漢の残り火 ─三国思想─

徳瀬 守

第1話 王允編 ─董卓暗殺計画─

(1)漢の残り火


──霊帝れいていが死に、少帝しょうていが即位した189年。


洛陽らくようを焼き払い、献帝けんていを伴って長安ちょうあんへ遷都した董卓とうたく


董卓の西涼せいりょう軍は、長安の城門を蹴破るように入城すると、たちまち牙を剥いた。


街は炎に呑まれ、男は斬られ、女は犯され、幼児さえ壁に叩きつけられた。

金銀は奪い尽くされ、貴族の邸宅も民の粗末な家も焼き払われた。

洛水の流れは赤く染まり、無数の屍が浮かび、烏が群れをなして喰らいても、肉は尽きなかった。


誰一人、声を上げる者はいない。

逆らえば、一族郎党、皆殺し。


首は長安の城門に吊るされ、腐り落ちるまで晒される。


そんな修羅の巷で、静かに涙を噛み殺していた男がいた。


──王允おういん


彼は漢の忠臣だった。

いや、忠臣でなければならなかった。


祖父の代から続く名門の血筋、司徒の位にありながら、董卓の前では頭を垂れ、笑みを浮かべ、謀反者の血を混ぜた酒を、静かに飲み干す。


それが生き延びる術だった。


だが、心の奥底では、毎夜、漢の滅びゆく姿が焼き付いて離れなかった。


屋敷の奥深く、昼間なのに薄暗い一室で、王允は独り、声を殺して泣いた。

涙は頬を伝い、髭を濡らし、袍の袖に染みた。


妻も子も、側近すら立ち入らせぬその部屋で、王允は独り、天を仰いだ。


──先帝よ。蒼天よ。


声にならぬ叫びは、ただ喉の奥で震えるだけだった。

願いに魔力などない。

厚い雲は動かず、曇天はますます深く、灰色の空が王允の心を押し潰すように覆っていた。


拳を握り締め、爪が掌に食い込み、血がにじんでも、彼は気づかなかった。


──董卓を殺さねば。


その一念だけが、凍てついた胸の奥で、赤い炎となって燃え続けていた。


だが、武力では叶わない。


董卓の傍らに控える呂布りょふは、人中に勇無しと言われる無双の猛将。

方天画戟ほうてんがげき一振りで百人を薙ぎ払い、赤兎馬せきとばに跨れば矢も届かぬ。

正面から挑めば、瞬く間に血祭りだ。


王允は夜を徹して策を練った。


呂布を離反させるか。

外の諸侯を動かすか。

毒を盛るか。暗殺か。


だが、どの糸も指先で撚るうちにほつれ、闇に落ちて消えた。


浮かんだ策は、次々と砕け散り、朝の薄明かりの中で、ただ灰のように虚しく残るだけだった。


思考は空転し、夜は果てしなく長かった。


そんな苦虫を噛み締めるような朝が、幾月も続いた。



 *        *        *



ある新月の夜──


空に星一つなく、闇が深く沈み、長安の街が息を潜める夜だった。


王允邸の裏戸が、かすかに、だが確かに叩かれた。

三度、間を置いて、もう三度。


それは、事前に取り決めた合図ではなかった。


王允は眉をひそめ、老いた家令に目配せした。

剣を帯びた数名の家士が、無言で戸に寄り、息を殺す。

訝しく思いながらも、王允は自ら奥の客間へと案内させた。


灯りを落とした部屋に、通された男は一人だった。


黒い袍に身を包み、腰には剣を佩き、顔は半ば影に隠れていた。

だが、その目だけが、闇の中で燃えていた。

赤く、鋭く、獣のように──いや、野火のように。


王允は息を呑んだ。


この男の目は、ただの野心ではない。

そこには、董卓を喰らい尽くさんとする、獣の飢えが宿っていた。


男は深々と礼をし、声を低くして言った。


司徒しと殿。夜分、失礼いたします。」


王允は静かに名を問うた。

男はわずかに口元を歪め、答えた。


曹操そうそう。字は孟徳もうとく。今は相国しょうこくの幕下、司空しくうの位にありながら──」


そして、不躾に、しかし迷いなく続けた。


