【放課後のたこ焼きと君】3
家に帰ると、舞子は不在だった。
謙一朗もおらず、ただ舞子が慌ただしく家を出たことだけは分かった。リビングのテレビがつけっぱなしだったし、キッチンのシンクに、洗われていない食器が置かれたままになっている。
一瞬迷ったが、清史郎は自分の弁当箱と一緒に、舞子の昼食の名残であろう食器を洗った。このままにしておけばきっと叱られるだろう、と思ったからだ。
食器を洗い、リビングのテレビを消しても、まだ舞子も謙一朗も帰って来ない。
焦って帰って来なくても良かったな、と舌打ちをしながら一度自室へ向かう。
階段を上り、右手の手前の部屋が清史郎の部屋だ。右手奥の扉は謙一朗の部屋で、左手の扉が両親の寝室。どちらの部屋も主は不在であるのに、近付き難いオーラを放っている。
自室に戻り、ほっと一息ついた。
そのままベッドに横になりたい気持ちを押さえて、制服を脱いでハンガーにかけ、部屋着に着替える。鞄を定位置である机の横のラックに収納し、机の上にノートと参考書を広げ、今日の授業範囲の復習と予習を始めることにした。
清史郎は将来、医者になろうと決めていた。
父の
謙一朗は小学校受験に成功して私立の都会学園に通い、そのままエスカレーター式に中学、高校と進み、生徒会長を務め、休日はボランティア活動に精を出すなど、模範的な人生を歩んでいた。成績は優秀で、常に舞子は謙一朗を褒めていた。
五歳年下に生まれた清史郎は、何かと謙一朗と比較された。「お兄ちゃんは優秀なのにね」、「お兄ちゃんは賢いのにね」、「お兄ちゃんは大人しいのにね」──。そう言って、大人はみんながっかりした顔をした。
緊張して臨んだ都会学園の受験に、清史郎は落ちた。
公立小学校に通うことになったとき、舞子は泣いた。「情けない。どうしてこの子はこんなに出来が悪いのかしら」。そのときの舞子の姿が、清史郎の頭の中に、鮮明に焼き付いている。
みんなの期待の星だった謙一朗は、大学受験に失敗した。合格圏内だったはずの国立栄光大学に落ちたのだ。
滑り止めの私立に入ったものの、「おれの居場所はあそこじゃない、周りのレベルが低い」などと言い、徐々に通わなくなった。そのうち、家からも出なくなった。優等生の信頼は、地に落ちた。
清史郎は密かに、栄光大学を目指している。
今こそ立場を逆転させるときだ。ずっと見下されてきたが、清史郎だってやれば出来る。謙一朗のように、家庭教師をつけられたり学習塾に通わされたりすれば、同じように出来ていたはずなのだ。自分が環境に恵まれなかっただけだ。そのことを、ようやく証明出来る。
高校は、舞子の「なるべく遠くの学校へ行って」という指示を尊重した結果、田舎乃高校を選ぶことになった。
田舎乃高校の偏差値は低くないが、高くもない。栄光大学を目指すと大っぴらに言えば、きっと笑われてしまうだろう。だから今は言わない。とにかくこの一年で結果を出して、話はそれからだ。
今の清史郎は、クラスメイトとのくだらないいざこざに心を砕く余裕なんてない。本当は通学時間も惜しい。今この瞬間も、空いているなら勉強したい。そう思い、机に向かった。無人で静かな家の中は、快適だった。
舞子と謙一朗が帰って来たのは、夜になってからだった。清史郎が帰って来てから、三時間以上後のことだ。
玄関の開閉音に気付き、自室を出て、階段を下りた。
ダイニングに、血走った目の舞子、背中を丸めた謙一朗が座っていた。謙一朗の背中が小刻みに揺れている。お得意の貧乏ゆすりをしているらしい。
「おかえりなさい」
舞子は返事をしない代わりに、清史郎をきっと睨んだ。その迫力にたじろぎ、何も言えなくなる。
「どうして、外に出たの?」
清史郎はダイニングの入り口で、静かに怒る舞子を見た。謙一朗は聞こえるか聞こえないかくらいの声で「ケーキ屋に」と言った。
