第7話 徐庶編 ─八門金鎖の陣─
(1)剣を捨てきれない男
そんな中で、新野などという小さな城は、乱世の地図にすら載らぬほどの場所だった。
そんな新野に、かつて、名を囁かれたこともある男がいた。
名を
今は剣を腰に下げ、酒を片手に、ただの客分として日を過ごしている。
何度か劉備が遣いをよこしてきたが、誰にも仕える気などない。
才を認められたいとも思わない。
ただ、あの男の夢がどこまで届くか、横目で見ているだけだった。
* * *
ある日の午後、徐庶は城外の土手に腰を下ろし、川の流れを眺めていた。
川のせせらぎが耳に優しく、土手の草の匂いが微かに鼻をくすぐった
剣は腰に刺している。
捨てきれない。
策が尽き、言葉が尽きたとき、最後に自分を守るのは、これだけだ。
そこへ、劉備が一人でやってきた。
関羽も張飛も連れず、ただの武人のような質素な姿で。
防備など、まるでない。
刺客が現れれば、一瞬で命を落とす。
それがわかっているはずなのに、この男はいつもこうだった。
劉備は、徐庶の隣に静かに腰を下ろした。
しばらく、二人とも何も言わない。
ただ、川の流れを見ている。
徐庶は、横目で劉備を見た。
──何も持たない男だ。
兵は少ない。
地は狭い。
金はない。
背後には劉表という頼りない盾があるだけ。
天下を語るには、あまりに足りなさすぎる。
それでも、この男は語る。
民が泣かぬ世を。
仁と義の世を。
まるでそれが当然のように。
徐庶は、剣の柄に指を這わせた。
冷たい鉄の感触が、掌にじわりと染み、心地よかった。
──俺には、これがある。
才がある。
剣がある。
去る自由がある。
いつでも、ここを離れられる。
より良い主を、より豊かな地を、選ぶことができる。
だからこそ、この男から目が離せなかった。
劉備が、ぽつりと口を開いた。
「元直殿。私には才がない。」
徐庶は、軽く笑った。
「劉
劉備は、川を見たまま答えた。
「仁義を思う。 民を泣かせたくないと思う。
だが、それだけでは、うまくいかぬ。 力がない。 才がない。
だから、民は笑えぬまま泣いている。 それが──悔しい」
徐庶は、初めて真正面から劉備を見た。
互いの目が、静かに絡まる。
──俺がとうに捨てたものを、こいつはまだ胸に抱えている。
仁義など、持っていれば足手まといになるだけだ。
だが劉備はうまくいかぬとわかっていながら、捨てきれずにいる。
それが、どこか怖かったが、同時に眩しかった。
徐庶は、静かに口を開いた。
「劉皇叔の仁義の先を見てみたくなりました」
劉備は、驚いたように顔を上げた。
「仕えてくれるのか」
徐庶は、首を振った。
「いいえ。ただ、横で見させてほしいのです。」
劉備は、穏やかに笑った。
その笑みには、引き止める色はなかった。
徐庶は、剣を腰に差したまま、共に新野の城へ向かって歩き始めた。
──いつでも、去れる。
そう思えたのは、この時が最後だった。
風が吹き、川面が揺れた。
(2)輝く一瞬
誰もが劉備の敗北を予感していた。
曹操の名将・
だが、徐庶の策が、風のようにすべてを変えた。
趙雲が曹仁の本軍を巧みに城外へ引きずり出し、張飛がそれを猛虎のごとく迎え撃つ。
戦いは瞬く間に終わった。
矢傷を負い、血まみれで敗走する曹仁が振り返った時、そこにはすでに手薄の隙を突いた関羽の軍勢が、樊城を落とした姿があった。
劉備により城門が開かれた。
劉備は、時間をかけ、一人一人に声をかけ、 傷ついた者を労い、 飢えた者に食を分け与えた。
徐庶は、少し離れた場所から、それを見ていた。
──俺の一手で、勝った。
策が当たり、戦局が変わり、 民が喜ぶ。
これほど鮮やかな勝利は、久しぶりだった。
才が活きた。
剣を抜く必要すらなかった。
だが、胸の奥に、ほんの小さな違和感が芽生えた。
