闇夜に巣食う色即是空 月夜に妖しき空即是色

三宅 蘭二朗

episode.1〈色〉

 月がいている。


 したたる月光が小雨に濡れた石畳に落ち、照り返しが十字路の惨劇を映し出す。そこにあるのは幾体ものしかばねだ。もっとも、不死者の動かぬ肉体も屍と呼ぶのなら。


 ダミアーノは剣を鞘にてがった。その剣は護拳ごけんも、鞘も、目を見張るような精緻せいちで大胆な象嵌ぞうがんで装飾されていて、見るからに宝剣と呼ぶにふさわしい、吸血鬼ハンター一族に伝わる純銀のヴァンパイア・スレイヤーだ。


「終わったか」


 剣をゆっくりと押し込み、足元に転がった吸血鬼の一体をブーツのつま先で転がした。これまで多くの人々の生き血を舐めとった舌をだらしなく放り出し、醜い死に顔を月に晒している。


 朝日が昇れば、灰となって新しい日の風がどこか遠くへ運ぶだろう。


 ダミアーノは踵を返した。闇夜に巣食すくう悪魔たちをこの世から殲滅するその日まで、当代随一の吸血鬼ハンターの旅は終わらない。




「ぶはぁっ!」


 折り重なったむくろの下から、クリストファーは這い出た。吸血鬼ハンターとの激しい戦い、ボロボロになった体を引き摺って。


 キツネから逃げたリスのように、忙しなく辺りを見回す。


 あの恐るべき吸血鬼ハンターの姿はない。助かった。生き残った。思わず笑いがこみ上げる。


「ククク……ハハハハ……ハハ、ハ、ハァ~」


 やがて、その笑い声は震え出し、安堵あんどの溜息へ変わる。だが、その後を追いかけるように怒りがこみあげてきた。一族は皆殺しにされ、自身は恐怖にまみれて恥辱ちじょくを味わわされた。


 クリストファーはみじめに這いつくばったまま、濡れた石畳に爪を立てた。何度も処女の首筋を引き裂いた爪が、屈辱の傷痕を地面に刻む。


「ダミアーノ……ダミアーノッ……ダミアーノッ!」


 ガリガリと、何度も何度も、狂ったように引っ掻く。爪が剥がれ、指先が削れてもなお止めない。自らが塗れた恐怖と恥辱と憤怒ふんぬで、手が止まらない。


「吸血鬼ハンターめ……。愚かにもこの俺を仕留め損ねた詰めの甘さが、いずれ貴様の首を絞めるだろう」


 クリストファーは立ち上がった。指先はズタズタのままだ。いつもはすぐに再生し、元通りの美しい指先に戻るというのに。忌まわしい銀製の剣で、銃弾で、傷ついた体も回復していない。それほどまで肉体が疲弊している。


 クリストファーの胸の内で、またしても煉獄れんごくの炎の如き怒りが燃え盛った。


「待っていろ、ダミアーノ。想像だにできない残忍な方法で無残に殺してくれるっ!」




 クリストファーは吸血鬼一族ベーコン家の一員だった。


 ベーコン家。かつて、母国英国のみならず、欧州一帯にその名を知られた名門貴族である。しかし、百年戦争後期、神に唾を吐くかの如きあらゆる破廉恥はれんちと不道徳を繰り返し、神聖な信仰に後ろ足で砂をかけたことで、一族もろとも人の道たるを奪われた。すなわち、吸血鬼へとなり果てたのである。


 しかし、神より見放され、太陽の光から追われてなお、ベーコン家は月に高笑い、闇の世界でその栄華を誇り続けた。


 しかし、永遠に思われたその栄華が突如として終わりを告げた。


 終末の鐘を鳴らしたのが、当代きっての吸血鬼ハンター、ダミアーノだ。


 まさか、その人間が突如、一族の前に現れるとは。恥も外聞もかなぐり捨てて逃げ出した者たちも、ついにはこの十字路で捕まり、このざまだ。


 月光で尾を引く剣閃、針の穴を通すリヴォルヴァーの銀弾、光の粒子をまき散らしながら踊るジーザス・クライストの張り付いた十字架。思い出すと奮えがくる。


 クリストファ―の眼前に現実が付きつけられる。一族の復讐など果たせるわけがない。たったひとり生き残った自分に何ができる?


 そのとき、ふいにドサリと音がなった。思案に耽っていたクリストファーがはっと目をやると、目の前に中年の男がひとり、尻もちをついて震えていた。


 平たい顔立ちから東洋人だとわかる。観光に訪れた者か。あわれにもこの惨劇の十字路に迷い込んでしまったのだ。大量殺人の現場にでも遭遇したと思っているのだろう。


 こういう手合いには、さっさと人間を捨てさせてやった方がいい。


 クリストファーが笑うように口を開いた。糸を引く白磁のような牙が覗く。年若い乙女がいいなど贅沢は言っていられない。いますぐ、この者の血で傷ついた体を癒すのだ。


「ひ、ひやああああっ! バ、バケモノォッ!」


 東洋人が両手両足をばたつかせる。逃げようにも腰が抜けてどうにもならない。


 逃げるのを諦めると、今度は懐から数珠じゅずを取り出し、震える両手で握ってクリストファーの耳には呪文に聞こえる言葉を繰り返し始めた。


「……ブディストか」


 東洋にうといクリストファーでも知っている。数珠は仏教において、キリスト教でいうところの十字架のような聖なるものだ。


 しかし、こんなものが何の役に立つ。クリストファーは数珠を乱暴に掴んで引きちぎってばら撒いた。


 そのとき、クリストファーはふと、あることに気が付いた。


 仏教の聖なるものは俺には効かない。


 東洋人の首根っこを掴もうとした手は、自然と転がった小さな珠ひとつを摘まみ取っていた。


 黒檀こくたんの鈍いつや


 ならば、俺が仏教に改宗したら、十字架を恐れる必要がなくなるのではないか?


 神を裏切り、信仰を唾棄だきしたが故に吸血鬼となったなら、我々はキリスト教の化け物だ。だから十字架を恐れる。


 仏教徒となり、その戒律かいりつから逸脱いつだつすれば、十字架も恐れることがなくなるのでは。


 さすれば、俺は無敵の吸血鬼になる。十字架も銀の武器も、日光もニンニクも効かない無敵の吸血鬼となってダミアーノに復讐できる。


 震える東洋人を見下ろした。肩から下げたかばんにはアルミのバッヂがついている。詳しくはないが女児向けアニメーションのキャラクターだろう。


 日本。そこが仏教の聖地か。


 英国名門吸血貴族にとって、東洋文化の理解などそんなものだった。


「俺は日本に渡り、仏教徒になる」


 もはや、東洋人などどうでもよかった。クリストファーは霧に変化してその場から飛び去った。

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