第3話 献帝・劉協編 ─ 天子奉迎・衣帯詔─
(1)「
長安の宮殿は、静かだった。
いや、静かすぎた。
董卓の死後、漢室を守ろうと奮闘した
そう聞いた。
長安は、董卓が生きていた頃と、何も変わっていなかった。
いや、董卓の閉めていた蓋が開き、むしろ混乱していた。
だが、この奥深い間だけは、まるで別の世界だった。
何も起こらず、ただ幼い天子が玉座に座したまま、窓の外をぼんやりと眺めている。
献帝・
彼は董卓に囚われたあの日の記憶を、昨日のことのように鮮やかに思い出す。
* * *
──
大理石の床は冷たかった。
その上を滑るように、温いものが足に絡みついた。
見下ろすと、それが血だと分かった。
九歳の自分──
暗い道を走りながら、兄の手を握りしめていた。
背後で火が唸り、煙が肺を灼いた。
「これ以上、陛下たちをお守りできませぬ……」
二人だけが残された。
草むらに身を潜め、震えながら夜明けを待った。
兄は声を殺して泣いていた。
肩が小刻みに震え、袖が濡れていく。
劉協は兄の袖を握りしめたまま、遠くの炎を見つめていた。
漢の都が焼け落ちる。
先祖の宮殿が崩れていく。
それでも、自分は泣かなかった。
泣いても、何も変わらないと、もう知っていたから。
やがて、馬蹄の音が近づいてきた。
鉄の鎧が月光を浴び、数千の旗が風にはためく。
大軍が川辺を囲んだ。
董卓の軍勢だった。
兄は立ち上がろうとするが膝をつき、顔を青ざめさせた。
唇が震え、言葉にならない。
劉協は兄の前に立ち、董卓を迎えた。
巨躯の男が馬を降り、ゆっくりと近づいてくる。
威圧的な視線が、二人を値踏みするように見下ろす。
「陛下、陳留王殿下、ご無事で何よりだ。乱の様子を聞かせていただこう」
最初に問われたのは兄だった。
兄は何か言おうと口を開いた。
だが喉が鳴っただけで、言葉にならなかった。
ただ涙がこぼれ、嗚咽が漏れるだけ。
董卓の眉が、わずかに動いた。
次に、視線が劉協に向けられた。
「殿下はいかがか」
劉協は董卓を見据え、静かに語り始めた。
「
声は震えなかった。
董卓は黙って聞き、ゆっくりと頷いた。
「なるほど。少帝陛下はご心痛のほどだ」
董卓は一度だけ兄を見た。
それから劉協の方を見て、視線を戻さなかった。
あの瞬間、二人の運命が決まった。
籠の中の新しい鳥が、選ばれた。
それから長安への長い道。
董卓は劉協を優しく扱い、兄を遠ざけた。
兄は毒を飲まされ、母后も殺された。
劉協だけが、生き残った。
玉座に座り、董卓の隣で笑みを強いられる日々。
漢の新たな
* * *
今、長安は再び乱に満ちている。
王允の志も潰え、忠臣は散り、残党が争う。
劉協は奥の間に閉じ込められたまま、窓の外を見つめる。
漢の灯は、まだ消えていない。
だが、風のない籠の中で、いつまで持つか。
剣も牙も持たぬ自分に、できることなどない。
ただ、誰かが来るのを待つしかない。
新しい籠の主が、現れるのを。
幼い天子は、静かに目を閉じた。
涙は、もう枯れていた。
夜は、果てしなく深かった。
(2)逃避行
街の火はやがて、宮殿を蝕むように襲った。
長安の宮殿は、もう宮殿ではなかった。
壁は崩れ、柱は焦げ、廊下には死体が転がり、血と糞と焦げた臭いが混じって空気を腐らせていた。
兵たちは食を失い、街は飢えと略奪に呑まれた。
奥の間にも、飢えは忍び寄ってきた。
劉協は、玉座に座したまま、動かなかった。
供える米は尽き、宦官たちは木の皮を剥ぎ、革靴を煮て差し出した。
劉協はそれを黙って口に運び、噛み、呑み込んだ。
味はなかった。
ただ、生きるための行為だった。
外では、毎夜のように叫び声が上がった。
誰かが殺され、誰かが奪い、誰かが死んだ。
だが劉協は、もう窓の外を見なかった。
見ても、何も変わらないと知っていたから。
やがて、
残った忠臣たちだった。
彼らは声を潜め、劉協に跪いた。
「陛下、今なら抜け出せます。外に道が開かれました」
劉協は頷いた。
それだけだった。
* * *
夜陰に紛れて、一行は宮殿を抜け出した。
馬車はなく、劉協は歩いた。
幼い足で、瓦礫を踏み、血溜まりを避け、死体を跨いだ。
兵たちはわずか数百。
飢えた民が道に群がり、食を乞うた。
「陛下……陛下……」
劉協の衣にすがりつく手があった。
