第9話 趙雲編 ─長坂坡の戦い─

(1)信じ続ける者


遅れていた。


曹操そうそう軍の接近が報じられてから、すでに半日が過ぎている。

劉備の拠点だった新野は、曹操の大軍に落とされた。

劉備は多くの民を連れて南へ逃げている途中だったが、曹操は精鋭の騎兵を率いて、猛烈な追撃をかけていた。


追撃の先頭に立つ夏侯恩かこうおんが、当陽とうようの北で後衛を追い詰め始めたという噂も、朝のうちに届いていた。


それでも、隊列は進まない。


馬を並べ、静かに前方を眺めていた男がいた。


趙雲ちょううん。字を子龍しりゅう


一騎で道を切り開くことより、主の背中を守ることを選ぶ男だった。


道は人で埋まっている。

老人は杖をつき、子どもは母親の裾を掴み、荷車は泥に輪を沈めて動かない。

泣き声が、風に混じって絶え間なく聞こえてくる。


誰も、苛立つ者はいなかった。

苛立つ資格など、最初からなかった。


劉備は民を、捨てられない。


趙雲はそれを、知ってしまっていた。


劉備は馬を降り、道端に座り込んだ老婆に水を差し出し、

倒れそうな荷車を兵と一緒に押し、

泣く子どもの頭を静かに撫でている。


その姿は、軍を率いる将のものではなかった。

ただ、一人の男が、そこにいるだけだった。


劉備は、明確な命令を出さない。


「民を守れ」

「家族を頼む」

「先に行け」


どれも、曖昧だった。

逃げろとも、戦えとも、捨てろとも言わない。

責任を、相手に預けてしまう言葉。


趙雲は、その声色で察していた。

これは命令ではない。

期待だ。


期待されてしまった者は、去れない。


劉備の側室・かん夫人が、幼い息子・阿斗あとを抱いて荷車に乗っていた。

朝のうちは、まだ近くにいた。

趙雲は時折、馬を寄せて様子を見ていた。

劉備も、同じように声をかけていた。


「大丈夫か」

「阿斗は泣いていないか」


甘夫人は微笑み、頷くだけだった。



──その微笑みが、いつからか、いなくなっていた。


混乱の中で、自然に消えた。

誰も「奪われた」とは言わない。

ただ、「見当たらない」と、誰かが呟いた。

荷車は倒れ、布が散らばり、阿斗の泣き声は、もうどこからも聞こえない。


諸葛亮しょかつりょうはいち早くその異変に気づき、趙雲に伝える。

忘れていた痛みが胸を突く。


人は、去る。

理由など、教えてくれない。


趙雲は馬を止めた。

周囲の兵が、南へ南へと流れていく。

劉備の姿は、すでに遠く、民の群れに紛れている。


誰も、趙雲に命じない。

劉備も、関羽かんうも、張飛ちょうひも。

隣にいる諸葛亮も、何も言わない。


ただ、静かに見ているだけだ。


趙雲は、軍としては不合理だとわかっていた。

一人で戻れば、生存率は低い。

曹操軍の先鋒は、もう長坂ちょうはんの北まで迫っている。

戻る理由など、どこにもない。


それでも、馬首を返した。

──甘夫人とご子息を探す。


劉備は、趙雲が去ることを、想定していない。

期待されてしまった者は、去れない。


背後で、劉備の隊列が遠ざかっていく。

民の泣き声が、逆方向に流れていく。

風が冷たく、埃を巻き上げて視界を曇らせる。


諸葛亮の姿が、一瞬だけ目に入った。

馬上から、静かにこちらを見ている。

止めない。

追いもしない。


ただ、


──行け。


諸葛亮の聞こえた気がした。


趙雲は槍を握り直した。

白銀の鎧が、夕陽を弱く反射する。


期待されるという重さが、 そのとき初めて、剣より重いと思った。


長坂坡ちょうはんはは、まだ先だった。


ただ、趙雲は一人、北へ向かって馬を駆けた。

民の声が遠ざかり、風だけが耳を打つ。


長坂の空は、広く、どこまでも灰色に染まっていた。





(2)拾うための戦い


