第10話 周瑜編 ─赤壁の戦い─

(1)整えられた風


曹操そうそうの八十万の大軍が、長江を下ってきた。


荊州けいしゅうは既に落ちた。

劉表りゅうひょうは病没し、長男の劉琮りゅうそうは無血降伏を決めた。

その圧倒的な兵力が、次はの喉元に刃を突きつける。


柴桑さいそうの軍議の間は、重い沈黙に支配されていた。

呉の若き領主・孫権そんけんは、剣の柄を握りしめていた。

白い指の関節が、わずかに震えているのを見逃さなかった男がいた。


呉の大都督だいととく

周瑜しゅうゆ。字を公瑾こうきん


「降るか、戦うか」


孫権の声は、まだ揺れていた。

若さゆえの迷い。

決断の重さに、身体が追いついていない。


群臣の多くが、視線を伏せ、やがて膝を折った。


「曹操の軍は八十万。我らはわずか数万」

「抗えば、江東こうとうは一瞬で灰と化しましょう」

「降伏こそが、民を救う唯一の道」


言葉は整然と並び、理屈も申し分ない。

だが、周瑜の胸の奥で、何かが軋んだ。


孫権の顔から、血の気が引いていく。

父・孫堅そんけんのような猛々しい威光はない。

兄・孫策そんさくのような灼熱の輝きもない。


それでもこの若さで、この座に座っている。

支えねばならない。


周瑜は、心の奥で繰り返した。

この主君を、迷いのままに押し流してはならない。

だからこそ、自分が崩れてはならない。

自分が、完璧でなければならない。


不安も、恐れも、未熟さも、すべてを自分の内に呑み込み、 旋律の中に封じ込める。

鼓の響きを低く抑え、角を鋭く高くし、笛で風を導くように、すべてを調律する。


周瑜は、静かに一歩、前に出た。

その足音一つで、議場の空気が凍りついた。

視線は、周瑜だけに注がれる。


「我が君。」


声は低く、抑えられている。

だが、迷いはない。


「もしここで膝を屈すれば、先代の虎の咆哮も、兄上の江東平定も、すべて水の泡となります。」


群臣がざわめく。

理屈では、誰も反論できない。

孫権の瞳が、大きく揺れた。


「では、大都督殿には勝てる策がおありか。」


一人の重臣が、棘のある声で問うた。


「ある。」


周瑜は、即答した。


「私だ。」


それは大言ではない。

挑発でもない。

ただ、純粋な覚悟。


孫権は、長い沈黙の後、ゆっくりと剣を抜いた。

刃が振り下ろされる。

あまりに速く、周瑜の目さえ追えなかった。

議場の中央に置かれた机が、真っ二つに斬り裂かれた。


乾いた裂音が、静寂を切り裂く。

机だったものが床に転がり落ちる。


「これより、降伏を口にする者は――」


孫権の声が、議場を震わせた。


「この机と同じ運命だ」


その目に宿っていたのは、恐れではない。

虚勢でもない。

純粋な炎だった。


周瑜は、息を呑んだ。

未熟だと決めつけていた。

自分こそが支えるべきだと、思い込んでいた。


だが、この一瞬──

この男は、周瑜の理を超えてきた。


完璧ではない。

だが、完璧など及ばない、凄みがそこにあった。


周瑜は、深く頭を下げた。

作為のない、純粋な敬服だった。


この男を支えるためなら、

自分はどれほど無理をしても構わない。


周瑜は、地図に手を伸ばした。


兵の配置。

船の並び。

矢の数、糧米の量。

風向き、潮の流れ。


すべてを、緻密に整えていく。

そこに感情は入り込まない。

叫びも、迷いも、許さない。


長江の水軍は、美しく調和する。

楼船、蒙衝、走舸が、楽器のように列をなす。

鼓は低く、角は高く、笛は風を切るように。

兵たちは、その旋律に合わせて動く。


火計の備え。

連環の策。

すべてが、一つの完璧な籠となる。


──ただし。


この籠を、完全に仕上げるためには、

最後の駒が、まだ必要だった。


それは、劉備りゅうび

そして、諸葛亮しょかつりょうだった。




(2)異物の温度


夜。

柴桑の館の一室。


灯りは一つだけ。


4人の男が同じ卓を囲んでいた。


劉備。

諸葛亮。

孫権。

そして周瑜。


周瑜は、主座から半歩外れた位置に座っていた。