兵は剣を振り、切り払った。
血が飛び、叫びが上がった。
劉協は、最後まで目を逸らさなかった。
だからこそ、何も言えなかった。
夜の街を抜け、城門をくぐった。
外は闇だった。
河東へ、河内へ。
道は長く、兵は日ごとに減った。
雨が降り、道は泥になった。
馬は倒れ、荷物は捨てられた。
飢えは深まった。
草を掘り、木の根をかじり、虫を捕まえた。
ある夜、護衛の兵が、震える声を吐いた。
「草も尽き、馬も食い尽くしました。もう……人肉を……」
劉協は何も言わなかった。
目を閉じ、ただ息を一つ吐いた。
それだけで、兵は分かった。
涙は、とうに枯れていた。
* * *
別の朝、追手の蹄の音が響いた。
楊奉が兵を並べた。
矢が飛び、叫びが上がった。
それは、自分を守るための戦いだった。
劉協は小さな土手の陰に身を寄せ、それでも目を逸らさなかった。
血が飛び、人が倒れた。
やがて、音が途切れた。
目を閉じた。
護衛の兵は、また減った。
顔についた味方の血を袖で拭い、劉協は立ち上がった。
歩き続けた。
それが生きるということだった。
* * *
やがて、遠くに軍勢の旗が見えた。
黒い甲冑、整然とした行列。
兄と逃げたあの日、川辺を囲んだ軍勢と重なった。
馬蹄の音が近づき、旗が風にはためく。
「止まれ」
一喝の声で、大軍がぴたりと止まった。
先頭の馬車から、男が降りてきた。
甲冑を纏い、剣を帯び、鋭い目をこちらに向けた。
──曹操だった。
(3)血の玉帯
新しい曹操の籠、
整いすぎていた。
月は澄み、灯は揺れず、風は通らない。
長安より、ここは安全だ。
だが、ここには風がない。
劉協は厠にいた。
この場所だけが、わずかに息をつける場所だった。
ここは、監視の目が届きにくく、声が外に漏れにくい。
やがて、音もなく、一人の男が現れた。
穏やかな顔の奥の瞳には、揺るぎない炎が宿っていた。
同じ「劉」の姓をもつ者。
劉備は静かに跪いた。
顔を上げず、声を潜める。
「陛下」
劉協はゆっくりと立ち上がり、劉備に近づいた。
「叔父よ」
──血の近さではない。
それでも、漢の名で結ばれた、唯一の呼び名だった。
「笑えるか。ここが、今の朕の玉座だ。玉座の上では、朕は何も言えぬのだ」
劉備は黙って首を横に振った。
「曹操は奸賊だ。董卓よりも、遥かに狡猾だ。漢は──喰い付くされる。」
劉協の膝が、ゆっくりと折れかけた。
劉備は手を伸ばし、静かに袖を掴んだ。
「陛下、おやめください」
「勅命は、玉座で下すもの。だがここは厠。これは、甥から叔父への願いだ」
それ以上、言葉は続かなかった。
沈黙が落ちた。
劉備は、ただその場にいた。
やがて、ゆっくりと頭を下げ、退がった。
劉協は一人残され、壁に寄りかかった。
枯れていたはずの熱いものが、頰を伝い、音もなく、床に落ちた。
厠の外では、夜警の足音が規則正しく響いていた。
* * *
あの日、共に長安から逃げた董承が来たのは、夜が更けてからだった。
奥の間に跪く。顔を上げない。
「陛下」と呼ぶ声が、わずかに震えていた。
曹操を「あの方」と呼び、名は出さない。丞相とも呼ばない。
ただ、忠臣が次々と消えていることだけを、淡々と告げる。
残された者たちの名の中に、
──劉備の名が、低く置かれていた。
劉協は何も言わない。相槌すら打たない。
沈黙が部屋を満たす。
董承は、それ以上何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと頭を下げ、退がった。
一人になった部屋は、さらに静かになった。
机の上に、紙と筆が置かれている。
誰が置いたのか、考える必要はなかった。
指先を見つめる。
血は、昔から知っていた。
洛陽の床に、長安の道に、逃げた草むらに。
他人の血は、数え切れないほど見てきた。
だが、自分の血は、まだ使ったことがなかった。
劉協は、指の先を噛み切った。
血がにじみ、ぽたりと紙に落ちた。
赤い点が、ゆっくりと広がる。
もう一滴。
筆が血を吸い、文字の色が濃くなる。
筆を握った。
曹操を誅せ。漢室を、救え。
そして、残された忠臣たちの名を連ねた。
最後に、「献帝」ではなく、我が名を記した。
劉協。
──劉。
なんという、呪いの文字だ。
字は、歪んでいた。
涙は流れない。手は震えない。