七星剣しちせいけんを、私にお譲りください。」


部屋に、沈黙が落ちた。


七星剣──


それは先帝から王允に下賜された宝剣。


北斗七星の意匠が柄に刻まれ、刃には宝珠が嵌め込まれた、漢室の威光を象徴する一振りの名剣。


王允は目を細めた。


この男が、何を企てているのか。

一瞬で悟った。


──董卓を、暗殺するつもりだ。


王允の胸に、風が吹き抜けた。


冷たく、鋭く、刃のように──


それは救いの予感か、それとも破滅の前触れか、判別つかぬ風だった。




(2)王允の決断


部屋の灯りは、わずかに二人の影を揺らしただけだった。


曹操は座ったまま、静かに待っていた。

七星剣を求める言葉を投げてから、一言も加えない。


ただ、時折、指先で膝を軽く叩く。

そのリズムは、まるで夜明けまでの残り時間を数えているようだった。


王允は黙って、奥の戸棚を開けた。

錦に包まれた剣を手に取り、曹操の前に置くことなく、自分の膝の上に載せたまま、じっと見つめた。


北斗七星の意匠が、薄暗い灯りに鈍く光る。


先帝から下賜されたこの剣を、今ここで他人に渡せば、もう戻らない。


曹操は視線を上げなかった。

ただ、静かに言った。


「司徒殿。夜は、もう深くなっています。」


王允の指が、剣の柄に触れた。


冷たい。

いや、熱いのか。


判別がつかない。


──この男は、本当に董卓を殺すつもりなのか。

それとも、ただ剣を手に入れて、別の道を選ぶつもりか。


城門の外には、すでに馬を用意しているのでは。

夜明け前に長安を抜けられるよう、番兵に金を握らせているのかもしれない。


渡せば、漢に火が灯るかもしれない。

渡さなければ、何も変わらない。


変わらないまま、ただ董卓の酒を飲み続け、笑みを浮かべて、血の杯を傾け続けるだけ。


王允は息を吐いた。


ゆっくりと、剣を曹操の方へ滑らせた。


曹操はようやく顔を上げた。

剣を手に取り、鞘から抜くことなく、ただ重さを掌で量った。


「……思ったより、軽い。」


曹操は低く、ほとんど独り言のように呟き、鞘を抜いた。


王允の背筋に、冷たいものが走った。

いや、冷たいだけではない。

熱く、ざわつくような、獣の息づかいのようなものだった。


王允は無意識に曹操の目を覗き込んだ。

その瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。


まるで自分が刃を向けられているような、逆の恐怖。


この男の瞳の奥に、董卓を殺す覚悟などないかもしれない。

あるのは、ただ自分の命を最優先に計る、冷たい計算だけかもしれない。


だが、曹操は王允の視線に気づいた様子もなく、七星剣を鞘に戻し、静かに膝の上に置いたまま、目を落としたままで言った。


「これがあれば……夜明けまで、考えられる。」

夜明けまで。

その言葉が、王允の耳に重く響いた。


夜明けまで考えられる──ということは、今すぐ動くつもりはない、ということか。


王允の手が、わずかに震えた。

膝の上の空いた錦の布が、急に冷たく感じられた。


託してよかったのか。


託さなければ、何も変わらなかった。

このまま血の杯を飲み続け、笑みを張り付け、

漢が滅びるのをただ見ているだけだった。


だが、託したことで──


変わるものが、漢の未来なのか。

それとも、ただ自分の首を、より早く城門に吊るすだけなのか。


外はまだ深い闇。

遠くで、犬が一匹、短く吠えた。


曹操はゆっくりと立ち上がった。

剣を懐にしまい、深く礼をした。


「司徒殿。今夜は、感謝いたします。」


そして、裏戸へと向かうその背中を、王允は何も言えずに見送った。