主は孫権。

自分は補佐。

それでいい。


軍議の場ではない。

だが、この男は同盟を組める相手なのか。

それを見極める場であった。


周瑜は酒の量を、言葉の間を、沈黙の長さを、無意識に整えていた。

誰も気づかない。

周瑜だけが、自覚していた。


崩すな。

主君を、不安にさせるな。

完璧であれ。


劉備は、杯を手に取る前に、一瞬だけ指を止めた。

それでも、ゆっくりと口に運ぶ。


やがて、孫権に向かって、静かに言った。


「私は、負け続け、逃げ続けています。」


周瑜の指が、杯の縁で止まった。

何を話し出すかと思えば、この男、やけに弱気だ。


孫権が、視線を落とす。


周瑜は、空気を継ごうとした。

理のある言葉で、場を整えるために。


だが、孫権が先に口を開いた。


「だが、劉皇叔こうしゅくは、ここに立っている。」


未熟なままの、率直な一言。


周瑜は慌てて付け足した。


「我が君は、劉皇叔がご謙遜されていると申しているのです。」


劉備は、わずかに口元を緩めた。

笑いとも、頷きともつかない。


諸葛亮が、周瑜を見た。


じっと。


静かに、問うた。


「周都督ととくは、立っておいでですか。」


何を問われたのか、すぐにはわからなかった。


答えに窮していると、諸葛亮が続けた。


「私も、我が君も、真に一人では立ってはいないのです。

しかし、孫将軍には、我が君は立っているように見えた。なぜか。」


周瑜の額に、薄い汗が浮かんだ。


諸葛亮は、穏やかに答えた。


「それは、」


諸葛亮は、周瑜ではなく孫権を見て言った。


「我が君も、私も、未熟だからです。」


周瑜は、すぐには理解できなかった。

未熟であることと、立っていることが、どう結びつくのか。


だが、胸の奥を、鋭く掴まれた。

杯に映る灯りが、わずかに揺れている。


周瑜は、絞り出すように話し出した。


「私は未熟ではいてはならぬのです。主君はまだ若い。江東は広く、敵は強い。私が揺れれば、主も揺れる。 完璧でなければ、国は守れない。」


灯りが、揺れた。


孫権は、杯を置いた。

手の震えは止まっていた。


「公瑾、いつもすまぬ。俺は弱く、一人では立てぬ。劉皇叔。孔明殿。私は弱い将軍です。しかし、」


低く、呟く。


「だから私は、公瑾と共に立っている。」


周瑜は目を見開き、孫権の瞳を覗き込んだ。

主の瞳は深く、深く澄んでいた。


劉備が、静かに口を開いた。


「同じです。私も弱い。孔明もまた、弱い。」


そして、深く頭を下げた。


「だからこそ、今、私はこの卓にいる。」


沈黙が落ちた。


周瑜は、自分の杯を見た。

杯には、まだ酒が残っている。

周瑜は、それを一度、机に戻した。


——整え直すつもりだった。

だが、指が止まる。


ゆっくりと杯を持ち上げ、

一息で飲み干した。


苦い。

だが、熱い。


この直感に、理のある説明などできない。

しかし、


──俺を超える男に初めて会ったのかもしれない。

しかも、同時に二人。


周瑜はこの二人から、目を離せなくなっていた。




(3)東南の風


長江は、炎に呑まれていた。


黄蓋こうがいの火船が曹操の連環艦に突入し、瞬く間に火の手が上がる。


自分の策が、完璧に決まった。

偽降の計、連環の罠、火船の配置、矢の雨。


すべてが、自分の調律通り。


周瑜は、楼船の最上層に立ち、静かに見下ろしていた。

鼓は低く、角は鋭く、笛は風を導く。


呉の水軍は、美しく旋律を描き、曹操軍を焼き払う。

ここまでは、周瑜の読み通りだった。


だが。

風が、変わった。


最初は穏やかな南東風だった。

火を運ぶのに十分な、計算された風。


それが、突然、猛烈な勢いを増した。

まるで天が味方したかのように、火は爆発的に広がり、長江全体を赤く染め上げるほどの炎となった。


曹操の八十万は、完全に逃げ場を失う。

巨艦が次々と崩れ落ち、悲鳴が夜空に満ちる。


この風は、自分の想定を超えている。


周瑜の瞳が、遠くの劉備軍の陣に向かった。

