エピソード 3

 没落して売られた私に待っていたのは幸せな日々だった。

 ふかふかのベッドの上で目覚め、侍女のマルグリットに朝の準備をお世話される。食事は朝昼晩と、必ず公爵様あらため、旦那様と一緒に食べている。

 母も無事で、見舞いに行くたびに少しずつ容態は回復に向かっている。


 そして錬金術の先生も付けてもらった。初老を迎えた男の先生は、一線こそ退いているものの、この国でも有数の国家資格を持つ優秀な錬金術師とのことだ。

 そんな彼は穏やかな物腰で、だけど本当になんでも知っていた。私が知りたいことを聞けば、まるで楽器のように明確な答えが返ってくる。

 私は彼を師事し、既存のポーションのいくつかを作れるにまで至っていた。


「……ふむ、イリス奥様はとても筋がよろしいですね」

「本当ですか?」

「最初はどうしたものかと思いましたが、いまならいっぱしの錬金術師を名乗れるでしょう」

「すべて先生のおかげです」


 先生から学んだ期間は半年に満たない。だが、独学の数年の何十倍にも至る知識や技術を身に付けることが出来た。私はその事実に深く感謝する。


「イリス奥様のお役に立てたのなら幸いです。その上でお尋ねしますが、貴女はなにを求めて錬金の道を志しているのですか?」

「なにを求めて、といいますと?」

「さきほども言いましたが、貴女は既に立派な錬金術師です。レシピにあるポーションの大半は材料さえ揃えれば造ることが出来るでしょう。しかし、それは深淵を覗いた訳ではない」


 先生の瞳が、静かに私を見つめた。

 私は小さく喉を鳴らし、それから先生の視線を真正面から受け止める。


「錬金術とは、物質を扱う学問である。――だが、それは表向きの説明。真の錬金術とは、生命、魂を扱う分野である……でしたか?」

「その通りです。お渡しした本の最後に書いてあったのですが……よく読んでいますね」


 先生はそう言って笑い、それから少し真面目な顔をした。


「富を得るだけなら、あるいは手に職を付けるだけなら、十分な技量を身に付けました、卒業です。ですが、なにか成したいことがあるのなら、その先を学ぶのも一興ですよ」

「……生命や魂を扱うのは、禁忌とされているのですよね?」

「恐れられている、が正しいでしょう。とはいえ、周囲からよくない目で見られることも珍しくありません。ですから、その神髄に踏み込むのであれば、覚悟が必要です」

「……なるほど。であれば、私が目指す道ではないかもしれません」


 私が錬金術を始めた切っ掛けは、家にお金を入れることと、母の病気を治すためだった。そしていま私が錬金術を学んでいるのは、少しでも旦那様のお役に立ちたかったから。

 どちらの理由にせよ、人目を憚る研究をする理由にはならない。

 そんなふうに説明すると、先生は少しだけ微笑んだ。


「それがよいでしょう。では、貴女は今日で免許皆伝です」


 こうして、私は錬金術としての学びを終えた。

 そして、旦那様はそんな私の判断を褒めてくれた。その上で、これからも学びたいことがあれば好きに学ぶといい、と後押しすらしてくれた。

 そうして、旦那様との幸せな日々は続く。


 おはよう、今日はなにをする予定なんだ? それは大変だ、応援しよう。なにか困ったことはないか? なにかあればいつでも相談してくれ。今日も一日頑張ったな、お疲れ様――など。

 朝昼晩の食事ごとに私の話を聞き、真摯に耳を傾けてくれる。


『死ぬまで君を愛することはない』


 彼にはそう突き放された。

 だが、結婚が風除けのための偽装である以上、なんら不思議ではないことば。だけど、その言葉に対して、彼が私に与えてくれる様々なものが大きすぎる。


「どうして、彼はここまでよくしてくれるのかしら?」


 最初はささやかな疑問。だけど、それは日々大きくなり、私はいつも彼のことを考えるようになった。そして、その思いが恋心に変わるまで、それほど時間は掛からなかった。


 だけど、与えられるのはいつも私ばかりで、私が旦那様になにかを与えたことはない。私の子の生活はすべて、旦那様が私を側に置いてくれているからだ。

 もしも旦那様にとって不要になれば、私はすべてを失ってしまう。


 そんな不安に駆られた私はあることを行動に移した。

 要するに、夜這いを仕掛けたのだ。

 夜の、旦那様の寝室に。


 ――そしていま、私はベッドの上で正座させられていた。


「それで、もう一度、なにをしに来たのか教えてくれるか?」

「その……夜這いをしに来ました」

「……聞き間違いでなかったのか」


 旦那様は顔を覆い、深い溜め息を吐いた。

 ネグリジェ姿で正座させられている私は、あまりの羞恥に顔が赤くなる。どうしてこんな馬鹿なことをしたんだろう。呆れられたかな? 家を追い出されたらどうしようと泣きそうにもなる。

