第4話 陳宮編 ─白門楼の決戦─

(1)籠の外の理


曹操そうそう軍との長期戦となった、濮陽ぼくようでの戦いでは、呂布りょふの槍が冴え、陳宮の火計が曹操そうそうを追い詰めた。

天下の覇者と呼ばれ始めた男が、初めて本気で死を覚悟した瞬間を、陳宮ちんきゅうは見た。


陳宮は馬上で、遠くの空を眺めていた。


その「天下の覇者」、曹操の首元に七星剣を突きつけ、そして離れた日の記憶が、ふとよみがえる。


──あの日の空と同じだ。


あの時、なぜ曹操を切らなかったか。

答えは、最初からなかった。


ただ、曹操の目は欲を宿していた。

領土を、民を、天下を、すべてを籠に入れ、蓋をする目だった。


陳宮は、そんな籠を嫌った。


──だから、俺は呂布を選んだ。


呂布は欲を語らない。

言葉は少ない。

奪わず、汚さない。

ただ、静かにそこに立つ。


徐州じょしゅうの首都・下邳かひへの道を進む軍勢は、疲れてはいたが、足取りは軽かった。

徐州はもう近い。


先日、徐州ぼく陶謙とうけんが病没したという報せが届いていた。

別駕べつが糜竺びじくが、急ぎ使者を遣わしてきたのだ。


「故・陶恭とうきょう祖公の遺志により、徐州を呂将軍にお預けしたい」


呂布は馬を止め、遠くの城を見た。

広がる田畑、城壁の上に昇る炊煙、民の影。

長い間、黙っていた。

やがて、静かに呟いた。


「俺には、重すぎる」


それだけだった。

陳宮は、隣でその言葉を聞いた。


理解した。


欲の外にある者は、籠を持てない。

呂布は城を欲していない。

ただ、預かるだけ。

だからこそ、重い。


陳宮は目を伏せた。


この男は、天下を取らないだろう。


そして、それでいいと思っていた。


籠の外にいる理。

それが、陳宮の選んだ道だった。



 *        *        *



下邳の城門が、ゆっくりと開かれた。


門の向こうから、穏やかな笑みを浮かべた男が、静かに出迎えた。

その瞳の奥に、確かに火を灯していた。


この城の現在の主、


劉備りゅうびだった。


風が吹き、旗が揺れた。

呂布は馬を進めた。

陳宮も、それに従った。

まだ、何も始まっていない。


ただ、籠の外にいる男が、籠を受け取ろうとしていた。


それが何を示しているのか、陳宮にもまだ分からなかった。



 *        *        *



下邳の城は、静かに夜を迎えていた。


大殿の一室。灯りは控えめで、酒の香りが薄く漂う。

呂布は上座に座し、陳宮はその隣に控えていた。


向かいに座る劉備は、質素な衣を纏い、姿勢を低くしていた。

穏やかな微笑みの中の心は、彼の瞳からは読めなかった。


これは、劉備が呂布に徐州を預けるための最後の会談だった。


「徐州の民は、乱世に疲れております」


劉備の声は穏やかで、義を語る言葉は丁寧だった。


「将軍が徐州をお守りくださるなら、民は安堵いたします。

私めは、ただ一時を凌いできたに過ぎません。

漢の忠臣の私が領地を持つなど、義に反する。

もとより、私には、城を治める才などございません。

乱が収まるまでの間、私は小沛しょうはいで民が飢えずに済むよう、務めを果たしたいと存じます。」


呂布は、黙って聞いていた。


言葉は少ない。

時折、劉備の目を見る。


幼子のような澄んだ瞳だった。


呂布は、劉備の言葉に頷いた。


劉備は笑みを浮かべ、盃を掲げた。


「将軍の信義に、感謝いたします」


小宴は静かに進んだ。


宴が終わり、劉備が城から去った後。


「汚れていない男だ」


呂布は、静かに言った。

陳宮は、同意した。


「理のある同盟です。小沛は徐州の盾にもなる場所。」


劉備は徐州を欲していない。

民のために小沛を治める。

自ら矢面に立つ。

呂布と同じく、欲を語らない。


だから、安心できる。


ただ──


陳宮の胸に、一箇所だけ、違和感が残った。


劉備といえど、中原の徐州は喉から手が出るほど欲しいはずた。

だが、自ら小沛で務めを果たすことに迷いがなかった。


決断に、情が混じっていなかった。




(2)理の限界


徐州の街は、静かに息を吹き返していた。


劉備が小沛に入ってからの日々は、穏やかだった。

市場に人が戻り、田畑に鋤が入る。

兵たちは城壁を修繕し、糧倉は満ちていく。


民の顔から、乱世の怯えが少しずつ消えていた。


呂布の名は、街の隅々で「恩人」と呼ばれた。


「呂将軍が徐州を救ってくださった」


「故・陶公の遺志を継ぎ、劉使君を小沛にお預けした」


そんな声が、酒肆でも、井戸端でも聞こえる。


呂布は、それを聞いても、何も言わなかった。

ただ、時折、下邳の城外を馬で巡るだけだった。


陳宮は、大殿の隅で書類を広げ、静かに見ていた。


