話しかけてきた。
「寝てる?」
「寝てない」
答えたとき、鼻をすすってしまった。泣いているのがばれたのだろうか。恥ずかしい、と思った。
「あのさ、ごめんな。こんなことになって」
「こんなこと?」
「付き合わせちゃって、ごめん。こんなとこまで」
川口は「なんだそんなことか」と言った。
「僕が言ったんだよ。会いたい人に会った方がいいって」
「まあ、そうだけど……」
「で、どうだった? 会ってよかった?」
「……うん。そうだな。会ってよかった」
「それは良かった」
数秒の間。川口は「あのさ」と再び口を開いた。
「助けて欲しいときは、ちゃんと助けてって言った方がいいみたいだよ」
「え?」
「僕の言葉じゃないんだけど。でも、そうらしいよ」
「お前の言葉じゃないのかよ」
「うん。僕はそんな偉そうなこと、言える立場じゃないから」
清史郎が返事をする前に、川口は「それじゃおやすみ」と話を打ち切った。清史郎も「おやすみ」と返した。
線香の匂いと、畳の匂い。息をゆっくり吸って、吐いて、そうしているうちに、清史郎は眠りについた。涙はいつのまにか、止まっていた。
翌朝起きると、千鶴も真一もいなかった。
居間のテーブルの上に、大きなおにぎりが二つ並んだ皿が、二人分置かれていた。置手紙には『朝ごはんちゃんと食べなね。冷蔵庫に麦茶があるよ。昼前には帰る』と書かれていた。畑に行ったのだろう。清史郎も昔、畑に連れて行ってもらったことがある。「農業は儲からない」と言いながら、土にまみれる千鶴と真一の顔は真剣で、生き生きしていた。すっかり蓋をしていた昔の記憶が、今になって蘇ってくる。
清史郎と川口は二人でおにぎりをほおばった。中身は梅干しと塩昆布だった。梅干しがかなり塩辛かった。麦茶で流し込んだ。香ばしい香りが鼻を抜けていく。
川口と二人で、少し庭に出た。
車庫には昨日乗った軽自動車が止められていて、代わりに軽トラックがなくなっていた。作業用のコンテナや農機具を見て、川口が「これはなんに使うの?」と尋ねてきた。
清史郎は「知らない」としか答えられなかった。「帰ってきてから聞いてみよう」と言うと、川口は「そうだね」と頷いた。いつもより目が輝いていた。川口も楽しそうで良かった、と少し安心した。
巻き込んでしまって申し訳ない、と改めて謝ろうと思ったけれど、しつこいかもな、と思ってやめた。川口は謝罪を望んでいる風ではない。少なくとも清史郎にはそう見える。
家に戻り、テレビを見た。川口は持ってきた本を読もうとはせず、一緒にテレビを見ていた。特に会話もなく、なんとなく、ただ二人でぼーっとした。
真一と千鶴は、十時過ぎには家に帰ってきた。二人とも明るい顔をして、「よく寝られたか?」などとしきりに話しかけてきた。清史郎にも川口にもひっきりなしに問いかけるものだから、テレビの音は全然聞こえなかった。
でも「どうしてここへ来たのか」は、二人とも一向に尋ねる様子がなかった。だから清史郎はもしかして、とは思っていた。清史郎が話すのを待っているのか。それとも──。
清史郎の悪い予感は、見事に的中した。
千鶴がスーパーで買ってきた寿司のパックで昼食を済ませ、再びテレビを見ようか、というとき。勝手口から人が入ってきた。ずんずんと力強い足音を響かせて姿を現したのは、父の誠だった。
「なにしてるんだこんなところで」
誠は最初から怒っていた。清史郎の話も聞かず、まず清史郎の頬を叩いた。叩かれたのは久しぶりだったから、清史郎は驚いた。驚いて、声も出なかった。
「なにしてんのあんた!」
千鶴が目を吊り上げて叫んだ。
「あんたにそんなことさせるために、あたしはあんたを呼んだんじゃないよ!」
「親に黙って無断外泊してるんだ! その上、母親に暴力まで振るってるんだぞ!」
清史郎は耳を疑った。清史郎が、舞子に暴力を振るった? 首を絞められた、ではなく?
「清史郎の話も聞く前に、決めつけるんじゃないよ! 清史郎はそんな子じゃない!」
またも叫ぶ千鶴を、真一が「まあまあ」となだめる。
「いったん落ち着け。誠も座れ。いいから。な」
真一の声は低く、有無を言わさぬ迫力があった。誠はわざとらしく「はあっ」と大きく溜息を吐き、清史郎の向かい、真一の横に腰を下ろした。
「どうして首を絞めた? 殺すつもりだったのか」
誠は叫びこそしないけれど、声色に怒気を滲ませていた。
「いや、俺、そんなことしてない」
「嘘を吐くのか。お前まで」
誠は呆れたように首を振った。
「そういうところは、母さんそっくりだな」
息が、急に苦しくなった。心臓が痛い。のどのあたりがつかえて、うまく息が吸えない。
「私立大学に行けないかもしれないことが、そんなに嫌か。小遣いが減ることが、そんなに辛いか。その程度で家出するようじゃ、お前は将来、なんにもなれないな」
部屋の空気がよどんで重い。誠の言葉が、頭の中で何度もループする。なにがどうして、どうなっている? 清史郎には、理解が出来なかった。
「とにかく、帰るぞ。高校生にもなって、いろんな人に迷惑をかけて、恥ずかしいと思わないのか。父さんだって、本当は仕事だったんだ。抜けてきたんだぞ。どれだけ迷惑がかかってると思うんだ。反省しなさい」
誠が立ち上がる。清史郎は、立てない。行かなければならない。頭ではそう思っている。でも、身体が、言うことを聞かない。
「助けて欲しいときは、ちゃんと助けてって言った方がいいみたいだよ」──。
不意に、昨日の川口の言葉が頭の中に蘇る。
ちゃんと助けてって、言った方がいい。急にこんな言葉を思い出すということは、自分は今、誰かに助けて欲しいと、そう思っているからだろうか。
「あの」
川口が、急に口を開いた。誠が睨む。川口はひるまない。
「ちゃんと話、聞いてあげてください。坂井はそんなことするやつじゃありませんよ」
「なんだと──?」
誠の目が大きく見開かれる。
川口、そんなこと、言わなくてもいいのに。お前がそんなこと言っても、何の得もしないのに。第一、お前、部外者だろう。俺は別に、お前にそんなこと望んでない──。
頭の中に浮かんだ言葉は、一言も音にならない。代わりに、清史郎の目からは、涙が流れた。
「清史郎」
千鶴が、名前を呼ぶ。
「ばあちゃんに、本当のこと、言ってごらん」
清史郎は、千鶴を見た。千鶴は、まっすぐ、清史郎のことを見ていた。
「……ばあちゃん、俺、俺──」
「うん。どうした? 言ってごらん」
「助けて。ばあちゃん」
千鶴は立ち上がり、清史郎に駆け寄った。そして、清史郎を抱きしめた。
「誠。清史郎はあたしが引き取るよ」
「なに言ってんだ。清史郎は──」
「あたしはこの子を助けるって決めたんだ。昔引き取らなかったこと、ずっと後悔してた。今度こそ、あたしは譲らないよ。見てごらん。泣いてるよ。あんたには、この子の苦しそうな姿が見えないの?」
千鶴は汗臭くて、土臭くて、線香の匂いが染みついていて、湿布の匂いもした。でも、清史郎はその胸の中で、涙を流した。声を上げて、わんわん泣いた。涙はなかなか、止まらなかった。
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