劉備は、この勝利を前にしても、満足していない。
民が笑っている。
それなのに、あの目はまだ悔しげだ。
徐庶は、静かに城壁の陰に退いた。
歓声が遠く聞こえる。
城壁の下からは、煮えたぎる粥の香りが立ち上り、飢えを癒す民の笑い声が重なった。
関羽が笑い、張飛が酒を振る舞う。
劉備は、まだ民と語らっている。
──俺は、籠の外にいる。
いつでも去れる。
この勝利を糧に、より大きな主の元へ行ってもいい。
才をより高く買ってくれる場所へ。
だが、足が動かない。
劉備の姿が、目に焼きついて離れない。
あの男は、勝ったあとでも背を向けない。
民を見て、悔しがっていた時の言葉を思い出す。
「仁義を思う。だが、それだけではうまくいかぬ。それが悔しい」
劉備は民を思う以上に、自分の仁義がこの乱世に通じないことに、剣を向けている。
仁義を貫きたい。
それが通らない世界に、
苛立ち、悔しがり、
それでも捨てきれずに、剣を握り締めている。
劉備はそんな男だった。
徐庶は、城壁に背を預けた。
──去れなくなり始めている。
この男の夢に、 少しずつ巻き込まれている。
才を貸せば、もっと遠くへ行ける。
だが、貸せば、俺はもっと深く縛られる。
それが、少し怖かった。
風が吹いた。
樊城の上空を、勝利の旗がはためく。
歓声が、まだ続いている。
徐庶は、剣の柄に手を置いた。
冷たい感触が、いつものように心地よかった。
──まだ、去れる。
そう自分に言い聞かせた。
だが、心のどこかで、もう去れないかもしれないと、薄々感じ始めていた。
空は高く、どこまでも広がっていた。
(3)冷静な書簡
新野の空は、高かった。
樊城を落としてから、月日が過ぎていた。
劉備の勢力は少しずつ広がり、民の噂は、仁徳の主として彼の名を運び始めた。
それでも、曹操の影は大きく、
いつ牙を剥くか、誰もが知っていた。
その日、徐庶は城内の書斎にいた。
机の上に、一通の書簡が置かれている。
曹操からのものだった。
使者は既に去り、 劉備も関羽も、まだ内容を知らない。
徐庶は、ただ一人でそれを読んだ。
墨の匂いが新しく、竹を指でなぞるとわずかにざらついた。
文字は、丁寧で、冷静だった。
母上の身を案じておられることだろう。
今、
元直の才を惜しむ。
速やかに来たりて、母上と再会せよ。
遅れれば、母上の身に、思いがけないことが起こるやもしれぬ。
それだけだった。
感情を煽る言葉は、一つもない。
脅しすら、遠回しに。
曹操らしい、冷徹な筆致。
徐庶は、書簡を静かに畳んだ。
──罠だ。
母は、既に死んでいる可能性すらある。
曹操が、そんな手を使う男だと知っている。
孝の名を借りて、敵の才を奪う。
それが、常套手段だ。
それでも、胸の奥に、小さな疼きが残る。
母の顔を、思い浮かべた。
最後に別れたときの、穏やかな目を。
樊城を、劉備の元を去るのは簡単だった。
俺はそういう男だった。
徐庶は、窓の外を見た。
劉備が、庭で兵たちと語らっている。
いつものように、背を向けず、 一人一人に目を配っている。
行けば、劉備の天下への道が遠くなる。
民が泣く。
行かねば、母を思う心が、 孝が、 自分自身が、嘘になる。
徐庶は、書簡をもう一度開いた。
冷静すぎる文面が、胸の奥に静かに刃を突き立てる。
劉備ならどうする。
答えは明白だった。
徐庶は、ゆっくりと立ち上がり、剣の柄に手を置いた。
冷たい感触が、いつもより重い。
──自分で、籠に入る時が来た。
剣を鞘ごと抜き、机に置いた。
外の風が、窓を叩いた。
徐庶は、書簡を懐にしまい、静かに部屋を出た。
劉備は、まだ庭にいる。
気づいていない。
いや、当然、気づいている。
徐庶は、誰にも声をかけず、 城門へ向かった。
──まだ、去れる。
そう思っていた頃が、 遠く感じられた。