風が、熱かった。


馬が駆け下りる坂の向こうから、炎の匂いが吹き上げてきた。

煙が視界を塞ぎ、悲鳴が耳を劈く。

馬の嘶き、剣の衝突、肉が裂ける音。

すべてが近すぎて、思考が途切れる。


趙雲は、馬を飛ばした。


長坂坡は、もう戦場だった。

曹操軍の騎兵が、民の群れを追い立て、斬り伏せている。

道は死体と荷物と血で埋まり、炎があちこちで上がっていた。


最初に見えたのは、倒れた老婆だった。


荷車の下敷きになり、足を挟まれて動けない。

近くで子が泣き、母親の屍体にすがっている。


趙雲は馬を止め、槍を捨て、老婆を抱き上げた。

近くの木陰に運び、子を抱いてそこへ置く。

老婆は震える手で趙雲の袖を掴んだが、何も言えなかった。


迷わなかった。

選ばなかった。


次は、道の真ん中で立ち尽くす少年。

父親の屍体を抱えて、動けない。


趙雲は少年を馬に乗せ、後ろへ回した。

少年は泣きじゃくりながら、趙雲の鎧を掴んだ。


突然、馬の嘶きが聞こえた。


曹操軍の兵、三人。

槍を振り上げ、馬を駆けてくる。


趙雲は剣を抜き、斬った。


邪魔だった。


一人は喉を、二人は胸を、三人は馬ごと倒した。

血が顔にかかる。

熱い。

重い。


剣は、ただの動作。

守るための、延長だった。


道を進むたび、目に入るものを拾った。

倒れた民を起こし、泣く子を抱き、荷車をどけ、敵が来れば斬る。


劉備の側室・甘夫人の痕跡は、散らばっていた。


引き裂かれた布切れ。

踏み荒らされた荷車。

血の跡が、道を北へ続いている。


まだ、遅くないはずだ。


だが、胸の奥で、何かが囁く。

もう遅いかもしれない。


敵は次々と現れた。

趙雲は斬り続けた。

槍を拾い直し、剣を振り、馬を駆る。

息が上がり、鎧が重くなる。

肩が、熱い。

どこかで、矢が掠めたらしい。


それでも、前に進んだ。


一人の男が、道を塞いだ。


青い剣を掲げ、馬を止める。

曹操軍の旗の下、威風を背負った態度。


「夏侯恩だ。我が君が託したこの青釭剣せいこうけんが貴様の首を頂く。」


名乗った。

剣を振りかぶり、突っ込んでくる。

趙雲は、ほとんど聞いていなかった。


視線は、背後の民に向いていた。

倒れた荷車。

遠くの泣き声。


「我が君の威に逆らう者、すべて斬る」


まだ何か言っている。

邪魔だった。


槍を構え、馬を進めた。


一合。

剣と槍が交わり、衝撃が腕を震わせる。

二合。

夏侯恩の剣が肩を掠め、鎧の継ぎ目を裂く。

三合目で、剣が深く食い込んだ。


痛みが、遅れて来た。

血が鎧を伝い、馬の鬣を濡らす。


それでも、趙雲は槍を突き出した。

夏侯恩の馬の前足を、根元から斬り払った。


馬が嘶き、夏侯恩が地面に落ちる。

青釭剣が宙を舞った。

趙雲は身を乗り出し、剣を掴んだ。


そのまま、落ちた夏侯恩の胸を、鎧ごと斬りつけた。

刃が止まる感触は、なかった。


夏侯恩は動かなくなった。


趙雲は剣を握り直し、馬を駆った。


まだ、拾いきれていない。

遠く、はっきりとした、幼い泣き声が聞こえた。

阿斗の声だった。





(3)地獄の奥で


喧騒が、遠くなった。


馬の嘶き、剣の音、炎の爆ぜる音、悲鳴。

すべてが、水の向こうに沈むように薄れていく。


ただ、一つの泣き声だけが、異様に鮮明だった。


幼い。

途切れ途切れに、しかし確かに。


趙雲は馬を止め、剣を握ったまま耳を澄ました。

煙の奥、崩れた家屋の陰から、声が漏れている。


そこに、甘夫人がいた。


地面に座り、阿斗を胸に抱いていた。

衣は血と泥にまみれ、髪は乱れ、それでも、背は曲がっていなかった。


彼女は、趙雲を見た。


助けを乞わなかった。

嘆かなかった。

恨まなかった。


