第5話 関羽編 ─千里行─

(1)義という名の鎖


きょの城は、静かに夏の陽を浴びていた。

熱い陽射しが石畳を焼き、足下から立ち上る熱気が肌を刺す。

遠くで馬の嘶きが響き、陣内の空気に汗と土埃の匂いが混じっていた。


呂布りょふが死に、次に曹操そうそう劉備りゅうびに牙を剥いた。

下邳かひ陥落後、劉備は張飛ひょうひとともに散り散りになったまま。

劉備の二夫人を守るために関羽かんうは曹操の陣中にいた。


捕虜ではない。

厚い俸禄が与えられ、へん将軍の位を授けられていた。

与えられた赤兎馬せきとばは自らの手で世話され、鞍は新しく、鎧は磨き上げられている。

兵たちは関羽を見れば敬礼し、将たちは酒を勧め、席を譲った。


誰もが思っていた。


──関羽は、ここに留まるだろう。


義兄弟は離れ離れになった。

ここに留まれば、天下の半ばは約束されたも同然だ。


関羽の姿は、不自由には見えなかった。

朝になると陣を巡り、兵に声をかけ、鍛える。


曹操は、関羽に何も言わなかった。

条件を出さず、恩を着せず、留まるよう促さなかった。


ただ、一度だけ、顔良を斬った、その後に言った。


「義の男だ」


関羽は、頷いた。

周囲は、それを承諾の証だと思った。

曹操は、その言葉が、最も関羽をこの場に縛り付ける武器だと知っていた。



その日、曹操の陣に一通の書が届いた。

袁紹えんしょう陣営からの密かな報せだった。


劉備の在り処が、ようやく判明した。

汝南じょなんに潜み、流賊を率いて機会を窺っているという。


報せは、すぐに曹操の耳に入ったが、曹操は、何も言わなかった。

ただ、関羽の前にその書を置いた。

一言も添えずに。

蝋の匂いが残る書が、卓に乾いた音を立てて置かれる。


ただ、


──お前は、どうする。


曹操の意図は、明白だった。


関羽は、書を開いた。

劉備の名が、そこにあった。

兄の筆跡は正確には知らないが、内容は確かだった。


兄が、生きている。

北にいる。


関羽は、書を閉じた。

竹簡を畳む音が、静かな座敷に小さく響く。


顔色は変わらなかった。

ただ、静かに立ち上がった。


それと同時に、兵たちが一斉に道を開けた。


知っていた。


──俺は、立ち上がったのではない。


選択肢など、最初からなかった。


書が届く前から、届いた後も。


俺は義の男だ。

劉備の元へ帰る。

兄の元に帰る。


それだけが、初めから決まっていた。


兵の横を通りすぎる。


桃の花の匂いと、義の鎖の音がした気がした。



 *        *        *



翌朝。

関羽は、曹操の前に立った。


劉玄徳りゅうげんとくの在り処を知りました。 別れを告げに参りました。」


声は静かで、感情はなかった。

曹操は、書を置いて、関羽を見た。


「止めることは、俺にはできぬ。俺たちは、似ている。」


それ以上の言葉は二人にいらなかった。


関羽は、頭を下げた。

曹操も、それに応えた。


城門が開かれた。

重い木の扉が軋む音が響き、赤兎馬が、ゆっくりと進む。

蹄の音が、石畳に規則正しく鳴る。


関羽は、馬上から一度だけ、鄴の城を見返した。

兵たちが、遠くから見送っている。


誰も、止めない。


そして、関羽自身にも、止められない。


それが義の男のあるべき姿だからだ。


──俺たちは、似ている。


否定はできなかった。




(2)千里の道


夏の陽は、まだ高かった。


関羽は、赤兎馬を進めた。

蹄の音が乾いた土を叩き、埃が鼻を突く。

風が、冷たかった。


許の城を離れて、三日目。


最初の関所が、道を塞いでいた。


──東嶺関とうりょうかん


関羽は、武装したまま、ゆっくりと近づいた。

青龍偃月刀せいりゅうえんげつとうは腰に下げられ、鎧は陽を浴びて光る。

赤兎馬の蹄が、土を踏む音だけが、乾いた空気に響く。


守将が、城壁の上から見下ろしていた。

関所の兵たちは、すぐに気づいた。


弓が引かれ、弦の張る音が耳に刺さる。

槍が構えられ、風にわずかに揺れる。


一触即発。


空気が、張り詰めた。