劉備は、小沛を拠点に徐州の政務に関わり始めていた。

民に米を分け、税を軽くし、兵を整える。

忠臣の関羽と張飛は、周辺の治安を守り、流民を受け入れる。


秩序が、徐州全体に戻っていた。

善意で、すべてが行われていた。


呂布は、徐州牧として名を残しつつも、徐州の実権を徐々に失い始めていた。

陳宮は、それを一人、理解した。


籠は、善意で作られる。

劉備は奪っていない。

ただ、受け取り、守り、育てている。


呂布は、それに気づかない。

「奪われていない」から。


預けた籠は、いつしか形を持ち、別の主人のものになる。

呂布は、まだ徐州を自分のものだと思っている。


巡回の帰り、呂布が陳宮の前を通った。


「民は、落ち着いているな」


呂布の声は、静かだった。

陳宮は、頷いた。


「はい。将軍のおかげです。ただ、将軍が劉備から城を奪ったと噂する輩もいますが。」


呂布は、笑い、否定せず、満足そうだった。

何も疑わない。


陳宮は、目を伏せた。

同時に、微笑んだ。


この男は、籠の形を見ない。

ただ、そこにいるだけでいいと思っている。


──俺も、そういたい。


陳宮は静かに目を瞑った。


風が城壁を撫で、旗が小さく揺れた。

徐州の街は、安堵に包まれていた。

呂布の名は、恩人として残る。


だが、実権は、すでに劉備の手に移りつつあった。

裏切りなど起きていない。

ただ、正しさが、静かに積み重なっていた。



 *        *        *



下邳の城は、秋の風に包まれていた。


大殿の一室。灯りは低く、窓の外に月が浮かんでいる。

呂布は座し、陳宮は向かいに控えていた。


徐州の情勢は、変わらず穏やかだった。

劉備の治世は続き、民の声は劉備を讃え、呂布を「恩人」として忘れかけていた。


陳宮は、静かに口を開いた。


「将軍。劉備は、敵ではありません。だが、味方ではなくなるでしょう」


呂布は、目を上げた。


「なぜだ」


声は低く、静かだった。

陳宮は、言葉を選んだ。


「劉備は正しい。民を守り、城を固め、兵を養う。すべてが、理にかなっている。理にかないすぎている。」


呂布は、黙って聞いていた。

やがて、首を振った。


「劉備は汚れていない。」


それだけだった。


呂布は、善意の輪郭を見ない。

劉備が実権を握ったとは思っていない。

ただ、預けたまま、守っているだけだと思っている。


善意が、徐州を固くしていくことに、気づかない。


陳宮は、目を閉じた。


この男は、欲を持たない。

だから、正しさに負ける。


外では、劉備の行動が間接的に呂布を追い詰め始めていた。

糧の分配が劉備の名でなされ、兵の忠誠が劉備に向かい、諸侯からの使者が劉備を「徐州の主」と呼ぶ。


呂布は、それでも疑わない。


「劉備は、義の男だ」


呂布の言葉に、陳宮は答えなかった。


陳宮は、忠告を繰り返さなくなった。

呂布は、その沈黙を、同意だと思った。


月が窓を照らし、影が長く伸びた。


徐州は、すでに別の形を取っていた。

呂布は、それに気づかない。


陳宮は、それを胸の奥にしまった。


──それでいい。


まだ、剣は抜かれていない。

ただ、距離が、少しずつ開いていた。


劉備と我ら。

そして──陳宮と呂布。


理の限界が、近づいていた。



 *        *        *



──そんな折、曹操が献帝けんていを保護したとの知らせが入った。


自らは大将軍の位に就き、漢室の正統を掲げる曹操。


曹操にとって徐州は豊かな穀倉地帯。南進の拠点。


徐州は刃を向けられつつあった。




(3)自由の風


曹操の軍が、徐州に迫った。

かつての逆徒・黄巾こうきん軍を飲み込み、精鋭へと鍛え上げた数万の軍勢。


決着は、あまりに早かった。


逃げ場を奪う水攻めが始まり、気づけば城壁は蹂躙されていた。


孤立した呂布の兵は力尽き、期待した劉備の援軍も現れない。

曹操の「理」が積み重なるたび、出口は一つずつ塞がれていった。


徐州の拠点・下邳の城は、落城した。



 *        *        *



下邳の南門・白門楼はくもんろうの下、牢は冷たく湿っていた。

呂布は壁に寄りかかり、陳宮は向かいに座っていた。

呂布を縛る縄は固かった。


曹操の使者が来て、呂布に告げた。


「降伏せよ。」


呂布は、静かに聞いた。

長い沈黙。


「命乞いをせぬのか」


やがて、淡々と答えた。


「……妻を、汚すな。」


それだけだった。


使者は、わずかに眉を動かした。


「大将軍に伝える。」


陳宮は、目を伏せた。

呂布は、最後まで欲を語らなかった。

最後まで自分の大切なものを、守ろうとした。

だから、俺は呂布の側にいたのだと、分かった。