そこに、羽扇を静かに収める男がいる。


諸葛亮。


軍議の場で、奴は言った。


「3日後、強い東南の風が吹く。それが機です。」


周瑜は、即座に反論した。


「冬の長江に、強い東南の風など吹かぬ。北西の風が常だ。吹いたとて弱い。」


それでも、諸葛亮は穏やかに微笑んだだけだった。

そして、劉備が強く言った。


「孔明を信じる。奴の知は、天を読み、風を予見する。周都督、それでこそ我らは勝てる。」


劉備の瞳は、揺るがなかった。

負け続け、逃げ続けた男が、不確定な予言を、まるで確実であるかのように信じ切っていた。


なぜだ。

なぜ、あの男はあそこまで信じられるのか。


不確定を、弱さを、未熟さを抱えたまま、なぜあんなに強く、風を待てるのか。

周瑜には、理解できなかった。


偶然かもしれない。


だが、そう言い切るには、風はあまりに従順すぎた。

まるで、諸葛亮の知に応えたかのように。


自分の策がなければ、この火計は成立しない。

黄蓋の覚悟も、連環の罠も、すべて自分が整えた。


なのに、最後のこの風——


この最強の一矢は、孔明の予見がもたらしたものだ。


決定的な決着は、向こうに奪われた。


胸の奥に、鋭い棘が刺さる。

悔しさではない。


ただ、理解できない。

完璧でなければ、守れない。

すべてを計算し、調律し、確実でなければならない。

それが、俺だ。


なのに、彼らは違う。

不確定を信じ、弱さを共有しながら、天さえ動かしてしまう。


炎は夜通し燃え続けた。

整えられた風は、最後に他者の知によって猛りを増し、美しく、圧倒的に、長江を吹き抜けていった。

周瑜は、ただその炎を見つめていた。

完璧な勝利だった。


——それでも。

視界が、わずかに滲む。

熱いものが、頬を伝う。


だから気づかなかった。

すぐ隣に、孫権が立っていることに。


主君の声が、静かに響いた。


「公瑾。ありがとう。」


周瑜は、ゆっくりと目を開けた。

孫権の瞳は、炎を映して、深く澄んでいた。

その瞳に、自分の揺らぐ姿が映っている気がした。


周瑜は何も言えなかった。

ただ、深く頭を下げた。



(4)揺らがぬ風

長江の水面には、焦げた木片と灰が浮かび、風はもう、炎を運ばない。

ただ静かに、冷たく、夜の空気を撫でるだけだ。


勝利の喧騒は遠く、陣の奥で続いている。

兵たちは酒を回し、将たちは笑い、曹操の八十万が灰となったことを祝う。


周瑜は、その外側にいた。

一人、楼船の舷側に寄りかかり、

暗い水面を眺めていた。


勝った。


完璧に近い勝利だった。

自分の策が、呉の未来を確かに守った。


なのに、胸の奥に残るのは、整えきれなかった小さな歪みだけ。

孔明の知がもたらした、あの最後の風。

劉備が揺るがず信じ切った、あの不確定。


なぜ、あれほど強く待てたのか。

なぜ、弱さを抱えたまま、天を動かせたのか。


周瑜は、まだ答えを持たなかった。

ただ、違和感だけが、静かに疼いていた。


やがて、遠くから一人の男が近づいてきた。


諸葛亮。


あの羽扇を手に、静かに歩み寄る。


周瑜は振り返り、軽く頭を下げた。

諸葛亮も、同じく。


短い沈黙。


「周都督、素晴らしい戦いでした。」


穏やかな声。

周瑜は、静かに答えた。


「孔明殿の知が、決着をくれた。」


諸葛亮は、わずかに首を振った。


「いえ、私の知など、都督の策がなければ、ただの空論です。」


互いに、礼を尽くす。

それだけ。


視線が交わる。

深い、静かな視線。


周瑜は思った。


この男たちは、正しいのかもしれぬ。

だが、自分は彼らのようにはなれぬ。

弱さを晒し、不確定を信じ、それでも天を動かすことなど、できぬ。

折れるつもりはない。

変わるつもりもない。

それが、俺だ。


諸葛亮は、静かに背を向け、去っていった。

劉備の陣へと戻る。


周瑜は、再び水面を見下ろした。



 *        *        *



夜が深まった頃。

陣の片隅、小さな火が灯る一室。


孫権が、一人で酒を注いでいた。

