第8話 諸葛亮編 ─三顧の礼─

(1)去られる者


幼い男児が、馬車の前に立っていた。

親族の屋敷は、静かだった。


外では、遠くで旅人の足音と馬の嘶きが時折聞こえる。


黄巾党こうきんとうが起こした乱の余波はまだ残り、民の間に不安が流れ、家族は散り、幼い身をただ移すだけ。


荷物はすでにまとめられ、粗末な箱に詰め込まれている。


叔父の家から、別の親族の家へ。


父は早くに亡くし、母の影もない。


乱世の風が、すべてを散らし、理由など、誰も口にしない。


兄が、傍らに立っていた。


三つ年上の兄・瑾は、これからも叔父のもとに残るという。


自分だけが、別の家へ移される。


兄は、目を赤くしていた。


唇を噛み、肩を震わせ、それでも声を殺して泣いている。


幼い顔に、涙が伝う。

男児は、兄を見た。


兄の涙が地面の土に落ち、わずかに湿った匂いが立ち上った。


男児は、自分の胸に手を当てた。


同じ痛みが、そこにあるはずなのに、涙は出ない。

兄は、男児の手を握ろうとした。


だが、大人がそれを静かに制した。


別れの言葉は、なかった。


きんはここで暮らす」

それだけを、大人に言われた。


男児は、頷いた。


馬車が動き出す。
兄の姿が、遠ざかる。


人は、去る。

去る理由は、教えてくれない。 泣いても、引き止めてくれない。


──諸葛亮しょかつりょう。字は孔明こうめい


彼は幼い心に、それだけを覚えた。



 *        *        *



隆中りょうちゅうの里は、静かだった。


月日が過ぎ、諸葛亮はここに身を寄せていた。

畑を耕し、書を読み、乱世から一歩距離を置いて生きている。


外の世界では、曹操そうそう中原ちゅうげんを制し、袁紹えんしょうの残党が河北で散り、劉表りゅうひょう荊州けいしゅうに影が落ち、新野しんやの小さな城に劉備りゅうびという男が身を寄せているという噂が、時折、旅人の口から漏れ聞こえる。