使者が去り、牢に沈黙が戻った。


呂布が、静かに尋ねた。


公台こうだい、なぜ乞わぬ。」


陳宮は、ゆっくりと口を開いた。


奉先ほうせん。今分かった。俺はただ、まっすぐなお前が好きだった。」


呂布は、黙った。

理解したかどうかは、わからない。

ただ、目を閉じた。


外で、足音が近づいた。


処刑の時だった。



 *        *        *



白門楼の上。

風が冷たく、旗が揺れていた。


呂布と陳宮は、並んで立たされた。


曹操は、すぐ近くに馬を寄せていた。

劉備は、少し離れて目を伏せていた。


高順こうじゅんが先に絞首された。

侯成こうせい宋憲そうけん魏続ぎぞくが、次々と。


呂布は、首を吊るされる前、最後に、白門楼の一番高い場所から、静かに周りを見回した。


陳宮は、その隣に立たされた。


曹操は、陳宮を見て、静かに言った。


「公台。降れば、なお用いる。」


声は低く、惜しむ色を帯びていた。


陳宮は、曹操を見返した。

初めて、微笑んだように見えた。


「曹将軍──孟徳もうとく。私は、籠の外の理を選んだ。それが、間違いだったと知りながら。」


曹操は笑った。


「本心を言え。」


陳宮も笑った。


「俺は、お前が嫌いだ。」


曹操は、目を伏せた。


長い沈黙。


やがて、曹操は小さく頷いた。


「そうか。」


それだけだった。


陳宮だけには、曹操の目の端に光るものが見えた。


最期に陳宮は心中で呟いた。


裏切りはなかった。

ただ、正しさが、あった。


呂布は、欲を語らなかった。

美しさを守り通した。

劉備は、義を曲げなかった。

曹操は、理を尽くした。


──その中で、俺は、自由に生きた。


あの時、なぜ曹操を切らなかったか。

それが俺の生き方だからだ。


後悔はなかった。


風が吹き、旗が大きく揺れた。


下邳の空は、遠くまで晴れていた。





【歴史解説】徐州の主と「白門楼」の決着


1. 群雄たちの「徐州」への執着

 徐州は、豊かな穀倉地帯でありながら、四方を強国に囲まれた「四戦の地」でした。正史において、病床の陶謙が劉備に徐州を託したエピソードは有名ですが、本作ではその後に呂布を迎え入れた複雑な関係性に焦点を当てています。劉備は「義」を重んじるポーズを取りながら、実際には徐州の人心を掌握し続け、呂布はその実力主義の陰で、自らの立ち位置を失っていくプロセスが描かれています。


2. 曹操の「奉天子ほうてんし」と正義の独占

 196年、曹操が献帝を保護したことは、乱世のルールを根底から覆しました。これにより、曹操は自らの戦いを「官軍(天子の軍)」とし、敵対者を「賊軍」と呼ぶ法的根拠を手に入れます。本作において、徐州の水攻めがこれほどまでに一方的であったのは、曹操が軍事力だけでなく、天子の名による「理」をも独占していたからに他なりません。


3. 陳宮の「拒絶」という生き様

 かつて曹操の暗殺を断念し、袂を分かった陳宮。正史でも曹操は、処刑の直前まで陳宮の才能を惜しみ、助命しようとしたと記されています。本作では、陳宮が曹操を「嫌いだ」と言い切ることで、単なる策略家としてではなく、曹操が作ろうとする「新しい秩序(籠)」に対する、一人の人間としての徹底的な拒絶を貫き通しました。



【コラム】晴れ渡った空


 本作の徐州編を通じて描かれたのは、「欲を持たないことの美しさと、その限界」です。


 呂布という男は、最強の武を持ちながらも、城や権力に対して淡白な、いわば「欲の外」にいる存在として描かれました。彼が劉備に徐州を預けられ、小沛の守備を許した際、そこに疑念を抱かなかったのは、彼自身が他者を「汚れていない」と信じることでしか生きられなかったからです。


 しかし、劉備という男の「正しさ」は、呂布のような純粋な武人にとっては、毒よりも鋭い刃となりました。裏切りではなく、静かな「理」の積み重ねによって実権を奪っていく劉備。その不気味なほどの「善」に気づきながら、あえて呂布と共に滅びる道を選んだ陳宮の姿は、本作における一つの到達点です。


 白門楼の最期において、呂布が語ったのは天下ではなく「妻を汚すな」という、極めて個人的で純粋な願いでした。彼を縛っていた縄は、曹操の「理」そのものでしたが、その魂までを繋ぎ止めることはできませんでした。


 「下邳の空は、遠くまで晴れていた」。 混沌とした政争も、水に沈んだ絶望もすべてが終わり、歴史は曹操という巨大な中心へと収束していきます。呂布という「最強の矛」と、陳宮という「研ぎ澄まされた拒絶」が消えた静寂。この空の青さは、間もなく訪れる袁紹との決戦、すなわち時代の総決算である「官渡の戦い」へと続く、嵐の前の静けさなのです。

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