何が残るか
セナを起こしたのは、むせ返るほどの腐敗臭だった。
「う、げほ、なに・・・」
洞穴で丸まりながら、消える事ない炎を一瞥して、臭いの痕跡を追う。
──ああ、そうだった。とセナは思い出した。
「く、臭い・・・。臭すぎるよ」
放置された黒龍の死骸が、セナを現実に呼び戻した。
「魔王、起きて。臭い」
「む・・・。なんだ、セナよ。我はまだ寝る」
「ダメ、起きて。私じゃ対処できない」
魂を上下にブンブンと振って、無理矢理にでも魔王の起床を促す。
最初は無視を決め込んでいた魔王だったが、流石に我慢の限界が来たのか、焚き火みたく燃える魔法の火の様に、魂を大きく膨らませた。
「離せ!全く、なんだ貴様は。まだ朝じゃないか」
「だから起こしてる。あれ、どうするの」
「む」
魔王は朽ちていく竜の死骸を見て、ふよふよとそちらへと漂っていく。
「ふむ、やはり一夜で朽ちていくか。セナ」
「なに?」
呼びかけられ、セナは魔王の側によって、何を言われるのか耳を傾ける。
「解体するぞ」
「えぇぇぇ・・・」
心底嫌そうに、普段崩れなかった顔が引き攣る。
けれども、それでもトボトボと竜の死骸へと歩いていくセナは、とても忠順だった。
「うぅ、ああぁぁ・・・臭い」
近づいてみれば、当たり前だが腐敗臭は更にセナの嗅覚を壊しにかかる、セナが近づいたのを見て、魔王もその死骸に近寄る。
「竜は腐るのが速い、取れる部分は取るぞ」
「そう言っても・・・おえ、解体道具とかないよ」
鼻を摘みながら、魔王の言葉に反論する。
だからやめよう、解体なんて、よくないよこんなの。
「目玉は比較的取りやすい」
「・・・」
「どうした、取れ」
「手、突っ込むの・・・」
おおよそ、セナと同程度ある竜の瞳は、生気を失っていても威圧感がある。
生の光は感じないが、今にも動き出しそうな程。
「素材屋か商会にでも売れば、それなりの値段になる」
「持ってけないよぉ・・・」
「ふむ、では・・・牙は?」
それなら、と思ってセナは口元に近づく。
口元に溜めていた唾液が、地面に広がっている。
「ん、んぅー!だ、だめ・・・抜けない」
「流石に牙は硬いか・・・。となると、ふむ」
大きな竜の身体をキャロキョロと回って、数分の後に、セナの肩に止まる。
「では、爪はどうだ」
見たところ、手の腐敗は相当に激しい。
これなら、華奢なセナでも引き抜けるのではと、魔王は提案する。
「う、うん。わかった・・・」
「なんだ、怯えているが」
「え?そんなこと、ないと思う」
「爪が怖いのか」
ギクリ、とセナの肩が揺れて、そこに乗っていた魔王の魂も、その反動で離れる。
「安心しろ、息はない。お前を傷つける凶爪は見る影も無くなった」
「・・・うん」
手の方に歩き出す。
そして、その鋭利に伸びだ爪へと手を伸ばし、グラグラと動かしながら、無理矢理にでも引き抜く。
「ん──────!!わぁっ!」
持てる力を、極限まで引っ張り出した、しかしそれが返って悲劇を生んで、手が滑ってしまう。
「ふはは、やってしまったな」
魔王のひと笑いを聞いて、セナは忌々しげに睨む。
運が悪かった、と言う他なかった。
「もぉぉぉ・・・」
広がっていた血溜まりに浸かってしまったセナは、少し泣きそうになっていた。
「むぅ、流石に一本が限界か」
「うん、ちょっと重い」
「仕方ない。こればっかりはな」
身体いっぱいに爪を抱きしめて、セナは黒龍の前に立つ。
痛々しい、竜種は星の無慈悲にやられてしまった。
胸に、引っ掛かりを覚えてしまう。
「・・・」
「セナよ、気負ってはならない」
「分かってる。でもさ・・・」
セナは、持っている爪を抱きしめる。
悔しそうに、申し訳なさそうに、黒龍から得た爪を大切に。
「生き物の死というのは、次の命への贈り物になる」
「え?」
「弱肉強食は世の摂理であり、美しい。この黒龍もまた、この美しい世界の一部になるのだ」
生物の死は、土壌を固める基盤になる、小さな生き物達の食糧になる。
これは、この世に生を受けた存在としての絶対の規律なのだ。
「故に、我らは間違ってなどいない。奪って、繋げるのだ」
自分達の、明日へと。
「売るって、どこで売るの?」
自然の中の水源で、その身を洗いながらセナは魔王に問いかける。
服装は仕方ないにしろ、身体は清潔に保てと言われ、今に至っている。
「レヴァーティア」
「そっか」
バシャリ、と湖から上がり、背の低い木にかけられた服を手に取る。
「身体を乾かせ」
「はぁい」
めんどくさそうに、側で燃えていた炎に身を近づけてセナは自身の身体を温める。
低く下がって、冷えていた身体がじんわりと暖かくなっていくのを感じる。
「素材を売ったら、隣国に行くぞ」
「エルセルク?」
「そうだ」
この世には、大きく分けて八つの国が存在する。