徐庶は笑っていた。
そんな自分に気づき、また笑った。
──俺も劉備に笑わされた。
城門へ向かう足を止めた。
庭の方に体を向けた。
その日の空も高かった。
(4)許昌へ
新野の城は、静かだった。
徐庶は、劉備の前に立っていた。
庭の隅、兵たちの声が遠く聞こえる場所。
夕暮れの風が、わずかに木の葉を揺らす。
夕陽が庭の土を赤く染め、遠くで炊事の煙が立ち上る匂いがした。
徐庶は、静かに言った。
「曹操のもとへ、行きます」
理由は、言わなかった。
母のことなど、一言も。
孝の名を借りた罠だとも、 母はもうこの世にいないかもしれないとも。
言えば、この男は止める。
さらなる悔しさを背負わせるわけにはいかない。
劉備は、目を伏せた。
「元直、」
劉備は唇を噛んだ。
「すまない。」
徐庶は、首を振った。
「謝るのは、私の方です。私はあなたに礼を申し上げたい。私は、あなたに救われた。」
劉備が、驚いたように徐庶の目を見た。
その瞳が、わずかに揺れた。
──ようやく一人に届いた。
風が、二人の間を通り抜けた。
これ以上の言葉はいらなかった。
徐庶は、ゆっくりと背を向けた。
去る。
城門をくぐり、新野の里を離れ、 曹操の許昌へ向かう道を、 ただ一人、歩いていく。
許昌には何がある。
母の亡骸か、偽りの再会か。
どちらにせよ、 もう劉備の夢を見ることはない。
徐庶は、ふと足を止めた。
道ばたの、名もない草むらで。
徐庶は赤子のように泣いた。
許昌への道は、振り返らずに歩くには、あまりに長かった。
【歴史解説】徐庶元直と「新野」の夜明け
1. 剣客から軍師へ 徐庶の特異な経歴
徐庶はもともと「
2. 樊城勝利と伏竜の推挙
正史および演義において、徐庶は劉備に仕え、曹操の部将・曹仁を「
3. 曹操の計略と「孝」の呪縛
曹操が徐庶の母を人質に取り、偽の手紙で彼を誘い出したエピソードは、儒教社会において「孝(親への愛)」がどれほど絶対的な力を持っていたかを示しています。徐庶が「罠だと知りながら」も行かざるを得なかったのは、彼が劉備から学んだ「義」を、自らの母に対しても貫こうとした結果と言えるでしょう。
【コラム】籠の外にいた男の、最後の一歩
本作の徐庶編において貫かれているのは、「去る自由」を捨ててまで、誰かの夢に殉じることの切なさです。
徐庶は、天下を俯瞰する「籠の外」の住人でした。彼はどの主君にも仕えず、自分の才と剣だけを信じて歩く、真に自由な男でした。しかし、新野の土手で劉備という「何も持たぬくせに、民の涙に悔しがる男」の隣に座ったときから、彼の自由は少しずつ削り取られていきました。
特筆すべきは、本作独自の「劉備の悔しさへの共鳴」です。 劉備が語る仁義は、多くの群雄にとっては「飾り」に過ぎません。しかし徐庶は、それが通らない現実に本気で歯噛みする劉備の脆さに、眩しさを見出しました。才ある者が、才のない主君の「青臭さ」を補うために、自らの自由を差し出す。その決断は、勝利の歓喜(樊城の戦い)よりも、静かな去り際(許昌への道)にこそ強く現れています。
「自分で、籠に入る時が来た」 曹操の書簡を読み、剣を机に置いた瞬間、徐庶は自由な剣客であることを辞め、劉備の夢の一部になりました。劉備に理由を告げず、ただ「あなたに救われた」と言い残して去る姿。それは、曹操に屈した敗北ではなく、劉備という男に「真の理解者がいた」という証を刻みつけるための、徐庶なりの戦いだったのかもしれません。
道端で赤子のように泣いた徐庶。その涙は、捨てきれなかった剣の冷たさではなく、誰かのために泣けるようになった、一人の人間としての温かさの現れでした。
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