戸が閉まり、足音が遠ざかる。


部屋に、再び静寂だけが戻ってきた。


王允は動けなかった。

ただ、灯りの揺らめきを見つめながら、夜明けが来るのを待つしかなかった。


──あの男は、今どこへ行く。

董卓の館か。

それとも、城門か。


どちらにせよ、明日の夜までには、何かが変わっているはずだ。


変わってほしい。


変わらなければ、自分はまた血の酒を飲むだけだ。


だが、変わったとしても──


それは、救いなのか。それとも、ただ新たな血の始まりなのか。


王允は目を閉じた。

震えは、もう止まらなかった。


遠く、鶏が鳴き始めた。

夜明けには早すぎる。




(3)いつも通りの朝


遠く、鶏が鳴き始めた。

だが、夜明けには早すぎる。


王允は目を閉じたまま、耳を澄ました。

もう一匹、別の鶏が応じるように鳴いた。


それから、静けさが戻った。

王允は祈るように、いや、どこか暗い予感を抱いたまま、再び床に横たわった。


眠れるはずなどない。


ただ、闇の中で時間を待つしかなかった。



 *        *        *



やがて、長安の城門が開く重い音が、遠く響いた。

鈍い、鉄の軋むような音。

毎朝、同じ時刻に聞こえる、あの音。


王允はゆっくりと目を開けた。


部屋はまだ薄暗く、灯りはとうに消えていた。

膝の上の錦の布は、冷えきっていた。


七星剣のあった場所が、空虚に残っている。


外では、朝靄が立ち込め始めていた。

窓の隙間から覗く空は、灰色に濁り、街の屋根々がぼんやりと浮かび上がるだけ。


市井の声が、徐々に聞こえ始めた。


馬車の車輪が石畳を転がる音。

行商の呼び声。

井戸端で水を汲む女たちの囁き。

子供が走り回る足音。


──いつも通りだ。


王允は立ち上がり、窓辺に寄った。

霧の向こうに、長安の街が動き始めている。

商人たちが店を開き、役人たちが邸を出て、兵士たちが交代のために城壁を歩く。


何も、変わっていない。


昨夜、あの男が七星剣を携えて去ったというのに。

董卓の館で、何かが起きた気配すらない。

騒ぎの声も、血の匂いも、伝わってこない。


王允の胸の奥が、静かに冷えていった。

それは、安堵ではなかった。

絶望でもなかった。

ただ、凍てつくような、底知れぬ不安だけが、そこに広がっていた。


屋敷の廊下で、家人の足音が近づいてきた。

老いた家令が、朝の支度を告げにきたのだ。


王允は袍を整え、静かに部屋を出た。

食殿では、いつものように粥と菜が並んでいた。

家人たちが控えめに朝餉を囲む。

誰もが、声を潜めて世間話を交わしている。


「今朝は静かですね。」

「昨夜は、風が強かったですが、相国のお館も、何事もなかったようで。」


王允は箸を手に取り、粥を口に運んだ。

味は、ほとんどしなかった。


家人たちの言葉は、耳に届くだけで、心には入ってこない。


何も起きていない。


それだけが、確かだった。


やがて、朝議の刻が近づいた。

王允は馬車に乗り、屋敷を出た。

長安の街は、霧が少しずつ晴れ始めていた。


市場では商人たちが声を張り上げ、荷車が石畳を軋ませて行き交う。

道端で兵士たちが槍を立て、怠惰に立っている。

女たちの声と、子供の笑い声が交じる。


いつも通り。


馬車の窓から、王允は外を眺めた。


董卓の館の方向に、煙も炎も上がっていない。

叫び声も、馬の嘶きも聞こえない。


あの男は、剣を携えて、どこへ行ったのか。


夜明けまで考えられる、と言って──

結局、何もせずに、ただ時間を潰したのか。

今日の日中に事を起こすつもりなのか。

それとも、すでに長安を離れ、七星剣を別の賭けに使おうとしているのか。