その中でも、レヴァーティアの隣国、エルセルクは調和を重んじており、他七つの大国と友好関係を築いている。
「その身なりをどうにかするぞ。それと、お前でも出来そうな労働を探す」
「・・・魔王が、労働?」
「なんだ、我が労働を語るのはおかしいか?」
「うん」
十分に身体が乾いて、セナはやっと自身の衣服に袖を通す。
着替えながら、魔王の言葉を待ち続ける。
「なぜだ?」
「だって、働くとか・・・無縁そうだし」
「当然だ」
着替え終わったのを確認して、魔王はふよふよと漂っていく。
──本当に、ちゃんと帰り道を覚えてるんだ。
「我に不自由はない、食事なんていらないし、湯浴みも必要ない」
「便利だね」
「そうだ、して、人は?・・・餓死はするし、不衛生は死の恐れがある。全くもって、厄介な身体だ。だからこそ人は働く」
「お金が欲しいからね」
「そういうわけだ。労働の不自由は、人に生を与える。当然だ、健全な循環だ」
人の常識を知っている魔王と、その枠から外れていた灰色の少女。
そんな2人はまた、出会った街へと戻っていった。
「銀貨50枚だ」
「・・・」
太々しい態度の男は、黒龍の爪を見るなり目を見開いて驚いたものの、一瞬で元の顔に戻ってこう言った。
「どうすんだ?」
「あ、えと・・・」
チラッと、魔王を見つめてどうするのかを目で聞いてみる。
「貰っとけ」
「あ、はい。それで」
「待ってろ」
爪を大切に保管し、店主は小さな金庫を漁りながら、清算している。
実のところ、かなりぼったくられている。
魔王は硬貨なんて見た事はあるが、価値を知らない。
セナは、そもそも硬貨を持った事がない。
金貨10の価値ある物を、2人は無知が故に50枚の銀に変換している。
「財布も付けてもらえ」
「・・・聞こえてないのかな」
「あぁ?」
「さ、財布を・・・お願いします」
「2枚引く」
48枚の銀になってしまった。
セナはお礼を言って、素材屋から離れていく。
パンパンに詰まった皮袋の財布を大事そうに抱えて、どこか楽しげに魔王の後ろをついて行く。
「エルセルクまではどうやって行くの?」
「歩きだ」
ここからエルセルクまで、休み無しで行けたとしても二日はかかる。
それに少女の足で赴くには、多少の困難があるだろう。
「わかった」
「ほう、文句でも垂れると思ったが」
「ううん、むしろ楽しみ」
この二日、セナは閉鎖的な空間から抜け出す鳥になった気分だった。
レヴァーティアから、外へ、育った故郷に思う所は少しあったけど。
それでも、足取りは軽やかだった。
だった。
「はぁ・・・ぜぇ、はぁ、うっ」
「歩け。まだ先は長いぞ」
「ま、待ってぇ・・・。ちょ、ちょっとだけ、休まない?」
セナ齢12歳。
自分の小ささと世界の大きさに驚愕する。
「なんだ、だらしない。レヴァーティアを出る時の威勢はどこに行った」
魔王の小言にも反論できないほど、セナは疲弊していた。
「はぁ、はぁぁ・・・ぜ、はぁ」
「お、見ろ。翼竜の雛が飛んでいるぞ」
魔王は呑気に、青空を飛ぶ翼竜に目を向けて、視線を向けろと促している。
そんな余裕は、セナにはない。
地面に滴る自分の汗と、石ころと砂と、馬車がつけた車輪の跡しか見えない。
「空を飛ぶ魔法とか、ないの・・・?」
「我にはある、お前にはない」
「そんな・・・っ」
肩で息をしながら、それでも足を動かした。
「おぉ、今度は親子連れの翼竜だ」
「見る余裕ない・・・」
歩いて、歩いて、また歩いて。
夜になった。
「全然進めなかったな」
「ごめん・・・」
2人は脇道に逸れて、ちょどいい大木に腰をかけて休んでいる。
魔物が出ないのは、街道に施されている聖水のおかげであった。
「構わん、二日はかかると行ったろう。これはただの推測で、絶対ではない」
「これが二日・・・。下手したら、三日以上かかるの?」
顔面蒼白、この先の未来を予感して、セナはまた世の中の残酷さを知った。
「ふむ、馬車の一台ぐらい通ると思ったが」
「・・・いや、通っても乗せてくれるかはわからないでしょ」
ガラガラ
「わからんぞ、見兼ねて乗せてくれるかもしれん」
「うぅん・・・」
ガラガラガラ
「む?」
「え?」
ガラッ・・・。
「お嬢さん、ここで何してんだい・・・?」
救世主登場である。
「あっはっは!!歩いてエルセルクに?それはまた大胆だね」
2頭の馬に指示を出しながら、御者のおじいさんは豪快に笑った。
「あ、あはは」
セナも笑うしかなかった。
二日歩くなんて余裕だろうと思っていたが、そんなもの子供の尺度でしかなかった。
「何しに行くんだい?」
「え、と・・・何しに行くの?」
「仕事を探すと言ったろう」
「です」
「・・・?」
ここで、御者のおじいさんに視点を変えよう。少しだけ
「え、と・・・何しに行くの?」
一瞬の間。
「です」
何が、です。なのか?