関羽は、馬を止めた。

静かに、名を名乗った。


関雲長かんうんちょう。 劉玄徳のもとへ帰る。」


守将の目が、わずかに動いた。


「曹大将軍の陣にあった、関雲長か。」


関羽は、頷いただけだった。


長い沈黙。


関羽の槍が、わずかに前に出た。

斬れば、すべては終わる。

刃の冷たい重みが、手に伝わる。


守将の手が、腰の剣に触れた。

革の鞘が、かすかに音を立てる。


抜けば、血が流れる。

我が君、曹操は何を求めている。


風が、旗を小さく揺らした。

やがて、守将が言った。


「通れ。」


門が、ゆっくりと開かれた。

重い木の軋む音が、耳に残る。


兵たちは、武器を下ろした。


関羽は、馬を進めた。

門を通り抜ける時、背中に視線を感じた。


だが、振り返らなかった。

勝っていない。

斬っていない。

誉れもない。


なのに、道は開いた。


──俺の力ではない。

曹操の名声が道を開いた。



 *        *        *



二つ目の関所。 洛陽関らくようかん

同じだった。

警戒の目、沈黙、そして

「通れ。」


三つ目の関所。 汜水関しすいかん

また、同じ。

剣は抜かれない。

血は流れない。

自分の力で、道を切り開いていない。


曹操の名が、すべてを動かしていた。


関羽は、自分で歩いていなかった。


正しいのに、気持ち悪い。

兄に、近づいているはずなのに、遠い。


鎧の内側で、汗が冷えていた。


戦っていないのに、槍の重さが、日ごとに増していく。

鉄の冷たさが、肌に染み込んだ。



 *        *        *



夜。


関羽は、道端で野営した。

焚火は小さく、木の乾いた匂いが立ち上り、炎の熱が顔を焦がす。

赤兎馬は近くで草を食み、穏やかな息づかいが聞こえる。


青龍偃月刀を膝に置き、月を見上げた。

冷たい月の光が、刃を白く照らす。


まだ、届いていない。

兄が、待っているはずなのに。

この道は、確かに北へ向かっている。

でも、自分の足で歩いている気がしない。


だが、足を止めるわけにはいかなかった。


それが義の男だ。


曹操の言葉を、思い出していた。


──俺たちは、似ている。


その通りだ。


曹操は理に、俺は義に固執した、囚人だ。


風が、焚火を小さく揺らした。


炎のぱちぱちという音が、静かな夜に響く。

関羽は、目を閉じた。


この道は、戦い以上に、俺を痛めつける。


千里の道。


まだ、遠い。




(3)辿り着いた場所


夏の終わりが、近づいていた。


風に、わずかに秋の冷たさが混じり始め、草の匂いが乾いていく。


関羽は、最後の関所を抜けた。


五つ目の門も、戦わず開かれた。


重い門の軋む音が、背後に遠ざかる。

赤兎馬の蹄は、疲れを知らず、真っ直ぐ進んだ。

蹄の音が、土に染み込むように響く。


袁紹の陣が見えた。


関羽は、馬を降りた。


陣の門が、静かに開かれた。

土の湿った匂いが、鼻をくすぐる。


兵たちは、道を譲った。

誰も、声を上げない。


劉備は、簡素な帳の中にいた。


劉備の顔を見た瞬間、関羽の中で、何かが外れた。


義でも、誓いでもない。

理由のつかない、ただの安堵だった。


二人は、向かい合い、手を握った。

兄の手の温かさが、千里の冷たさを溶かす。


劉備は、静かに言った。


「やはり、繋がっていたか。」


曇りのない、あまりに無垢な目だった。


劉備の顔が滲んだ。

関羽は、跪いた。


そうか。

俺を繋いでいたのは、氷のような千里の道を走らせたのは、「義」などど名前のついた言葉などではなく、

──この男だ。


「すまない、兄者。」


意味など伝わらなくていい。

でも謝りたかった。


俺はただ、この人がいないと、脆くて寂しくて、怖かっただけだった。


そんな単純な答えが、千里を走らないと分からなかった。


二人の間に、長い沈黙が落ちた。

千里の冷たさが、ようやく溶けていくような時間。

ずっと味わっていたいと思った。



その時、帳の外から、聞き慣れた荒々しい足音が近づいてきた。