王允の指が、袍の袖の中で固く握られた。


宮殿に着いた。

馬車から降り、玉階を上る。

周りの官僚たちが、静かに集まってくる。

誰もが、顔を伏せ、声を潜めている。

朝議の間は、いつものように重い空気に満ちていた。


大臣たちが席に着き、沈黙が広がる。


誰も、昨夜のことを口にしない。

口にすれば、首が飛ぶことを、皆が知っている。


やがて、刻が来た。


相国・董卓は、いつも通りの時刻に現れた。

西涼の袍を纏い、腰に剣を佩き、玉座の傍らにどっかりと座った。


笑っていた。

いや、ただ口元が緩んでいるだけか。

判別がつかない。


王允は頭を垂れ、膝を折った。

胸の奥の冷えが、さらに深くなった。


何も起きなかった。


それだけが、何よりも不吉だった。




(4)北へ


朝靄はまだ深く、道ばたの草に露が光っていた。


曹操の馬の少し後ろに控え、黙ってついていく男がいた。


名前を陳宮ちんきゅう。字は公台こうだい


理想を捨てきれず、長安の官を抛ってきた男だった。



長安の北門を抜けてから、すでに半刻は経っている。

門番は金を握らされ、眠そうな目を擦りながら通してくれた。


追手は、まだ来ていない。


曹操は先頭を走り、七星剣を懐にしまい、一度も後ろを振り返らない。


陳宮は昨夜のことを、頭の中で何度も辿っていた。


王允の屋敷で剣を受け取り、夜の董卓の館に、曹操とともに忍び込んだ。

董卓は酒宴の席にあり、曹操を司空として厚遇し、笑みを浮かべて酒を勧めた。

曹操は七星剣を懐にしまいながら、ただ笑みを返し、杯を傾けただけだった。


斬る気配は、一瞬もなかった。

──と、思う。


館を出たのは、夜が明ける直前。

結局、何も起こさずに、馬に乗り長安を離れた。


機を逸したのか。

それとも、もっと深い計略があるのか。


昨夜は、ただ時が悪かっただけだ。


そう解釈すれば、まだ希望は残る。


陳宮は馬を少し近づけた。


「孟徳殿。」


曹操は足を止めず、わずかに首を傾けただけだった。


「昨夜は……やはり、機が熟さなかったのか。」


曹操は短く、息を吐いた。

笑ったのか、ため息だったのか、判別がつかない。


「機など、最初からなかった。」


陳宮の胸に、冷たいものが落ちた。


機など、なかった。


それは、董卓を斬る機会など、最初からなかったということか。

それとも、斬る気など、最初からなかったということか。


陳宮は言葉を探した。

だが、曹操は再び前を向き、手綱を緩めた。


「急ごう。追手が来る前に、陳留まで距離を取らねば。」


合理的だった。

逃げるための行動は、すべて整えられていた。

馬は二頭。食料は十分。道は事前に偵察済み。

すべてが、失敗を前提にしたように、完璧だった。


陳宮は頷いた。


まだ、この男を信じたいと思っていた。


信じなければ、自分がここにいる意味がなくなってしまう。


道の向こうから、かすかな蹄の音が聞こえた。


追手か。

いや、まだ遠い。

ただの旅人の馬か。


曹操は耳を澄ました様子もなく、ただ前を見据えて馬を走らせ続けていた。


長安の城壁は、霧の向こうにぼんやりと残り、次第に小さくなっていく。

陳宮は無意識に後ろを振り返った。


あの都で、今も董卓は生きている。

王允は、血の杯を飲んでいる。


曹操は、一度も振り返らなかった。

その背中が、陳宮に小さな違和感を残した。


──この男は、何を捨てたのか。


漢か。

王允か。

それとも、自分自身なのか。


朝日が霧を裂き、二人の影を長く地面に落とした。

陳宮は馬を進めながら、長安を捨てたことを後悔はしていなかった。


だが、確信も、持てずにいた。



 *        *        *



