【放課後のたこ焼きと君】4
翌日学校へ行ってみると、川口は休みだった。
川口は昨日よりも更に疲れている自分を見てどんな反応をするだろう、と考えていた清史郎は、やや寂しい気持ちになった。そんな自分の気持ちに気付き、いやいや俺は川口のことなんてどうでもいいし、と思い直した。川口はあくまで昨日始めて話したばかりの、ただのクラスメイトだ。
その日も清史郎は学校にいる間、誰とも話をしなかった。机の中には『学校来んな』と書かれた紙が入っていた。『バカ』、『死ね』、『エゴイスト』。質の低い悪口だ。その程度で済むあたり、自分たちのレベルの低さを本人たちも言外に認めているのかもしれない。
少し青くなった鼻の上の小さなあざには誰も気付かなかった。もしくは、気付いても誰も触れたくなかっただけかもしれない。ちょうどよかった。聞かれたところで事情を話す気もない。相手をする手間が省けて助かった。そう思った。
川口の席には誰も座っていないけれど、その空席も、誰も気にしている様子はなかった。
放課後は再び郷里駅で降り、ジャストのフードコートへ向かった。
昨日と同じ店でたこ焼きとコーラのセットを買い、空席を探した。川口が座っていた席が空いていたので、ソファーに腰を下ろし、たこ焼きを食べた。
熱くて、味が濃くて、美味かった。
口を大きく開けるせいか、熱さのせいか、食べていると、鼻の頭のあたりがちくりと傷んだ。
このあざについては、今朝顔を合わせたときも、舞子は何も言わなかった。誠とは顔を合わせていない。
誠の帰宅頻度は、謙一朗が引きこもるようになってから、目に見えて減った。誠の勤める大学病院は、危機的なレベルで医師が足りないらしい。
誠が家にいる日は、謙一朗は舞子に暴力を振るわない。舞子から話を聞いていたとしても、家庭内暴力の現場を誠が目撃したことはない。だからきっと、軽く見ている。舞子がまた大げさに言っている、程度の認識だと清史郎は推測している。
清史郎が身を挺して舞子を守っていることも知らないだろう。こうして傷を負ったとしても、誠からも舞子からも、感謝の言葉をもらったためしがない。
誠は、今の状況をどう思っているのだろう、と清史郎は時々考える。
舞子は清史郎に謙一朗が引きこもっていることを誰にも言うなと厳命した。
近所では謙一朗は海外留学したことになっている。行先はアメリカだ。そういうことになっている。
きっと誠も同じ嘘を吐いているのだと思う。
そのことを咎めず、受け入れる誠の心中が知りたい。そう思うけれど、たまに見かける誠はいつも難しい顔をしていて、そんなことを聞ける雰囲気ではない。
それに、誠が帰ってきた日はここぞとばかりに舞子の口が動く。誠の顔が険しくなるのも当然で、こらえきれない日は口論になる。決して夫婦仲も円満ではない。清史郎も、小さいころから仕事で忙しかった誠に、あまり面倒を見てもらった記憶がない。
誠は家の中で孤立している。その存在感が最近ではどんどん薄れている。誠自身が望んでそうしているのかもしれない。
たこ焼きを食べ終え、清史郎は参考書とノートを開いた。
周りがうるさいから集中出来ないかと思ったが、勉強を始めてみると、意外と悪くないことに気付いた。外が暗くなるまで勉強して、フードコートが混み始めるころに帰り支度を始めた。
明日も来よう、と清史郎は思った。
郷里駅を出たときはまだ降っていなかったけれど、最寄の宅地駅に着いたときには小雨が降っていた。
清史郎は鞄から折り畳み傘を取り出そうとして、鞄に入っていないことに気付いた。
思わず舌打ちが出る。
昨日使って帰宅して、そのまま玄関に置きっぱなしにしてしまった。天気予報は夕方から雨だと把握していたのに。自分の迂闊さに腹が立つ。
仕方がないので、スポーツタオルを取り出し、頭にかぶった。そしてそのまま、家までの道を駆けた。少しでも濡れないように、と、足取りは自然と早くなる。雨の雫が目に入る。目を細めて近付くと、家の前に誰かが立っている事に気付いた。
赤い傘の、若い女だった。
自分に近付いてくる清史郎に、女の方もすぐに気付いたらしい。こちらに向かって手を振った。
「こんばんは。結構、帰り遅いんだね」
「え、いや、えっと」
知らない顔だった。不審者だろうか。清史郎は振り切って家に入ろうかと思ったが、女は清史郎宅の門扉の前に立っている。どいてくれないことには、中に入れない。
「どちら様ですか?」
女は清史郎の問いに、「うふふ」と笑った。綺麗な顔をしている。黒髪を揺らし、清史郎の反応を楽しんでいる。
「あの……?」
「ねえ、お母さんのこと、好き?」
「え?」
突然の質問に、清史郎は上手く反応出来なかった。
「私がお母さんになるって言ったら、どうする?」
「は?」
女は、二十代くらいに見えた。清史郎からすれば、姉でもおかしくない歳の差だと思う。
「いや、あの」
清史郎が戸惑う姿を見て、女は再び笑った。
「私、お父さんと付き合ってるの。君のことも知ってるよ。清史郎くん」
「え? ……てことは、父の」
「そう。彼女」
「……からかわないでください。そこ、どいて。俺、家帰るんで」
清史郎が女の身体を押しのけて門扉に手を伸ばそうとすると、女は清史郎の腕を掴んだ。
「からかってないよ。君の家、ボロボロのバラバラでしょう。早く見切りつけちゃってさ、心機一転、新たな人生のスタートを切ってみてもいいんじゃないの?」
清史郎は反論しようと口を開けて、すぐに閉ざした。
確かにそうかもしれない、と思うけれど、こんな見知らぬ女の言葉を信じていいのだろうか。戸惑っている間にも、女は歌うように、喋り続ける。
「とにかく、君からも、お父さんとお母さんに言ってもらえないかなあ。お母さんに相談しに来たんだけど、分かってもらえなくて」
「……母と、会ったんですか?」
女は頷いた。
「話したけど、分かってもらえなくて。愛し合ってない両親と暮らすなんて、子供にとっては不幸でしょう。私、君のお母さんになってもいいと思ってるよ。とにかく、考えておいて」
そう言って、女は清史郎の腕を離した。
「早く帰りな。濡れちゃうよ」
ふふ、と笑い、女は駅の方へ向かって歩いて行った。清史郎はその背中をぼんやり見送った。もう、髪の毛も、制服も、ずぶ濡れだった。それでもしばらく、家の中に入る気にはなれなかった。
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