「ケーキ? お誕生日だから? 謙ちゃんのケーキは、お母さん、もう用意してたのに。パティスリー
謙一朗は何も言わない。
「せっかくのお誕生日だからって、お母さん、美味しいのちゃんと用意したのよ。少しでも謙ちゃんの気分が良くなればいいなって。前向きになればいいなって。なのにどうして、そんな勝手なことするの? 大体、どこのケーキ屋に向かってたのよ?」
「……
ああ、と清史郎は思った。茂木洋菓子店は、この戸建ての家に引っ越す前まで、謙一朗のお気に入りだった店だ。中年の店主夫妻が二人で切り盛りしている店で、それなりに繁盛していた。
謙一朗は小遣いでよくクッキーやシュークリームを買い、こっそり食べていた。
なるべく質の良いもの食べさせたいというこだわりを持つ舞子にとって、全国区で見れば無名に近い街の洋菓子店のお菓子はわが子にふさわしくない低俗なものだった。
舞子はいつも取り寄せた小さな、どこから食べればいいかわからないような装飾のケーキを用意していた。一口で終わる複雑な味のデザートは、食べ盛りの謙一朗と清史郎の腹を満たしきるものではなかった。
謙一朗は舞子にバレないように、こっそりと茂木洋菓子店に通っていた。家にパッケージは持ち込まず、レシートも捨てて隠ぺいした。
物陰に隠れて食べるとき、謙一朗はそれを、たまに清史郎に分けてくれた。「これでお前も共犯な」と言われ、清史郎は頷いた。
一度だけ清史郎がシュークリームのカスタードを洋服にこぼしてしまい、舞子にバレたことがある。そのとき、清史郎は兄の名前を出さなかった。舞子に「あんたは出来が悪い上に嘘まで吐く」と叱られても、泣きながら耐えた。その日の夜、謙一朗は言った。「お前、本当に要領が悪いな」──。あのときの呆れた顔は、今でも時々思い出しては清史郎の胸を締め付ける。苦い思い出の一つだ。
茂木洋菓子店は、この家から車で十分ほどの距離だ。自転車で行けなくはないけれど、雨が降っていたし、それなりに距離があることから、謙一朗はわざわざ舞子の車を出したということなのだろう。
「あんな美味しくないとこで、わざわざ買わなくても良いのに」
舞子は深い溜息を吐き、首を左右に振った。
そこで、謙一朗の貧乏ゆすりがぴたっと止まった。まずい、と清史郎は思った。
「あに──」
「なんだよそれ」
清史郎の声は、謙一朗の声に怒鳴りかき消された。
「やっぱりあんたは、俺のこと、なに一つ分かっちゃいないんだ」
がたん、と椅子を後ろに倒し、謙一朗が立ち上がる。その手に、目の前のダイニングテーブルに乗っていた籐製のティッシュケースが握られている。清史郎が止めに入るより早く、謙一朗はそれを舞子に投げた。
「違う。お母さんは、謙ちゃんのことを心配して──」
「違わねえよ。お前は俺が思い通りに動かないといつもそれだ。俺の気持ちなんて、これっぽっちも分かっちゃいないんだよ」
次に、テーブルの上の花瓶を倒す。ガラスの花瓶から水がこぼれ、飾ってあった白くて小さな花が、テーブルの上に飛び出す。
「兄貴、やめろって」
清史郎は後ろから謙一朗の腕を掴んだ。振り払われて、尻餅をつく。
華奢で白いこの身体の一体どこにこんな力があるのだろうと思うほど、暴れるときの謙一朗は強い。
「だから、教えてって言ってるじゃない。いつも。お母さん、謙ちゃんのこと、知りたいの。なにに悩んでるか教えてよ。一緒に考えようよ」
舞子は舞子で怯まない。どうしてこの状態の謙一朗に話が通じると思うのか。
清史郎は再び立ち上がり、今度は謙一朗を背中から羽交い絞めにしようとした。抵抗した謙一朗の肘が、清史郎の鼻に当たる。目の前が一瞬真っ白になった。あとから、尖った痛みが清史郎を襲う。
「被害者みたいな面すんな!」