日が傾きかけた頃、二人は中牟県の成皺という地に着いた。


曹操の父の旧友、呂伯奢りょはくしゃという老人が住む家があった。

呂伯奢は曹操の顔を知り、喜んで迎え入れた。


「孟徳! 久しぶりだな。公台殿もご苦労さん。今夜はゆっくり休んでいけ。ご馳走を用意するよ。」


呂伯奢は息子たちに命じて酒を温めさせ、裏の豚小屋へ向かった。

曹操と陳宮は疲れた体を炉端に預け、しばし目を閉じていた。


夜の屋敷は静かすぎて、逆に何かが待ち受けているような気がした。

逃亡者の耳には、どんな物音も敵の足音に聞こえる。


やがて、家の中から物音が聞こえてきた。


刃を研ぐ音。

豚の鳴き声。

そして、低い声。


「縛れ。」

「しっかり縛って、殺せ。」


陳宮は目を開けた。

曹操も、すでに剣を握っていた。


──追手か。

呂伯奢は董卓に与したのか。

金を握らされ、二人を捕らえるつもりか。


曹操は無言で立ち上がった。

陳宮も剣を抜いた。


家の中は薄暗く、家族の影が揺れていた。


曹操が先に動いた。


一閃。


血が噴き、叫びが上がった。

陳宮は後を追い、刃を振るった。

止める間もなかった。

恐怖が、すべてを決めた。

息子たち、妻、婢。次々と倒れていった。


全ての人を殺し、先程までの人の悲鳴が嘘のように静寂に包まれた。


ふと、裏の小屋で、火にかけられた豚を見た瞬間、陳宮は息を呑んだ。

──豚を殺す音だった。

客人をもてなすための、ただの準備だった。


その時、玄関の戸が開く音がした。

呂伯奢が酒を買って帰ってきたのだ。


老人は、家の惨状を見て絶叫した。


曹操は静かに剣を振り下ろした。

再び血の匂いが、家中に満ちた。



二人は馬に跨り、逃げた。


道に出てから、陳宮は息を荒げて聞いた。


「孟徳殿……呂伯奢殿にまで手に掛けるのはやりすぎでは。」


陳宮の心臓はまだ高鳴り、手が震えていた。

血の付いた剣を握りしめたまま、吐き気が込み上げる。


曹操は馬を進めながら、静かに言った。


「誰であろうと、弱みを握られるわけにはいかぬ。

寧ろ我が人を負くも、人にして我を負わしむることなかれ。」


陳宮は言葉を失った。

馬を進める蹄の音だけが、虚しく響いていた。


陳宮は、この男に着いてきたことを後悔はしていなかった。

だが、昨夜から続いていた恐怖は、すべて無意味だったことに気づいた。


いや、無意味ではなかった。


この男の、非情さを証明するために、必要だったのかもしれない。





(5)剣を刺す夜


月はなく、野営の火はすでに消えていた。



曹操は毛布に身を包み、静かに寝息を立てていた。

七星剣は、その傍らに置かれていた。


陳宮は、火の残り灰を前に座ったまま、長い間、動かなかった。

やがて、ゆっくりと立ち上がった。


七星剣を手に取る。


鞘から抜く音は、ほとんどしなかった。

刃は、星明かりを薄く受け、冷たく、夜に溶け込むように光った。


陳宮は曹操の傍らに跪いた。


剣を両手で握り、喉元に近づける。


曹操の首は、無防備だった。

息は規則正しく、顔は穏やかだった。


剣先が、わずかに震えた。



 *        *        *



──陳宮は今夜の曹操の言葉を思い出していた。


「公台。俺がなぜ董卓を斬らなかったのかと、訝しんでおるのだろう」


陳宮は答えず、ただ見つめた。

曹操は火の残りを見つめながら、静かに続けた。


「董卓は、斬るほどの相手ではなかった。奴はただの凶暴な獣だ。獣を殺したところで、檻は変わらぬ。宦官かんがんが腐らせたこの王朝に、董卓が地獄を重ねただけ。董卓を斬ったところで、次の獣が現れる。それを繰り返すだけでは、何も変わらぬ」