周瑜が入ると、孫権は無言で杯を差し出した。

形式はない。

主従の礼もない。

ただ、二人だけ。


孫権が、静かに口を開いた。


「公瑾。俺は、まだ未熟だ。」


周瑜は、杯を受け取りながら、黙って聞く。


「父上のような猛々しさも、兄上のような輝きもない。負けそうになることも、怖くなることも、ある。」


孫権は、杯を置いた。


「それでも、俺はここにいる。江東を背負う。」


周瑜の胸が、わずかに軋んだ。


孫権は、弱さを隠さず、未熟さを認めながら、それでも主君として立っている。

そして、自分を、必要としている。

支えられる側ではなく、共に立つ者として。


俺は諸葛亮のように、風を信じることはできない。

劉備のように、弱さを晒すこともできない。


だが。


孫権の隣に立つことは、できる。

完璧であろうとする、自分のまま。

周瑜は、杯を置き、深く頭を下げた。


「我が君。」


声は、低く、静かだった。


「これからも、共に。」


孫権は、微笑んだ。


外で、風が吹き始めた。


整えられた風ではない。


乱世の風。


それでも、周瑜は風に向かって立ち上がった。




【歴史解説】赤壁の戦い ── 史上最大の逆転劇


1. 孫劉連盟そんりゅうれんめいの成立

 208年、曹操の南下に対し、諸葛亮は自ら呉へ赴き、孫権を説得しました。正史においても、周瑜は曹操軍の弱点(水戦の不慣れ、疫病、北方の馬が船に弱いこと等)を的確に分析し、数万の兵で八十万を破る勝機を見出していました。本作での「私だ」という周瑜の言葉は、その圧倒的な自信と覚悟を象徴しています。


2. 連環れんかんの計と火計

 曹操軍は船酔いを防ぐために船同士を鎖で繋いでいました(連環)。これを逆手に取り、火を放てば一網打尽にできるというのが周瑜の策でした。しかし、北風(冬の常風)が吹く中で火を放てば、火は自分たちの方へ戻ってきます。そこで必要となったのが、奇跡のような「東南の風」でした。


3. 周瑜という男

 周瑜は「美周郎」と称され、音楽にも精通した風流人でした。演奏のわずかな狂いにも気づき振り返ったという「周郎顧曲しゅうろうこきょく」の逸話があります。本作において、彼が軍を一つの楽器のように「調律」しようとする描写は、彼の美学と完璧主義を捉えました。



【コラム】完璧を求める調律師と、風を待つ信徒


 本作の「赤壁編」で描かれたのは、「計算し尽くされた理」と「信じることで呼び込まれる奇跡」の対比です。


 周瑜にとって、戦いとは「完璧な楽譜」を完成させることでした。地形、兵站、人心。すべてを調律し、隙のない籠を作り上げる。それが若き主君・孫権を守る唯一の道だと彼は信じていました。しかし、劉備と諸葛亮が持ち込んだのは、その「理」の枠に収まらない「弱さの共有」という異物でした。


 「完璧でなければ守れない」と頑なになる周瑜に対し、孫権は「未熟だからこそ、共に立っている」と言い放ちました。これは周瑜にとって、楽譜にない音が響いたような衝撃だったはずです。劉備軍の強さは、負け続け、弱さを晒しながらも、それでも互いを信じ切ることで「天の風」をも味方につけるという、論理を超えたところにありました。


 東南の風が吹いたとき、周瑜は敗北感ではなく、理解できないものへの畏怖を感じました。自分が整えた盤面を、不確定な要素(風)が鮮やかに塗り替えていく。それは、彼がそれまで築き上げてきた「完璧な自分」という壁が、劉備たちの「剥き出しの絆」によって揺るがされた瞬間でもありました。


 結局、周瑜は諸葛亮のようにはなれませんでした。 しかし、孫権と酒を酌み交わし、「共に」と誓ったとき、彼は自分なりの「弱さの受け入れ方」を見つけました。完璧ではない主君を、完璧でありたい自分が支える。それはもはや孤独な調律ではなく、二人で奏でる新しい旋律の始まりだったのです。


 長江を吹き抜ける風は、もはや誰かに整えられたものではありません。 しかし、その風を受けて立つ周瑜の背中は、炎に照らされて誇り高く輝いていました。

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