1‐1 第12話 憂いの弓姫、中野姫子
◇2025年(令和7年)1月下旬 ※1545年(天文13年)1月下旬 令和日本静岡県浜松市 中野姫子◇
ぎりぎり……ぎりぎり……ぐぐ……。構えた弓を引き起こし、ゆっくりと引き分けていく。
わっと大きな拍手と歓声が聞こえてきた。弓道部の部活動を見物している姫子のファンだ。
遠州は古くから弓道が盛んで、
「姫子先輩、今日も相変わらず凛々しくて素敵!」「姫子先輩、がんばってくださーい!」
弓道場は外からもよく見える場所にあり、金網の柵を隔ててギャラリーと部員の距離もそう遠くはない。姫子の練習をいつも見守るファンも、練習の邪魔にならないように、部員たちの集中を乱さないように気を配ることができている。いわば質の高い頼もしい応援団のようなものだ。遠州女学院は県立の浜松北部高等学校と隣接していて、その高校からも遠州女学院の弓道部の練習を見に来る生徒が多い。そのほとんどは姫子の応援団なわけだが。
「姫子先輩って、射のあと、まるで誰かを想って祈ってるみたいな目をするよね……」
「うん、まるで、遠い誰かに“ちゃんと届いた?”って聞いてるみたいな……」
「恋してる人の目だよ、あれは……すごく切ないけど、きれい……」
「姫子先輩の、射のあとの残心の表情がわたしすごく好きです」
「私もおなじ」
「うん、わかるー!」
これは姫子ファン1年生女子の共通見解らしい。
「普段の姫子先輩の優しくて柔らかな笑顔と、雰囲気。弓道のときとのギャップがたまらないわよね」
「でも、先輩の笑顔には少しだけ、影を感じない?」
「そう、そう、私も本当の笑顔とはちょっと違うような気がするとは思ってた」
「そうなんだ、今までもずっとそうなの?」
「うん、中学のときからずっと今みたいな感じなのよ」
「ねえ、姫子先輩って彼氏はいないんだよね?」
「いないと思う。先輩、北部高の男の子とかから何度も告白されたことはあるって話だけど、まったく相手にもしないらしいよ」
「いやいやいや、県内トップレベルの進学校の北部高男子もけんもほろろに袖にするなんて先輩すごすぎる」
練習を終えた姫子が、部員に声をかける。
「みんな、お疲れさま。私は生徒会の仕事があるから今日はさきにあがらせてもらうわ、あとはお願いね」
「はい、中野先輩、お疲れさまでした!」
姫子には生徒会の役員としての仕事もある。役職は副会長。会長から熱心に懇願されて、気乗りはしなかったが、あまり多くは携われないけどそれでいいなら、と引き受けた。求心力のある姫子が副会長でいることの効果は絶大で、生徒からの生徒会への信任は厚く、生徒会運営は順調におこなうことができているようだった。1月下旬の現在、年度末が近づき、新年度の予算にかかわる業務で生徒会の活動も忙しい時期であった。
生徒会の会議において、姫子はすすんで意見を述べることはない。役員たちの話し合いを優しく見守り、採決を経て決まった方針には快く従う。決して無関心ということではなく、相談を持ち掛けられれば、話を聞いてできる限りの対応はおこなうようにしている。また、予期せぬトラブルが起こった際には、出向いて解決のため尽力する。先頭に立って生徒を引っ張っていくタイプではなく、よきサポート役、見守り役であり、安心担当なのであった。
4月からは3年生となり、部活動の集大成を迎えた後は、卒業後の進路に向けてそれぞれの生徒は励んでいくことになる。姫子は学業成績も学年上位で、国公立大学、有名私立大学の合格も十分に狙える学力を備えていた。それでも将来への進路について、こうしたいと決心をつけるすべを見失い、姫子の心のもやもやは一向に晴れることがなかった。あきらかに、6年前の直史の行方不明事件を引きずっていたのだ。
あの事件で、直史は光に包まれていきなり姿を消した。光のなかに、ファンタジー魔法世界の小説に出てくるような魔法陣を見た気がした。直史がいなくなって、その日は周辺を散々に探し、以後ご両親、中野家、そして彦根の井伊本家も直史を探すために全力を尽くした。浜名湖ガーデンパークでは、同じ日に、3人の高校生も行方不明になったという。その人たちの状況はわからなかったが、直史と同じように、どこかに消えてしまったのではないかと姫子は思った。行方不明事件は全国ニュースとなり、大きな事件として当初連日ワイドショー番組が取り上げたが、やがて時間が経過すると人々の関心は薄れていった。
別の世界に召喚されて消えていってしまった。きっと、どこか別世界に迷い込んで彷徨っているに違いない、そんな風に考えたが、それを話してもきっとまともに取り合ってくれないだろう。頭がおかしくなったんじゃないか、と思われるのが関の山だ。この6年間、直史が日本のどこかにいて見つかった、という報告があがったことはない。また、どこかで死体が発見された、という悪い知らせもなかった。3年前には、直史のご両親の住む賃貸アパートが住人の失火により全焼してしまい、不幸にもふたりとも巻き込まれて亡くなってしまうという事件が起きてしまった。直史が帰ってきてそのことを知ったら、どれほど悲しむことだろう。そう思うと悲しい気持ちに包まれてどうしようもなくなってしまうのだった。
「姫子、井伊本家からの定期報告がきた。今月も進展はなかった、ということだそうだ」
おじい様が伝えてくれた。進展のない毎月の報告にも、すっかり慣れてしまった。警察への行方不明者の捜索願いとは別に、井伊本家と家臣有志、もちろん中野家も、直史を探し続けている。それでもこの6年間、手がかりもなく暗中模索が続いているとのこと。
「……直史。ねえ、今、どこで空を見てるの?私のこと、まだ覚えてる?」
ふと浮かぶのは、彼が少し困ったように笑った顔。
「あの日、ちゃんと伝えておけばよかった……あなたがいなくなるなんて、思ってもいなかったのに」
こぼれた涙が頬を伝い、枕に静かに染み込んでいく。時を止めたままの想いは、今日も静かに揺れている。
自宅ではあふれる気持ちを抑えず涙に暮れても、学校生活ではそうしてはいられない。心から学校生活を楽しめているとは到底思えなかったが、周囲を暗くしたくなくて、明るく過ごしてきたつもりだ。長く続けてきている弓道にも助けられている。心を落ち着かせ、静かに集中し、一射に気持ちを乗せていく。弓を構えると、心に浮かぶのはいつも直史だった。
一射ごとに、願いを込める。あなたが無事でありますように。今日も空のどこかで、笑っていてくれますように。そうやって放つ矢は、祈りそのものだった。
私の矢がいつか、あなたに届きますように――。
毎日それを見詰める熱心な姫子応援団は、姫子のその姿、その振る舞い、雰囲気を愛してやまない。そして姫子のことをこう呼ぶそうだ、「憂いの弓姫」と。
(あとがき)
遠州女学院のモデル校
・浜松市立高校
・西遠女子学園
を混ぜ合わせたものです。浜松市立高校はかつては女子高(2004年度まで)でしたので、遠州女学院の設定と違和感はあまりありません。
立地は現在の浜松市立高校と同じです。物語内でもお隣には県立浜松北部高校があります。浜松北高校がモデルです。
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