ただ、静かに阿斗を抱き直し、立ち上がった。


趙雲は馬を降りた。

奪った剣を鞘に収め、近づく。


甘夫人は、何も言わなかった。

理由も、説明も。


ただ、阿斗を差し出した。


「主人の元へ。」


それだけだった。


願いではなかった。

選択肢を与えなかった。


趙雲は、口を開いた。


──無理だ。


言おうとした。


甘夫人は、微笑んだ。

ほんの少し、口の端が緩んだだけ。


それが、別れだった。


彼女は阿斗を、趙雲の腕に押しつけた。


小さな体温が、伝わってきた。

泣き声が、すぐ耳元で響く。


趙雲は、受け取った。


拒めなかった。


甘夫人は、背を向けた。

崩れた家屋の奥、炎が迫る川縁へ歩いていく。

足取りは、揺るがなかった。


ただ静かに、すべてを呑み込んでいく。


阿斗が、腕の中で身じろぎした。

小さな手が、趙雲の鎧を掴む。

泣き声が、少しずつ弱くなる。


重かった。


剣より、槍より、鎧より。


趙雲は、阿斗を抱き直した。

馬に乗る。


もと来た道を振り返った。


これから進む道は、元の道ではない。

より危険で、逃げられない道。


曹操軍の喊声が、再び近づいてくる。


阿斗の頭を撫で、前を向き、馬を駆った。



(4)地獄の出口


包囲された。


曹操軍の騎兵が、四方から迫ってくる。

馬の蹄が地を叩き、喊声が空を埋める。

数は、五十を超えていた。

百に近いか。

逃げ場は、もうなかった。


趙雲は馬を駆った。

阿斗を胸に抱き、剣を握る。


敵が、波のように押し寄せる。


剣を振る角度が、狭い。

阿斗を守る腕が、動きを制限する。

馬の動きも、鈍い。

全力で走れない。


それでも、斬った。

叩き落とした。

突き飛ばした。


一人の兵が、槍を突き出してきた。

趙雲は剣で弾き、馬を寄せて肩を斬る。

血が飛び、兵が落ちる。


別の兵が、横から矢を放つ。

趙雲は身を沈め、阿斗を庇う。

矢が鎧を掠め、継ぎ目が裂ける。


敵は、次々と現れた。


ある兵は、馬を止めて目を剥いた。

白銀の鎧に血が滴り、胸に赤子を抱いた男。

泣き声が、風に乗って聞こえる。


「あれは……人ではない」


噂が、兵の間で広がる。

恐怖が、わずかに動きを止める。


だが、趙雲は気づかない。

ただ、前へ進むだけ。


鎧が、割れ始めた。

肩の傷が開き、血が流れ続ける。

槍は、どこかで落とした。

剣も、血で滑る。

刃がこぼれた。


敵が、再び迫る。


趙雲は剣を振るった。

馬が、息を荒げて踉踉く。

自身も、視界が揺れる。

傷が、重い。

血が、多い。


目が霞んだ。


槍の切っ先が趙雲を襲う。

反応が遅れた。


──斬られる。


阿斗が泣いた。


馬が驚き後ろ足を上げ、槍の切っ先が逸れた。

趙雲はその姿勢のまま剣を振り下ろした。


──その時、遠く、橋の向こうから、怒号が響いた。


地面を揺らす、獣のような声。


張飛の咆哮だった。


曹操軍の兵の足が止まった。

喊声が乱れる。


地獄の出口が、見えた。


趙雲は、馬を駆った。

最後の力を振り絞り、橋へ向かう。


阿斗は、もう泣いていない。


小さな息が、静かに胸に当たった。


目に入った血を拭い、前を向いた。


長坂坡の空は、煙に覆われ、どこまでも赤く染まっていた。



 *        *        *



張飛の咆哮が静寂をつくった。


橋の向こうで、曹操軍の喊声が乱れ、止まる。

馬の蹄の音が、急に消えた。


戦場の喧騒が、水の下に沈むように去っていく。


趙雲は馬を止め、阿斗を抱いたまま息を吐いた。

死の中から生還した実感が、まだ追いつかない。

ただ、風が冷たく、血の匂いが残るだけ。


劉備が、近づいてきた。