ただ、血の匂いが、静かに部屋に広がった。
金糸が縫い込まれ、表は輝いている。
その裏側に爪を立て、静かに音を立てて裂いた。
血の乾いた紙を折り、裏に押し込む。
針を取り、糸を通す。
その音だけが、夜に響いた。
厠で膝を折った、声にならぬ声を玉帯の裏に縫い込んだ瞬間、
誰かが死ぬことが決まった。
東の空が、白み始めた。
風は、ここにはまだ通らなかった。
* * *
許都は、何事もなかったかのように朝を迎えた。
宮殿は整然と動き、儀式は滞りなく進む。
劉協は玉座に座し、曹操は忠臣として跪く。
言葉は形式通り、笑みは変わらず。
誰も、何も知らない。
献帝から董承に玉帯が贈られた。
恩賞であり、信任であり、形式だった。
深く頭を下げ、膝をつき、恭しく受け取る。
臣下として当然の所作。
董承は、献帝から直接何も聞かされていない。
ただ帯の裏に縫い込まれた違和感に気づいた。
夜、灯を消した部屋の済で、董承は玉帯の裏を裂いた。
血の文字が現れた。
* * *
数日後。
劉協が詔に連ねたほとんどの忠臣が、一族共に謀反の罪で誅された。
董承は、最後まで剣を握っていたという。
劉協のもとには、ただ報せが届くだけ。
形式の言葉で、淡々と。
劉備は、「
──殺されなかった。
ただ一人、漢の残り火を継いでくれたのか。
それとも。
劉協は切った指を無意識に押さえた。
曹操が、玉座に近づいてきた。
変わらぬ笑みで、ゆっくりと跪く。
「陛下、何かお困りですかな」
【歴史解説】長安脱出と「衣帯詔」の深層
1. 選ばれた「早熟な天子」
189年、洛陽を脱出した少帝と陳留王(後の献帝)を董卓が迎えた際、兄である少帝は恐怖で言葉を失いましたが、幼い劉協(献帝)だけは理路整然と事の経緯を語ったとされています。本作ではこの一瞬を、彼が「無力な操り人形」としてではなく、その知性ゆえに董卓という怪物に「最高の鳥」として見初められてしまった悲劇の始まりとして描いています。
2. 凄絶なる「長安脱出路」
195年から196年にかけての献帝の逃避行は、中国史上でも類を見ないほど過酷なものでした。正史には、飢えた百官が泥水をすすり、皇帝のすぐ傍らで兵士が斬り合い、従者が川に投げ落とされる惨状が記録されています。本作で描かれた「他人の血を跨いで歩く」献帝の姿は、単なる逃亡者ではなく、王朝が崩壊していく音を肌で聴き続けた少年の、乾いた絶望を象徴しています。
3. 衣帯詔に込められた血
曹操の監視下で、董承へ下された密勅「衣帯詔」。本作では、あえて「厠」という、天子の尊厳から最も遠い場所を、唯一の自由が許される空間として位置づけました。自分の指を噛み切り、痛みを伴って血の文字を綴る行為。それは、言葉を奪われた天子が、自らの肉体を削って放った、漢王朝最後の「声」でもありました。
【 コラム】風の吹かない宮殿で
今回の「献帝編」を通じて浮かび上がったのは、「何が人を籠に閉じ込めるのか」という命題です。
王允が命を賭して守ろうとした「漢」の形は、皮肉にもその死によってさらに砕け散りました。そして、王允から「七星剣」を、ひいては時代を託された曹操が、今度は天子を自らの籠へと迎え入れます。
許都の宮殿は、長安に比べれば清潔で、満ち足りた場所かもしれません。しかし、そこには決定的な何かが欠けていました。それは「風」です。董卓の暴力は吹き荒れる嵐でしたが、曹操の「忠義という名の支配」は、逃げ場のない無風の檻となります。天子でありながら、排泄の場所でしか叔父(劉備)に本音を漏らせない歪な構造。この密室の静寂こそが、本作における曹操の恐ろしさの正体です。
「殺されなかった」劉備。 彼が許都を脱出したことは、献帝がその身を削って灯した「漢の残り火」が、宮殿の外の世界へと持ち出されたことを意味します。無風の檻から、再び戦火という激しい風の中へ。
ラストシーンで、曹操が玉座に近づき「何かお困りですかな」と微笑みかける。その救いの手が、同時に首を絞める手でもあるという残酷な二面性。しかし、その籠の中で、献帝・劉協が自らの血で名を刻んだという事実は、誰にも消すことのできない歴史の楔となっていくのです。
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