土を蹴る音、息づかい、そして抑えきれない笑い声が漏れる。


劉備の顔が、わずかに苦笑いを浮かべた。


張飛が、駆け寄ってきた。


大きな声で、笑った。

関羽の肩を叩いた。

劉備と関羽の巨体を同時に抱き寄せた。


相変わらず、この弟からは、酒の匂いがした。


劉備は戸惑っていた。

張飛は笑っていた。

関羽は泣いていた。


「俺たちは似ていないな。」

張飛がまた、大笑いした。


「同年同月同日に生まれることを得ずとも、同年同月同日に死せん事を願わん。だな。」


そう言ってまた笑った。


桃園で誓った言葉が俺を、俺たちを縛っていた。

そう思っていた。


鎖の音はまだする。

だが、それでいい。


赤兎馬は、近くで静かに立っている。

関羽は、青龍偃月刀を膝に置き、月を見上げた。


今夜の月は、柔らかかった。





【歴史解説】関羽の「過五関(かごかん)」と曹操の度量


1. 許都の厚遇と「美髯公(びぜんこう)」

 199年、下邳で敗れた関羽は、劉備の妻族を守るために曹操に降りました。曹操は関羽を心から愛し、偏将軍に任じ、最高級の贈り物(赤兎馬など)を重ねました。正史においても曹操は、関羽が去ることを察しながらも、あえて引き止めず「各々その主のためにす、追うことなかれ(それぞれの主君のために尽くしているのだ、追ってはならぬ)」と部下を制しました。本作で描かれる「曹操の名声が道を開いた」という描写は、曹操という男の凄まじい度量の大きさを象徴しています。


2. 千里行(せんりこう)と「義」の証明

 『三国志演義』における最大の見せ場の一つ「五関を突破し六将を斬る」エピソード。史実ではこれほど派手な戦闘の記録はありませんが、本作ではあえて「斬らずに通される」という不気味な静寂を描くことで、関羽が抱く「自らの力で歩いていない」という精神的な葛藤を浮き彫りにしています。物理的な関所よりも、曹操から受けた「恩」という見えない関所こそが、関羽にとって最大の難所であったと言えます。


3. 袁紹陣営での再会

 当時、劉備は曹操に敗れた後、北方の雄・袁紹のもとに身を寄せていました。関羽が曹操のもとで顔良を斬ったことは、本来であれば劉備の立場を危うくするものでしたが、劉備はそれを逆手に取り、袁紹のもとを離れる足がかりとしました。本作での再会シーンは、政治的な駆け引きを削ぎ落とし、ただ「兄」と「弟」に戻る瞬間の安堵感に焦点が当てられています。



【コラム】桃園の誓い ── 不自由を選ぶという幸福


 本作の関羽編を通じて描かれたのは、「義という言葉の暴力的な重さと、その裏側にある救い」です。


 関羽は曹操という、自分を最も理解し、評価してくれる「鏡」のような男と出会いました。曹操が関羽に与えたのは、富や地位だけでなく、「関雲長ならばこうあるべきだ」という完璧な義の舞台でした。関羽が千里の道を走ったのは、曹操が用意した「義の男」という役割を完遂するためであり、その道は本人が感じた通り、一種の囚人道路でもありました。


 しかし、辿り着いた場所で待っていたのは、無垢な劉備の瞳と、酒臭く笑う張飛の無作法な抱擁でした。 「俺たちは似ていないな」 張飛のこの言葉は、曹操が関羽に投げかけた「俺たちは似ている」という言葉に対する、最高の回答です。曹操との間にあるのは「孤高の魂同士の共鳴」でしたが、劉備・張飛との間にあるのは「欠落を補い合う、剥き出しの生」でした。


 「同年同月同日に死せん事を願わん」。 乱世においてこれほど不自由で、これほど理不尽な誓いはありません。一人が窮地に陥れば、全軍を賭してでも助けに行かねばならない。一人が死ねば、生き残る道すら閉ざされる。しかし、本作のラストシーンで関羽を包んだ柔らかい月光は、その不自由さこそが、孤独な武神に与えられた唯一の「居場所」であったことを物語っています。


 千里を走り抜き、曹操から贈られた数多の恩義を背負ったまま、それでも「兄者」と跪く。その瞬間、関羽を縛っていた鉄の鎖は、三人を繋ぎ止める桃色の絆へと昇華されたのです。

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