第2話 貂蝉編 ─連環の計─

(1)籠の中の鳥


王允おういんの屋敷は、今日も賑わっていた。

客たちの笑い声が廊下に響き、酒の香が漂う。


歌妓たちは花を散らすように席の間を巡り、盃を運び、舞い、歌った。

その中に、王允の娘もいた。


名前を、貂蝉ちょうせん


朝から丁寧に髪を結い上げ、薄紅を指して、いつものように客の前に出る。

琴を爪弾き、声を張り、笑みを絶やさず振る舞う。

誰かが袖を引けば、軽やかに身をかわし、静かに盃を注いだ。


昨日と、まるで変わらない日々。


いや、ただ一つだけ、違うことがあった。


父、王允が、彼女を見ていた。


普段なら、屋敷の主は奥に控え、歌妓たちを遠くから眺めるだけだ。

今日も席に座っていたが、視線が違う。


品定めするような、値踏みするような目ではない。

哀れむわけでもなく、欲を宿しているわけでもない。


もっと静かで、もっと重い。


貂蝉は歌いながら、それに気づいた。

視線が、肌を滑り、髪に絡み、胸の奥に留まるような気がした。

理由はわからない。


ただ、不安が小さな波のように立った。


それでも、彼女は何も知らないまま、笑った。


宴が終わり、客たちが三々五々帰途につく。

歌妓たちが下がる順番が回ってきた。

いつものように頭を垂れて部屋を出ようとした。


その時だった。


「貂蝉」


王允の声が、静かに彼女を呼び止めた。

振り返ると、主は席に座ったまま、姿勢一つ崩さず、ただ彼女を見据えていた。


「今夜は、下がらずにいなさい」


それだけだった。


命令とも頼みともつかない、淡々とした言葉。


貂蝉は小さく頷いた。


理由は聞かなかった。

これまで問うたところで、何かが変わった試しなどなかった。


貂蝉は小さく息を吐き、目を伏せた。


父の言葉はいつもそうだった。

重く、静かで、逃れられない。彼女はただ、従うことしか知らなかった。


昔から、そうやって生きてきた。


だから、今夜も。

ただ、頷くだけだった。



 *        *        *



他の歌妓たちが去り、部屋に残ったのは彼女だけ。

灯りが落とされ、静けさが訪れる。

遠くで、長安の街の灯が、窓の外に揺れていた。


貂蝉は座ったまま、夜が更けていくのを待った。

指先で裙の裾を軽く握りしめ、すぐに力を抜く。


なぜ自分が残されたのか、わからないまま。

だが、わからなくても、従うしかない。


昔から、そうやって、胸の痛みをやり過ごしてきた。


夜は、静かすぎるほど静かだった。


王允は、貂蝉を奥の一室に呼んだ。

灯りは低く、部屋は静かだった。

貂蝉は頭を垂れ、座った。


王允は、しばらく黙っていた。

やがて、静かに口を開いた。


「今夜、董卓とうたくの館へ連れて行く」


それだけだった。

その声には、迷いも、試す色もなかった。

理由は語られなかった。

目的も、説明もなかった。


ただ、王允は立ち上がり、貂蝉の前に近づいた。

髪を整え、衣の襟を直し、薄紅を少し濃くさせた。


「笑いすぎるな」

「俯きすぎるな」


それだけを、淡々と告げた。

貂蝉は頷いた。


問わなかった。

王允の刃のように冷たい目が物語っていた。


自分は選ばれたのではない。

使われるのだと。



 *        *        *



馬車は夜の長安ちょうあんを抜け、董卓の館へ着いた。

館は、王允の屋敷よりも騒がしく、重かった。

酒の匂いが濃く、笑い声が荒く、息遣いが乱れていた。


その中で貂蝉は歌い、舞い、盃を運んだ。

いつもと同じ所作。

いつもと同じ笑み。


将や官僚たちが、盃を掲げ、侍女たちを囲む。


視線が、貂蝉の体をなぞった。

値踏みし、品定めするように。


だが、その中にただ一つ、異質な視線があった。

背後に立つ男。


その名は、貂蝉ですら一瞬でわかった。

董卓が最も頼る武将、天下に並ぶ者なしと謳われる最強の刃。


呂布りょふ。字は奉先ほうせん


彼は宴の喧騒に溶け込まず、ただ静かに立っていた。

笑わず、酒を口にせず、侍女たちに手を出すこともない。


視線は貂蝉を捉えていたが、それは獣じみた欲でも、冷ややかな侮りでもなかった。

ただ、遠くを見据えるような、静かな瞳。

鎖に繋がれたまま、なお鋭さを失わない、そんな目だった。