諸葛亮は、そんな噂を静かに聞き流す。


俺は人に仕えない。

人に期待しない。


期待すれば、縛られる。


必要とされれば、去られる痛みが来る。


兄の涙が、時折胸の奥に蘇る。



あの時、自分は泣けなかった。


泣くことで、何かが変わるなら、とっくに泣いていた。


だから、諸葛亮は誰にも必要とされない場所を選んだ。



隆中の茅廬は、遠く、訪ねてくる者も少ない。

自由とは、誰にも縛られず、誰にも去られず、
ただここにいることだと、彼は静かに結論づけた。


風が吹き、草が揺れる。


秋の陽が、穏やかに畑を照らす。


ここは誰も来ない。


だから誰も去らない。


諸葛亮は、鍬を握り、土を起こした。

土を起こすたび、乾いた音が響き、秋の陽が背中に温かく当たっていた。


隆中の空は、高く、どこまでも広がっていた。



 *        *        *



ある日の午後、茅廬の外に人影が現れた。

男の衣が風に揺れ、かすかな布の音が茅廬に届いた。


質素な衣をまとい、防備など、まるでなく、刺客が現れれば一瞬で命を落とす。

それがわかっているはずなのに、この男は静かに門前に立っていた。


諸葛亮は、窓からその姿を横目で見た。


男はただ待っている。

頭を下げ、何も語らない。

男の姿は、兄の泣く顔と重なった。


──俺は今、何を期待した。


諸葛亮は、静かに目を閉じた。

胸の奥に、幼い日の兄の涙が蘇る。


期待すれば、縛られる。

必要とされれば、去られる。


諸葛亮は、奥の書斎に深く籠もった。


会わなかった。


夕暮れまで立ち尽くしていた男は、静かに去った。


これが劉備との出会いだった。




(2)期待する者


隆中の冬は、冷え込んだ。


劉備が二度目に訪れたのは、雪がちらつく日だった。


今度も一人で。


関羽も張飛も連れず、質素な衣に雪が積もり始めている。


頭を下げ、門前に立つ。


長い時間、動かない。


諸葛亮は、窓からその姿を見た。

胸の奥に、小さな疼きが走る。

前回と同じように、奥に籠もればいい。



会わなければ、去るだけだ。


劉備は、雪の中で頭を下げ続けている。


防備など、まるでない。


寒さが体を蝕むのも構わず、ただ待っている。


──この胸のざわめきはなんだ。


諸葛亮は、静かに目を閉じた。


とうに心など無くしたと思っていた。


新野の噂は、すでに諸葛亮の耳に入っていた。

徐庶は、籠に入った。


そして、別の籠へ去った。


人は去る。

劉備は、それでも恨まない。


去られた痛みを、胸に抱えたまま、再びここに来て、頭を下げている。


──あの男はなぜ人に期待する。


諸葛亮は、初めて茅廬の戸を開けた。



だが、外には出なかった。


ただ、奥から、静かに見つめた。


劉備は、雪の中で頭を下げ続けている。

雪が積もる肩をわずかに震わせた。


防備など何もない。

指先が紫色に変わり、雪を払おうとした手が、わずかに震えた。

雪が衣に積もり、冷たい重みが肩にのしかかっているのが、遠目にもわかった。

それでも、頭は上がらない。


──裏切られても、恨んでいるようには見えない。


去られても、追いかけようともしない。

それでも、またここに立っている。


夕暮れが近づき、雪が深くなる。


劉備は、静かに背を向けた。

足跡だけが、茅廬の前から遠ざかっていく。

足跡は、途中で一度も乱れなかった。


諸葛亮は、戸を閉めた。


胸の奥に、疼きが残る。


それが2度目の出会いだった。




(3)知っている痛み


隆中の春は、穏やかだった。

春の土の匂いが新しく、青草の香りが風に乗って鼻をくすぐった。


劉備が三度目に訪れたのは、草が青々と伸びる頃だった。


茅廬の外に、再び人影が現れた。


今度も一人で。


質素な衣をまとい、頭を下げ、門前に立つ。


長い時間、動かない。


諸葛亮は、鍬を持ち、静かに外へ出た。


劉備に会うためではない。

今日も畑を、耕さねばならぬから。


劉備が、驚いたように顔を上げた。


互いの目が、静かに絡まる。


劉備は何も語らない。

天下の形勢も、仁義の道も、策の必要も口にせず、劉備は、まっすぐ諸葛亮を見つめた。


「私には才がありません。」


諸葛亮は、答えなかった。


この男も同じか。

そう思った。


俺を訪ねる者は全てそう言い、この後に諸葛亮の才を褒め称える美辞麗句を並べる。


だが劉備は、拳を握りしめた。