短い沈黙の後、曹操は小さく息を吐いた。


「乱世を終わらせるには、地獄を終わらせるだけでは足りぬ。新しい秩序が必要だ。それを築けるのは、獣を操る者だけだ」


陳宮は息を呑んだ。


理のある言葉だった。

あまりにも理が尽くしすぎていて、情が一滴も混じっていない。


この男は、理想を語らない。

希望を売らない。

ただ、冷たく、正確に、世の理を切り取るだけだ。


理しかない。

だからこそ、末恐ろしい。


陳宮の指が、剣の柄を固く握りしめた。


心の底に、氷のような恐怖が沈んでいった。


刃は進まなかった。

夜だけが、陳宮を置き去りにしていった。


遠くで、風が草を揺すった。

どこかで、夜鳥が一羽、短く鳴いた。

陳宮は剣を握ったまま、曹操の寝顔を見下ろした。


やがて、息を吐いた。


剣を、静かに、曹操の喉の傍らの地面に突き刺した。


土の中で、短く鈍い音がした。


立ち上がり、馬に跨った。


手綱を握り、闇の中へ進む。

振り返らなかった。



 *        *        *



朝が来て、曹操は目を開けた。

七星剣は、すぐ傍らに刺さっていた。


曹操はゆっくりと身を起こし、剣を引き抜いた。


刃を一瞥し、鞘に収めた。


遠く、陳宮の姿は、もう見えなかった。

曹操は静かに言った。


「殺せなかったか。」


風が、草を揺らしただけだった。





(6)剣のない朝


朝議ちょうぎは、いつも通り終わった。

董卓は玉座の傍らに座り、大臣たちの奏上を聞き、時折、短く笑った。



誰も、昨夜のことを口にしなかった。

曹操の名も、七星剣の名も、長安の夜に何かが起こった気配すら、話題に上らなかった。


王允は頭を垂れ、いつものように、司徒として言葉を添えた。

声は平静だった。

髭を撫でる指も、震えなかった。


議が散会し、大臣たちが廊下を去っていく。

足音が遠ざかり、静けさが戻る。


王允は一人、殿の隅に立っていた。

老いた家令が、控えめに近づいてきた。


「司徒殿。昨夜、曹操殿が城を出た由にございます。」


王允はわずかに目を上げた。


「七星剣を携え、北門から二人連れで出立。行き先は、陳留ちんりゅうとのこと。」


家令はそれだけ言って、頭を下げた。


──陳留。

曹操の故郷。

兵を挙げる気なのだろうか。


王允は頷いた。

何も問わなかった。

曹操は去った。

董卓は生きている。


しかし七星剣は、我が元にはない。


先帝から下賜された、あの重みは、もう二度と戻らない。

胸の奥の冷えは、もはや凍てつくほど深かった。


だが、涙は出なかった。

嘆きも、怒りも、

ただ静かに、沈んでいくだけだった。


王允はゆっくりと歩き始めた。

次の朝議の支度を、董卓の前に跪く準備を、漢の忠臣として続けるために。


しかし、胸の奥の凍てつく冷えは、わずかに、別の熱を帯び始めていた。


それは、怒りでもなく、嘆きでもなく、ただ、静かに燃え上がる、執念のようなものだった。





【歴史解説】権威の崩壊と「逃亡者」曹操


1. 189年、長安遷都の衝撃

 霊帝の死後、実権を握った董卓は、自らの意に沿わない皇帝を廃し、わずか9歳の献帝を即位させました。さらに、反董卓連合軍の追撃をかわすため、代々の都・洛陽を焼き払い、強引に長安へ遷都します。この際、数百万の民が犠牲となり、漢王朝の権威は文字通り灰燼かいじんに帰しました。


2. 「七星宝剣」の行方と独自のアレンジ

 『三国志演義』において、七星宝剣は暗殺に失敗した曹操が、機転を利かせて董卓に献上した「逃走の道具」として描かれます。しかし、本作ではこの名剣を「曹操が持ち去った」という独自の設定を加えています。これにより、漢王朝の権威そのものである宝剣が、王允の手を離れ、野心溢れる曹操へと移動したことが象徴的に示されています。


3. 呂伯奢の惨劇とリアリズム

 曹操が逃亡中に父の旧友・呂伯奢の一家を誤殺した事件は、彼の非情さを象徴するエピソードとして知られています。彼が放ったとされる「我が人に背くとも、人に我を背かせじ(たとえ私が世の人を裏切っても、世の人が私を裏切ることは許さない)」という言葉。本作では、彼が単なる悪人ではなく、理想よりも冷徹な現実を優先するリアリストであったことを物語る重要な転換点として位置づけています。


【コラム】過去の守護者、未来の開拓者

 王允編における最大の見どころは、「救いようのない絶望の中での選択」にあります。


 王允は、滅びゆく漢王朝の「残り火」を守ろうとする男でした。彼にとって七星剣を曹操に託したことは、自らの命よりも重い「漢の正統性」を賭けた、最後の祈りにも似た行為でした。しかし、その祈りは聞き届けられず、剣のない朝、彼は再び董卓の前で泥をすする日常へと戻ることになります。


 一方で、曹操という男はすでに「過去の遺物」となった漢王朝を見限っていました。「獣を操る者だけが新しい秩序を築ける」 この独白に、彼の本質が凝縮されています。彼は董卓を殺すこと(地獄を終わらせること)そのものには執着していません。そうではなく、地獄そのものを踏み台にして、新しいことわりを作り上げようとしていたのです。


 同行した陳宮が抱いた違和感は、まさに「古い世界の人間」が「新しい怪物の産声」を間近で聞いた時の本能的な恐怖だったと言えるでしょう。陳宮が最後に剣を曹操の喉元ではなく地面に突き刺して去ったのは、彼自身の善性が、曹操という強烈な「理」を完全には否定しきれなかった証拠かもしれません。


 王允が執念という名の炎を燃やし続ける長安。曹操が野心という名の野火を広げようとする荒野。二人の道が完全に分かたれたこの夜こそが、真の「乱世」の始まりだったのかもしれません。

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