けれど、御者のおじいさんは人が良かった。
少女の会話の不成立を、笑って流して、ひとつの可能性を提示した。
「お嬢さんは、あれか?妖精と話せる人か?」
「え?」
「わしはもう、長く生きてしまったからな。妖精の声は聞こえなくなってしまった」
ここで、セナは気づいた。
──魔王って、私にしか見えてない?
「妖精と一緒にするな」
「あ、えっと!あ、あの」
「ははは、妖精はなんと言っているんだい?」
セナ、困惑。
何から話していいかわからない。
魔王を馬鹿正直に、私は魔王に魂を喰われそうな存在ですけど、魔王とは共存関係にあります。
言えるわけない。
魔王という単語が出た瞬間、絶対にこの馬車から放り出される。
「は、はい。私、妖精と喋れます・・・」
「そうなのかっ、やはりな」
「おい、我は妖精じゃ──」
「静かにっ」
しーっと、指を立てて静かにしてくれと頼むと、魔王は不服そうにしながらも、沈黙してくれる。
「そうか・・・。いいのぉ、わしも昔、妖精と話がしてみたくてな。よく、森を駆け回ったものじゃ」
「素敵な、話です」
「妖精・・・か。そんなものもいたな」
魔王はどこか懐かしむように、呟いた。
「あれから、500年ぐらい、いやもっと前か?妖精が消えてから長い年月が経った」
「え」
「どうした?」
「あ、いえ──」
魔王の口から、突然の言葉が聞こえて、セナは慌てた。
そして、おじいさんの耳には聞こえないように、小さな声で魔王に語りかける。
「妖精って・・・もういないの?」
「ああ」
それを聞いて、セナは戦慄した。
自分のやっている行為は・・・とても、残酷な事をしているのではないか。
「妖精さんは、なんと言っているのかな?」
「え──」
「見える様になるコツとかあるかの?」
おじいさんにとっては、世間話を域に出ない他愛もない話だ。
けれど、セナにとっては違う。
命を理解し、その重さを知った分。
今自分は、嘘で生物を語っている。
「あ、ぁ・・・。私は」
何も言えない、言えるわけない。
死んでしまった存在を、いると言えば、このおじいさんはそれに気づかず、また生を謳歌する。
消えている存在を、生きていると、思い込む。
「妖精は死んではいるが、消えていない」
「ぇ」
「世に生を受けた生き物にとっての本当の死は、忘却された瞬間だ。それを理解しろ」
「・・・忘却された、瞬間──」
魔王の言葉は、セナの心情を理解しての一言かはわからない。
「そうだ、存在の認識が不確定になった瞬間、生物はこの世から消える」
猫が箱に入っている、ではこの中に毒ガスを入れる。
この箱の中の猫は生きているか、死んでいるか。
「セナ。老人の中に潜む妖精を、生かすか殺すかは貴様次第だ」
その言葉に、セナの頭の中は真っ白になる。
けれども、無情に馬車は動き続ける、夜の月は地上を照らしている、明日の太陽は地上に暖かさをくれる。
風は触れた感触を忘れない、水は巡った過去を振り返る
「お嬢さん?」
「妖精は・・・いつだって、そばに居ます」
これが、セナの出した答えだった。
震えた声で、精一杯に絞り出した、拙いながらも自分で考えて、出した結論。
「ご、ごめんなさい・・・。ただ、お、おじいさんが、そうやって、おもい、出して・・・。過去を、振り返れるなら」
もはや、何を言ってるかわからないだろう。
それでも、セナは答えを出したかった。
朽ちていく黒龍を見て、セナは怖かった。
生気のない瞳が、こちらを見ている様で、恐ろしかった、私は覚えている、あの時振るわれた凶爪と、吐き出しかけた火の海を。
だから、あの黒龍は、生きている。
「も、もう会えないけど・・・。絶対に、そばにいるんです・・・」
「──ありがとう、そこまで考えてくれるなんて」
命の循環というのは、存在する。
目に見えないという残酷さが、生物を苦しめる。
「我はやはり、わからんだろうな。一生」
理解は出来る。
だが、感情が湧かない。
──全くもって、空の天球は無慈悲で、意味がある。
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