「私は孤独なのです。それが悔しい。」


ただそう言い、視線を逸らさなかった。


諸葛亮はその瞳から逃げられなくなった。


初めての経験だった。



理想を捨てられない男。


去られても恨まず、裏切られても背を向けず、
民の泣く姿を前に、ただ孤独に立ち続ける男。


民に囲まれ、義兄弟に信頼され、それでも劉備は孤独なのだ。


諸葛亮が胸の奥に押し込めていたものを、劉備は言葉にした。

孤独とは、寂しさではない。

悔しさなのだ。


──俺も、同じ痛みを知っている。


諸葛亮は、畑を見渡した。

風が吹き、草が大きく揺れる。


春の陽が、すべてを穏やかに照らしている。


諸葛亮は、鍬を静かに置いた。


天下のためではない。


ただ、孤独の痛みを一人分で断ち切るために。


劉備が、息を呑むのがわかった。

諸葛亮は、穏やかに言った。


「行こう」


それだけだった。


劉備の目に、初めての笑みが浮かんだ。


劉備の笑みを見て、諸葛亮は一瞬だけ視線を落とした。


──兄との別れの場で俺は泣けなかった。


前を向いた。


春の風が二人の間を吹き抜けた。


口の端が初めて緩んだ。


畑の草が擦れ合う音が、やけに近く聞こえた。



諸葛亮は、茅廬を背に、歩き始めた。


籠の外から、籠の中へ。


だが、もうそれは呪いではない。

ただ、一つの矛盾を終わらせるための、静かな一歩だった。


隆中の空は、高く、どこまでも広がっていた。




【歴史解説】三顧の礼と諸葛孔明の登場


1. 孤独な天才、隆中に潜む

 諸葛亮は、若くして両親を亡くし、叔父に従って荊州へと逃れてきました。名門の家柄でありながら、自ら晴耕雨読の生活を送り、「管仲かんちゅう楽毅がくき」という伝説の賢臣に自らをなぞらえていたと伝えられています。本作で描かれる「叔父との別れ、兄との別離」は、彼が後の冷徹なまでの合理的思考を身につけるに至った、精神的な孤独の原点として位置づけられています。


2. 「三顧の礼」の真実

 207年、新野に駐屯していた劉備が、三度にわたって諸葛亮の草庵を訪ねた「三顧の礼」。正史においては簡潔な記述に留まりますが、『三国志演義』では雪中での訪問など、劉備の誠意が強調されています。本作では、軍事的な「策」を求める交渉としてではなく、去られることを恐れる者(諸葛亮)と、去られても信じ続ける者(劉備)の、魂の呼応として描かれています。


3. 天下三分の計

 三度目の対面で、諸葛亮は「天下三分の計」を説きました。曹操の天時、孫権の地利に対し、劉備には「人の和」があるとし、荊州と益州を拠点に天下を分かつ戦略を提示します。これは、寄る辺なき流浪の将であった劉備に、初めて明確な「未来」を与えた瞬間でした。



【コラム】期待という名の自由、孤独という名の絆


 本作の「三顧の礼」において描かれたのは、「孤独を知る者同士が、互いの欠落を認め合った瞬間の救済」です。


 諸葛亮は、幼い日の別れの記憶から「期待しないこと」を自衛の手段としてきました。誰にも仕えず、誰とも深く関わらない隆中の生活は、去られる痛みのない「完璧な平和」でした。しかし、それは同時に、誰もいない荒野で一人立ち続けるような、乾いた孤独でもありました。


 そこへ現れた劉備という男は、諸葛亮が最も嫌ったはずの「期待」の塊でした。 彼は徐庶に去られ、関羽や張飛という最強の個を持ちながらも、なお「自分には才がない、孤独だ」と吐露します。劉備の孤独は、独りでいることの寂しさではなく、救いたいと願う民がいるのに、力が足りない」という、他者との繋がりを求めるがゆえの悔しさでした。


 「お前は悔しいか」 かつて官渡の牢獄で田豊が遺した問いに、この時、諸葛亮は劉備の瞳の中に答えを見つけました。 「俺も、同じ痛みを知っている」 その共鳴が、諸葛亮に鍬を置かせました。彼が隆中を出たのは、天下を操る野心のためではなく、劉備という男が背負う孤独を、半分引き受けるためだったのかもしれません。


 春の風が吹き抜ける隆中。 「行こう」という一言で、諸葛亮は安全な「籠の外」を捨て、戦火の絶えない乱世へと身を投じました。しかし、劉備の隣に立つ彼の足取りは、不思議と自由でした。期待されることは、もはや呪いではなく、自分が必要とされているという「生」の証へと変わったのです。


 隆中の空はどこまでも高く、二人の歩む道の先には、まだ誰も見たことのない新しい時代の風が吹き始めていました。

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