 次の瞬間、肩にシーツが掛けられる。


「……旦那様?」

「あ~その、怒ってないからそんな顔をするな」

「怒って、いないのですか?」

「ああ。ただ、なぜこんなことをしたのかは教えて欲しい」

「それは――」


 お世話になりっぱなしだから、旦那様にもなにかしてあげたくて――と、そんな言葉は、口をつく前に喉元で引っ掛かって止まった。


 ……というかそれ、旦那様が私に惚れていることが前提よね?

 旦那様は縁談が多すぎて迷惑しているくらいだ。相手ならいくらでも見つけられるし、惚れていないなら、わざわざ私を抱く意味もない。

 いや、それ以前、もしかして私、旦那様の気を引きたくて夜這いを掛けたのでは?


 ……あ、あれ?

 日頃のお礼とか言って、もしかして自分のわがままを通そうとしていただけ?


 なんで馬鹿なんだろう。そう思ったらなんだか悲しくて、涙が止まらなくなった。


「イリス、なぜ泣く? もしかして、無理をしてここに来たのか? そんなことをせずとも、俺は君を捨てたりしない。だから、安心して部屋に戻りなさい」


 旦那様は指先で私の涙を掬い取った。

 そうして背中を撫で、立つのを促そうとしてくる。でも、ここで素直に帰ったら、きっと次の機会はない。そう思った私は大きく首を横に振った。


「……イリス?」

「違う。違います。ここに来たのは自分の意思です。私が、公爵様を好きになっちゃったから」


 旦那様の目を見て訴えかける。

 彼は目を見張って――それからどこか寂しげに微笑んだ。


「言っただろう。俺は死ぬまで君を愛することはない、と」

「なぜですか? 歳が離れているからですか?」

「それも多少はある。君はもうすぐ十八だが、俺は二十六になるからな。珍しくない歳の差とは言え、君が周囲から好奇の視線を向けられることもあるだろう」

「そんなのは気にしません。というか、結婚しているのだからいまさらです」

「いや、いずれは白い結婚であったことを明かし、君を自由にするつもりだ」


 白い結婚――それは偽装結婚、つまりは男女の関係ではなかったことを示している。だがそれを明かすと言うことは、偽装結婚が終わると言うことだ。


「私を、捨てるのですか?」

「違う」

「でも、いまそう言いました」


 こんなことを言うのは筋違いだと分かっている。でも、急にこの関係が終わると告げられ、私はその悲しみに耐えられなかった。そうして泣いていると、次の瞬間に抱きしめられた。


「大丈夫だ。君が望まないことはしない」

「……本当、ですか?」


 旦那様の胸に頭を預ける。

 とくんと、彼の鼓動が聞こえてきた。

 それと同時、開いたシャツの隙間から、彼の胸板がわずかに見えた。慌てて視線を逸らそうとしたその瞬間、胸板に紋様が刻まれているのが目に入った。


 ……え? いまの、魔法陣?

 一瞬だったから分からなかったけど、なんだか禍々しく見えた。もう一度たしかめようとするけれど、そのまえに旦那様が私の肩を掴んでそっと引き離した。


 いまのはなんだろうと考えを巡らせる。明らかに痣の類いではなかったし、ただの入れ墨にも見えなかった。なにか、旦那様の重大な秘密に触れたのではと不安になる。

 だけど、私がそれを追及するより早く、旦那様が言葉を続けた。


「心配することはなにもない。このままが良いというのならそれでもいい。俺はただ、そういう選択をしても良いのだと、君に可能性を示したかっただけなんだ」


 その言葉を聞き、私は目にした紋様のことをいったん意識の隅にしまう。

 重要なのは、私がこれからどうしたいか、だから。


「……なら、私はそんな選択を望みません」

「分かった。セレスティア公爵の名において約束しよう」


 それは口約束でありながら、とても重い意味を持つ言葉でもあった。少なくとも、彼がその約束を違えることはないだろうと信じられる。

 私は涙を拭い、コクリと頷いた。


「信じます」

「ああ。約束だ。だから、今日はもう部屋に戻りなさい」


 今度は、彼に促されるままに立ち上がる。私は旦那様の上着を借りたまま部屋の外へ。扉を閉める寸前、部屋の中に残る旦那様に視線を向けた。


「今日は引き下がります。でも、諦めた訳じゃありませんから」


 私は精一杯のイタズラっぽい笑みを残し、旦那様の驚く顔を見ながら扉を閉めた。

 

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