貂蝉はそれを感じ取った。

だが、目を合わせなかった。

合わせる理由など、どこにもなかった。


宴は続き、やがて夜の帳が下りる頃に終わった。

董卓は上機嫌に笑い、貂蝉の肩に重い手を置いた。

指先が布越しに熱を伝える。


「また来い」


低く、満足げな声。

それだけを残して、董卓は奥の闇へと消えていった。



 *        *        *



馬車が再び長安の夜を走る。

車輪の音だけが、静かに響く。

夜は深く、街の灯が遠く、ぼんやりと揺れていた。

まるで、届かぬ夢のように。


王允の屋敷に戻っても、王允は何も問わなかった。

貂蝉も、何も語らなかった。


自分が何を果たしたのか、彼女にはまだわからない。

ただ、確かに何かが動き始めたことを、肌で感じていた。


董卓の、あの満足げな笑み。

呂布の、貂蝉を通して遠くを見つめるような視線。

そして、自分自身。


籠の中にいたはずの鳥は、知らぬ間に、別の籠へ移されていた。

逃げられたとしても、逃げなかっただろうと、貂蝉は思った。





(2)籠の中のげき


董卓の館では、夜ごと宴が開かれていた。

酒が注がれ、肉が運ばれ、女たちが笑みを浮かべて盃を回す。



酒の匂いが濃く、汗と脂の熱気が混じる。

笑い声が重なり、灯りが揺れ、館全体が熱に浮かされたように騒がしい。



呂布は、いつもの位置に立っていた。


大殿の奥、董卓の背後。

方天画戟ほうてんがげきを横に置き、鎧を鳴らさず、ただ直立している。


剣もある。

鎧もある。

赤兎馬せきとばは厩に繋がれ、いつでも駆け出せる。


だが、呼ばれることはない。

彼の役目は、守ることだ。


だが、守るものは董卓の命ではない。


董卓の酒を、誰にも触れさせぬこと。

そして、何よりも、董卓の機嫌を、損ねさせぬこと。


それが、呂布の全てだった。


呂布は剣を帯び、戟を携え、立っている。

だが、斬るべき敵はいない。

守るべきものも、本当の意味では存在しない。


呂布は視線を落とした。


董卓は酒を飲み、侍女の肩を抱き、大きな声で笑い、官僚たちは媚びを売り、将たちは距離を取る。


誰も呂布に話しかけない。


信頼されているのではない。

使われているだけだ。


力があるから傍に置かれ、力があるから誰も近づかない。


ふと、董卓の機嫌が悪くなった。

いつものことだった。


一人の官僚が、言葉を間違えた。

董卓は盃を投げつけ、罵声を浴びせた。


そして、呂布の方を向いた。


「奉先、お前も笑わんか!」


呂布は黙って頭を下げた。


次の瞬間、董卓の手が飛んできた。

頬を打つ音が響く。

痛みよりも、虚しさだけが胸に広がった。


反論はしない。

できない。


この力は、誰のためのものなのか。


この男を守るために、この力が与えられたわけではないはずだ。

しかし、今の自分は、この男の欲を守るためにしか使われていない。


戟の柄に、無意識に指が触れていた。


これで、何を斬ればいい。

誰を守れば、この力は意味を持つ。


苛立ちが胸に広がる。


それは、怒りとは違う。

軽蔑とも、少し違う。


ただの、無意味さへの嫌悪だった。



 *        *        *



宴は続き、やがて終わった。


董卓は満足げに欠伸をし、侍女たちを連れて奥へ消えた。

残された者たちは、散るように館を出て行く。


呂布は一人、庭へと出た。

月が冷たく照らし、風が静かに吹いていた。


厩の方から、赤兎馬が鼻を鳴らした。

呂布はゆっくりと近づき、馬の首を撫でた。

温かな体温が、手に伝わる。

馬は静かに目を閉じ、呂布の手に頬を寄せた。


呂布は、低く呟いた。


「欲に仕えるために、生きてきたわけじゃない」


声は、誰にも届かない。

風に紛れて、消えた。


その夜、呂布はふと思い出した。


数日前の宴。


王允の屋敷から連れてこられた歌妓の一人。


あの女は、董卓の視線を浴びても、媚びなかった。

笑みを浮かべながらも、どこか遠くを見ているような目だった。

欲に染まらず、欲に飲み込まれもしない。


ただ、そこにいた。


名も知らない。

顔も、もうはっきりとは思い出せない。

それでも、なぜか忘れられなかった。


それは、恋ではなかった。


ただ、欲の外にいる存在だと感じた。