阿斗を見た。

趙雲を見た。


「ご子息です。」


趙雲は跪いて、阿斗を差し出した。


声が、詰まった。

目が、赤くなった。


だが劉備は、武功を称えなかった。

勇名を語らなかった。


ただ、趙雲を抱きしめた。


「未熟な主ですまない。」


手は震えていた。


趙雲は静かに笑った。


「だから私がいるのです。」


その言葉に、離れて見ていた諸葛亮の視線が、わずかに揺らいだ。


想定通り、趙雲は失われなかった。

帰ってきた。


だが、

託されたものを抱えて帰って来るということは、

血と泥にまみれながら、なお、笑うことなのだ。


諸葛亮が2人に近づき、膝をついた。


「私も、共にいさせてほしい。」


声は低く、穏やかだった。

だが、そこに揺るぎはなかった。


阿斗の笑い声が長坂の空に響いた。




【歴史解説】長坂坡の奇跡と「主を救う」武名


1. 当陽(とうよう)・長坂の壊滅

 208年、曹操は自ら精鋭騎兵「純州騎じゅんしゅうき」を率いて劉備を追撃しました。一日一夜で三百里を走るという猛追により、劉備軍は当陽の長坂で捕捉され、妻子もろとも壊滅的な打撃を受けます。正史においても、劉備は妻子を捨てて逃げたと記されていますが、その絶望的な状況下で唯一、逆走して戦場に戻ったのが趙雲でした。


2. 青釭剣と夏侯恩

 『三国志演義』において、趙雲が曹操の愛剣「青釭剣」を奪うシーンは白眉です。本作では、それを単なる戦利品としてではなく、「民を救うための邪魔者を排除する道具」として位置づけています。名乗りを上げる夏侯恩を「ほとんど聞いていない」と切り捨てる描写は、趙雲の意識が名誉ではなく、守るべき命にのみ向いていたことを象徴しています。


3. 「阿斗」の救出と甘夫人の死

 劉備の嫡子・阿斗(後の劉禅)を懐に抱いて敵陣を突破したエピソードは、趙雲を「忠義の化身」として決定づけました。本作で描かれる甘夫人の最期は、趙雲に選択の余地を与えない「究極の信託」です。彼女が死を選び、阿斗を託した瞬間、趙雲の戦いは「個人の生存」から「未来の継承」へと変わりました。



【コラム】期待という名の重力 ── 託された者の強さ


 本作の「趙雲編」で描かれたのは、「人は、誰かに信じ切られた時、死を超越する」という真実です。


 劉備という男は、命令によって人を動かすのではなく、その生き方そのもので周囲に「期待」を抱かせます。民を捨てられない、妻子を守りきれない、そんな「未熟な主」である劉備を、趙雲は見捨てることができませんでした。期待されることは、自由を奪われる「鎖」でもありますが、同時に極限状態において足を一歩前に踏み出す「力」にもなります。


 特筆すべきは、趙雲が「拾い上げる」戦いです。 彼は阿斗を探す道中で、名もなき老婆や少年を助け、敵を斬ることを「邪魔をどける動作」として処理しました。彼の白銀の鎧を染めた血は、敵への憎しみではなく、守りきれないことへの悔しさの対価でした。曹操軍が「人ではない」と恐れたのは、趙雲の武技以上に、他者の命を背負った者が放つ異様なまでの執念だったのでしょう。


 橋の向こうで待っていた張飛の咆哮。それは地獄の底から戻ってきた趙雲への、唯一の祝福でした。 劉備が趙雲を抱きしめ「すまない」と呟いたとき、趙雲が返した「だから私がいるのです」という言葉。それは、諸葛亮が隆中で気づいた「孤独を分かち合う絆」の完成形です。


 血と泥にまみれながら、託された重さを笑顔で返す趙雲。その姿を見て、冷静な軍師である諸葛亮さえもが「共にいさせてほしい」と願う。長坂の空に響いた阿斗の笑い声は、絶望の淵で消えかけていた「漢」という名の残り火が、再び強く燃え上がった合図だったのかもしれません。

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