謙一朗は花瓶を持ち、舞子に殴りかかった。舞子は顔を庇い、腕を前に出した。その腕に、花瓶が当たる。清史郎は飛びかかり、その花瓶を奪おうとする。二人で揉みあいになり、その隙に舞子はキッチンの方へ避難する。
「兄貴、落ち着けって。頼む、落ち着いてくれよ」
「ああああああああああ!!!!」
謙一朗が叫ぶ。獣の咆哮のようだった。その目に、涙が溜まっているのが見える。
「そんな風に叫んだって、謙ちゃんが事故した事実はなくならないんだからね。保障するのは、結局お父さんとお母さんなんだからね。人を轢いておいて、そんな態度、おかしいと思わないの?」
「え? 兄貴、人を──?」
わずかに清史郎の力が緩んだ。その隙に、謙一朗は清史郎を押し倒した。
「うああ! あああ!」
謙一朗は花瓶を放り投げ、拳で清史郎の顔に殴りかかった。清史郎はそれを止める。腕を掴み、「やめろ」と叫ぶ。
「俺は、俺は、俺だって!」
「兄貴、落ち着け、落ち着けよ!」
清史郎の顔のすぐ傍に、謙一朗の拳がある。それを押さえる清史郎の手のひらは、力と力の衝突に、震えている。
突然、ふっ、と謙一朗の力が抜けた。それまで反発していた清史郎の力で、ぐん、と清史郎の手のひらが空を切る。
「誰も俺の気持ちなんか分かんねえよ! 俺だって、やり直そうと思って、頑張ろうと思ってんのによ! いつもお前らが邪魔すんだ!」
謙一朗は叫び、立ち上がる。先ほど舞子に投げたティッシュケースを拾い、キッチンの舞子に向かって投げる。舞子は身体を横にかわす。ティッシュケースは冷蔵庫に当たり、床に落ちた。謙一朗の立ち去ろうとする雰囲気を察し、舞子が叫ぶ。
「待って謙ちゃん。もうちょっとちゃんと話を」
謙一朗はぎり、と歯を食いしばる。血走った眼で、清史郎を見る。清史郎も立ち上がり、謙一朗を見る。数秒、兄弟で睨みあった。
「ちっ」と謙一朗は舌打ちをし、清史郎を蹴った。清史郎も舌打ちを返す。
謙一朗はダイニングテーブルの天面をだん、と大きな音で殴り、ダイニングを出て行った。どすどす、と不機嫌を露わにする足音が遠ざかり、ばたん、と扉を閉める音と共にやんだ。どうやらまた、自室にこもったらしい。
清史郎は舞子を見た。舞子は冷蔵庫を背に、へなへなとその場にへたり込んだ。
「どうして、謙ちゃん分かってくれないの? お母さん、こんなに心配してるのに……」
両手で顔を覆い、泣き出した。いつものことだ。謙一朗が暴れ、好き勝手な主張を喚き散らし、舞子が感情を昂らせ、最後に泣く。
謙一朗が暴れたのは一か月ぶりだった。先月は確か、謙一朗宛に届いたネット通販の荷物を舞子が勝手に開封して部屋に届けたことがきっかけだった。そのときも清史郎は止めに入り、腕と足にあざを作った。
引きこもりを始めたころから比べると頻度は減ったとはいえ、舞子と謙一朗は接触するたびに揉めている。こうなることが分かっているのに、舞子はそれでも謙一朗に近付こうとする。同じことを繰り返している。
放っておくわけにもいかず、清史郎は舞子に近付いた。
「お母さん……」
黒い冷蔵庫に反射して、自分の顔が映る。鼻の下あたりが黒い。触ってみる。ぬるっとしたなにかに触れた指先を見て、自分が鼻血を流していることに気が付く。
「あんたなんかに、お母さんの気持ちは分からないわよね。お母さん、頑張ってるのに。どうして、上手くいかないんだろう」
舞子は清史郎の鼻血のことなどお構いなしで泣いている。もうこうなると、数時間は何も手につかない。どうやら今日の夕飯は期待出来そうにない。
さっきのたこ焼き、全部食べておけば良かったな。考えたところでもう遅い。清史郎は黙って、手の甲で鼻血のあたりを拭う。赤い血が、ただ広がっただけだった。
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