この館にはない、別の世界の匂いがした。


呂布は、赤兎馬の首から手を離した。

夜空を見上げ、静かに息を吐いた。


──俺は、籠の中にいる。


風が吹き、葉がざわめいた。





(3)籠の外の策


王允の屋敷は、いつもの静けさを保っていた。

昼下がりの一室。

香炉の煙が、細く揺れていた。


王允は、それを見つめながら、かつての夜を思い出していた。


洛陽が燃え、空が灰色に閉ざされ、天に向かって声を殺して泣いた夜。

祈りは届かず、空は割れず、曇天は晴れなかった。


王允は、それを知っている。


だからもう、祈らない。


──俺は董卓と共に地獄へ行く。


王允は、先帝に手を合わせる代わりに、拳を握った。

爪が拳に食い込んだ。



 *        *        *



王允は座し、貂蝉を前に置いた。

貂蝉は頭を垂れ、静かに待つ。

王允は長い間、黙っていた。


やがて、ゆっくりと口を開いた。


「次の宴では、自然に振る舞え」


それだけだった。

理由も目的も、語らない。


ただ、貂蝉の装いを静かに整え、髪を少し変え、衣を一枚増やした。

立ち位置をわずかにずらし、動線をほんの少し曲げる。

言葉は、もう何も加えなかった。


貂蝉は頷いた。

瞳を伏せたまま、香炉の煙を追う。


煙のように、自分もいつか消えてしまうのだろう。


それが何を意味するのか、まだはっきりとは分からなかった。

だが、従わねばならないことだけは、理解していた。



 *        *        *



王允は全てを理解していた。

そのつもりだった。

だからこそ、確かめる必要があった。


董卓と呂布の距離を。

彼らは近すぎず、完全な主従でもない。

呂布は董卓の背後に立ち、董卓は呂布を道具として使っていた。


彼らを繋ぐのは、信頼ではなく、恐れ。

忠誠ではなく、力。


そこに、王允は一つの異物を置いた。


数日後の宴。

董卓が王允の屋敷を訪れた日。


大殿は穏やかに賑わっていた。

酒は控えめ、笑い声も上品。

董卓は上座に座し、王允は隣で談笑する。


呂布は董卓の背後にいた。

方天画戟を横に置き、直立不動。


いつもの位置。

いつもの距離。


貂蝉は、いつも通り動いた。

盃を運び、歌い、舞う。

董卓の視線を集めつつ、決して長く留めない。


王允は董卓と笑いながら、横目で呂布を観察する。

呂布は何も言わず、表情も変えない。


だが、貂蝉が彼の前を横切った一瞬、呂布の視線が乱れた。

すぐに呂布は視線を戻し、再び石のように立つ。


──揺れた。


確信は、言葉にならなかった。


だが、それで十分だった。

王允は見逃さなかった。


心中で、静かに確信する。


──揺れる。


しかし、あえて何もしない。

貂蝉を褒めず、呂布に声をかけず、董卓に女の話題を振らず。


宴は穏やかに進み、穏やかに終わった。


何も起こらなかったように。


董卓は満足げに帰り、呂布は無言で従う。

貂蝉は片付けを済ませ、奥へ消える。


王允は一人、座したまま香炉の煙を見つめた。

拳は握られていた。


籠は揺らすが、扉は開けない。

鳥を驚かせず、ただ傾ける。


それだけで十分だった。

鳥は、揺らされた籠の中でこそ、自分の羽に気づくのだ。


風が窓を揺らし、煙が細く舞った。





(4)籠の中の二人


董卓の館での宴は、いつものように終わった。

盃の音が遠ざかり、笑い声が途切れ、灯りが一つずつ消えていく。

残されたのは、散らかった卓と、酒の匂いが染みついた空気だけ。



貂蝉は、他の侍女たちと共に、静かに片付けをしていた。

盃を重ね、楽器を布で包み、床に落ちた花を拾う。

誰にも声をかけられず、誰にも引き留められなかった。


それが、当然のことだった。


片付けが終わり、貂蝉は一人、廊下を歩き始めた。

馬車が待つ門へ向かう道。

夜風が冷たく、衣の裾を揺らす。

廊下の先、灯りの届かない庭に続く通路。


そこを曲がった時だった。


一人の武人が、向こうから歩いてきた。


呂布だった。


月明かりが薄く差し、鎧の輪郭を浮かび上がらせる。

方天画戟は持たず、ただ静かに歩いている。

赤兎馬のいる厩から戻る途中だったのかもしれない。


二人は、すれ違う。


二人の影が、月明かりの下で、ほんの一瞬だけ重なった。


互いに知っている顔ではない。

名を知らない相手。

立ち止まる理由など、どこにもない。


だが、風が吹いた。

貂蝉の袖が、軽く揺れた。


それだけで、呂布の足が止まった。


貂蝉も、自然と足を止めた。


沈黙が落ちる。

気まずさはない。

緊張もない。


ただ、二人の間に、何も起こらない時間が流れるだけ。


やがて、呂布が口を開いた。


「……寒くないか」


声は低く、どこか不器用だった。

宴の喧騒の中で聞く声とは違う。

董卓に話しかける時とも、将たちに命じる時とも違う。


貂蝉は、一瞬だけ目を上げた。

それから、静かに答えた。


「いいえ。慣れていますから」


いつもの笑みではない。

媚びる表情でもない。

ただ、淡々とした、素の顔だった。


呂布は、わずかに頷いた。


「そうか」


それだけ。

また、沈黙。


貂蝉は軽く頭を下げ、立ち去ろうとした。

呂布は、それを引き留めなかった。


ただ、立ち尽くしたまま、去っていく足音を聞いていた。


すれ違いざま、貂蝉はふと思った。


──この人は、見ている。


欲の目ではない。

ただ、ここにいる「自分」を、見ている。

そんな視線を、最後に感じたのはいつだったろう。

誰も自分を見ていないことに、慣れすぎていた。




呂布もまた、背後で遠ざかる足音を聞きながら、思った。


──あの女は、何も求めていない。


この館の女たちのように、笑って媚びることもない。

泣いて怯えることもない。


ただ、そこにいる。



言葉は、それだけだった。

名を告げず、理由を問わず、再会を約束することもなく。


会話と呼ぶには、あまりに短く。

出会いと呼ぶには、あまりに静かだった。


ただそれだけのこと。

何も変わらない夜。


董卓はいびきをかきながら眠り、王允は待つ。

長安の街は、いつも通りの夜を明かす。


風が再び吹き、袖が揺れた。


貂蝉は足を速め、門へと向かった。

呂布は庭へ戻り、赤兎馬の前に立った。


その夜、二人は揺れる籠の中で、眠りについた。





(5)籠の中の汚れ


董卓の館は、今日も宴に満ちていた。

酒が溢れ、肉が運ばれ、笑い声が天井を揺らす。

灯りが激しく揺れ、館全体が欲の熱に煮え立っていた。


董卓は上座に座し、盃を掲げ、大きな声で笑う。


周囲の将や官僚たちが媚びを売り、侍女たちが体を寄せる。



貂蝉は、その中心にいた。


歌い、舞い、盃を注ぐ。


いつものように、笑みを浮かべつつ、どこか遠くを見ている目で。


呂布は、いつもの位置に立っていた。

董卓の背後。

方天画戟を横に置き、直立不動。


宴は進み、董卓の機嫌は最高潮に達した。

酒が回り、視線が貂蝉に集中する。


やがて、董卓は立ち上がり、声を上げた。


「この女、貂蝉。今日より、わしの側室とする。今夜から、わしの寝所へ連れてこい」


館内が一瞬、静まった。


官僚たちが息を呑み、将たちが視線を逸らす。

誰も、異を唱えない。

董卓の言葉は、絶対だった。


ただ一人。


呂布の視線が、一瞬、貂蝉に留まった。


すぐに戻したが、その瞳に、静かな拒絶が宿っていた。


貂蝉は、静かに頭を垂れた。


──これで、終わりか。


表情は変わらない。

媚びず、怯えず、ただそこにいる。

籠の中の鳥が、運命を受け入れるように。


呂布は、動かなかった。

だが、胸の奥で、何かが軋んだ。


──あの女を、この泥に沈ませるのか。


脳裏に、ふと、あの夜の廊下がよぎった。


薄暗い通路。

風に揺れた袖。


媚びなかった。

ただ、そこにいた。

欲の熱に染まらず、飲み込まれず。

まるで、別の風が吹いているかのように。


董卓が貂蝉を奪えば、それは汚される。

美しく在るものが、ただの所有物になる。

羽を汚され、声すら奪われる。


呂布の指が、わずかに震えた。


方天画戟の柄に、無意識に触れる。


これまで、この力は董卓の機嫌を守るためだけに使われてきた。

殴られても、罵られても、黙って耐えてきた。


なぜなら、斬るべき敵がいなかったから。

守るべきものが、なかったから。


だが今──


守れるものがある。


呂布は、初めて、前に出た。


「待て」


声は低く、静かだった。

だが、館全体を凍りつかせた。


董卓が振り返る。

顔が、ゆっくりと赤くなる。


「何だ、奉先。わしの言葉が聞こえぬか?」


呂布は、再び董卓を見た。


「渡さん」


言葉は、短かった。


董卓の顔が、怒りに歪む。

盃が、床に叩きつけられる。


「貴様、何を言うか! 俺のものを、俺が取るのに、何の異議がある!お前はただの犬だろう!」


これまで何度も聞いた罵声。

これまで何度も耐えてきた屈辱。


だが今は、違う。

方天画戟を握る手が、熱を帯びた。


呂布は、視線を貂蝉に向けた。

一瞬だけ。


貂蝉は、この瞬間も、ただ、そこにいた。


館内が、息を呑む。

誰も、動けない。


方天画戟は軽かった。

呂布は自分の力を、この刹那で思い出すことに、笑った。


方天画戟が、閃いた。



 *        *        *


──同じ刻、

王允は、自らの館で静かに座していた。


香炉の煙が細く立ち上る。

使者が駆け込んできたのは、宴の終わり頃だった。


王允は、静かに耳を傾け、ただ空を仰いだ。


──先帝よ。蒼天よ。


ただ深い、果てしない溜息のようだった。


だがやはり、曇天は晴れることはなかった。



 *        *        *



館では血が、飛び散った。


董卓の首が、床に転がる。

驚愕の表情を凍りつかせたまま。


呂布は、静かに立ち尽くした。


戟の先から、血が滴る。


──汚い。


館の外では、冷たい風が吹き抜けていた。




【歴史解説】長安の惨劇と「連環の計」の真実


1. 正史が語る「不和の原因」

 歴史書『三国志(正史)』において、董卓と呂布の仲が裂かれた理由は、物語的な情緒だけではありません。董卓は短気で、些細な失敗をした呂布に手戟てげきを投げつけたことがありました。また、呂布が董卓の侍女と密通しており、それが露見するのを恐れていたという極めて現実的な背信が背景にあります。本作では、王允がこの呂布の「身の危険」という隙を突き、彼を暗殺の実行へと引き込むまでの心理的な攻防を描きました。


2. 「貂蝉」という虚構が果たす役割

 本作のヒロイン・貂蝉は、史実には存在しない『三国志演義』の創作上の人物です。演義では、彼女を介して父子の間に嫉妬と憎悪の炎を燃え上がらせる「連環の計」が展開されます。本作ではこの「異性への欲」ではなく、呂布と貂蝉が互いに感知する「籠の中の孤独」という共鳴を、暗殺の真の引き金として位置づけています。


3. 司徒・王允の執念

 王允の職位「司徒」は、行政の最高責任者である「三公」の一つであり、現代の総理大臣に近い重職です。名門・太原王氏の出身である彼にとって、董卓による略奪と専横は許しがたい「不浄」でした。暗殺成功後、王允は一時的に権力を握りますが、董卓の残党を許容しなかった厳格さが仇となり、反撃に遭って非業の死を遂げることになります。



【コラム】汚れなき籠を求めて


 本作の王允編において、一貫して通底しているのは「閉塞感」です。


 王允は漢王朝という「正義の籠」を守ろうとし、呂布は董卓という「武力の籠」に繋がれ、貂蝉は王允の策という「運命の籠」に閉じ込められていました。彼らは皆、自分を縛る檻の中から、必死に窓の外の光を求めていました。


 特筆すべきは、本作独自の解釈である「七星宝剣の不在」です。王允が宝剣という権威の象徴を(曹操に持ち去られる形で)失ったことは、彼から英雄的な輝きを奪い、代わりに修羅としての執念を植え付けました。彼が貂蝉を呂布に引き合わせた際の「賭け」の目つき。それは、形ある武器を失った者が、人の心という不確かな刃を研ぎ澄ませた瞬間の現れでもありました。


 董卓を討った直後、呂布が漏らした「汚い」という一言は、この暗殺が彼らにとっての救済ではなかったことを示唆しています。呂布は主を殺すことで自由を求めたはずが、その手は返り血でさらに汚れ、新たな「不浄」に染まってしまいました。


 彼らが血の海で足掻いている間に、すでに曹操は「権威」も「秩序」もゼロから自ら作り上げるべく、長安の霧の向こうへと去っています。この暗殺劇は、滅びゆく漢王朝が見せた「最後の一瞬の炎」であり、その火影の中で、新しい時代の怪物が産声を上げた瞬間だったのかもしれません。

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