第二章 新学期が始まりました

第一話 授業が始まりました

1 初めての授業

ボクの名前は、この体になる前から「翔」という。親がどういう意図でつけたのかは知らないが、男にしては少し優美すぎるし、女にしては潔すぎる、そんな響きの名前だ。以前の、一〇〇キロを超えていたボクを知る連中には「似合わねえ」と笑われたものだが、皮肉なことに今のクールな銀髪の美少女という外見には、まるで誂えたかのようにしっくりときている。名前を変えずに済んだことだけは、この数奇な運命の中での数少ない幸運だったと言えるだろう。


だが、その幸運も、瑞原大学法学部の巨大な講義棟においては何の助けにもならなかった。むしろ、銀髪に反射する蛍光灯の光が眩しすぎて、ボクの存在を不必要に際立たせている。


「翔様! 見てくださいまし、わたくしのこの完璧な筆記用具の布陣を。そして、瑞原の歴史を刻むに相応しい真新しいノートを!」


隣で鼻息を荒くしているのは、昨日までのフリル地獄を封印し、清楚な白いブラウスにタイトスカートという、非の打ち所がないエリート女子大生スタイルに身を包んだ葛葉さんだ。彼女の頭頂部にあるはずの三角形の耳も、腰から生えているふさふさした尻尾も、今は認識阻害の術によって完璧に隠されている。もっとも、集中力が限界まで高まったり、逆に理性が飛んだりすると、物理的に術が剥がれて「ボロ」が出るらしいのだが、今の彼女はやる気に満ち溢れていた。


ボクは深い溜息をつき、膝の上に乗せた重厚な『六法全書』の重みに顔をしかめた。高校時代、ボクの授業での定位置は、いつだって一番後ろの、さらに一番隅っこだった。そこなら先生の視線も届かず、心置きなく首をガクガクさせて、昨日の乱取りの疲れを癒やす居眠りに耽ることができたからだ。しかし、今、葛葉さんに細い腕を引かれ、強制的に座らされたのは、教壇の真ん前。教授の唾が飛んできそうなほどの至近距離、センター最前列だった。


「葛葉さん……。一番前はやめようって言っただろ。ボクは不真面目なんだ。講義中、十中八九寝る自信があるし、何よりここ、後ろからの視線が痛すぎる」

「何を仰いますの。法学部の学生たるもの、常に法と正義の最前線に身を置くべきですわ。さあ翔様、背筋を伸ばしてくださいまし。銀髪の貴女が一番前で居眠りなどしたら、この瑞原大学の美的水準と知性の両方が疑われてしまいますわよ!」


講義開始五分前。数百人を収容する巨大な階段教室は、新入生たちの期待と不安が混ざったざわめきに包まれていた。だが、そのざわめきの質は、ボクたちが座った瞬間から明らかに変化した。最前列に並んだ、透き通るような銀髪のボクと、輝くような金髪の葛葉。その視覚的なコントラストは、真面目な法学部の講義室において、およそ現実味を欠いた異様なオーラを放っていた。背後から刺さる無数の視線に耐えきれず、ボクは六法全書を盾にするように立て、顔を半分隠した。一方の葛葉さんは余裕の笑みを浮かべ、高級そうな万年筆を指先で器用に回している。


やがて、白髪の厳格そうな老教授が教壇に現れ、第一回目の「民法」の講義が始まった。


「――民法とは、私法における一般法であり、我々の日常生活の根底を支える契約のルールである……」


教授の枯れた、しかし重みのある声が響き、学生たちが一斉にペンを走らせる音がサラサラと講義室を満たしていく。ボクは開始十分で文字の羅列が呪文に見え始め、意識が遠のきそうになった。だが、その度に隣からの「翔様、ペンが止まっておりますわよ!」という鋭い肘打ちが脇腹を抉り、ボクを現世に引き戻した。


事件が起きたのは、講義が中盤に差し掛かった頃だ。

教授が黒板に複雑な図解を描きながら、権利関係について熱弁を振るい始めた。葛葉さんはこれまでの浮ついた態度が嘘のように、鋭い目付きで黒板を凝視し、美しい筆致でノートを埋めていった。その集中力は凄まじく、彼女の知的な興奮は内側から漏れ出す妖力と混ざり合い、ついに認識阻害の術の限界を超えようとしていた。


ボクは視界の端で「それ」を捉えた。

葛葉さんの金髪の隙間から、ピン、と三角形の白い「耳」が、一瞬だけ突き出したのだ。


(……っ、葛葉さん、耳! 耳が出てるって!)


小声で囁くが、集中モードに入った葛葉さんには届かない。ボクは慌てて自分のノートを彼女の頭の上に掲げ、物理的な目隠しを作った。だが、動揺した彼女の妖力はさらに乱れ、今度はタイトスカートの裾から、ふさふさとした黄金色の尻尾が「ぼんっ!」と勢いよく飛び出し、ボクの脚を激しく叩いた。


「ちょ、葛葉さん、尻尾! 尻尾も隠せ!」

「あ、あああ、申し訳ございませんわ! 講義内容があまりに論理的で素晴らしく、わたくしの正体が喜びで溢れ出してしまいましたわ!」


尻尾はボクの脚にバシバシとまとわりつき、隣の席にまで侵食しそうになる。ボクは必死に身を乗り出し、葛葉さんの背中に腕を回して彼女を無理やり抱き寄せるように密着した。自分の脚と椅子の間に、その巨大な毛玉を挟み込んで隠す。最前列で、銀髪の美少女が金髪の美少女を激しく抱き寄せ、顔を近づけて揉み合っているような、あまりに不自然な姿勢。


当然、講義室中の学生、そして教壇の教授の視線が、ボクたちに釘付けになった。


「……コホン。最前列の君たち」


教授が眼鏡の縁を指で上げ、冷徹な、しかしどこか悪戯っぽい視線をこちらに向けた。講義室が静まり返る。


「熱心に議論しているのか、あるいは親交を深めているのかは知らんが、私の講義はそこまで退屈かな? ……ところで、君。銀髪の彼女」


教授に名指しされ、ボクは葛葉さんの尻尾を必死に太ももで押さえつけたまま、顔を引きつらせて教授を見上げた。


「民法九〇条を知っているかね?」

「……きゅう、じゅう、じょう……ですか?」


ボクは首を傾げた。配られたシラバスか、開きもしていない六法全書にも書いてあるのだろうが、今のボクの脳内には「筋肉」と「猫」と「睡魔」以外の知識は存在していない。


「……いえ、分かりません。何か、柔道の九〇キロ級の投げ技とか、そういう……?」

「ふむ。新入生らしい正直な答えだ。だが、それは柔道の階級ではないよ。九〇条とは、通称『公序良俗』。公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、法律的に無効になる、という決まりだ」


教授はそこで一息つき、講義室全体を見渡して、少しだけ口角を上げた。


「私の講義中に、最前列という特等席で、法学の真理を追究するよりも熱心に、お互いの愛を追究するかのような過剰な密着行為を続けることは……これは法学を学ぶ場における『公序良俗』に著しく反しているとは思わんかね? 君たちの行為そのものが、私の講義を無効にしかねないというわけだ」


講義室中に、クスクスという忍び笑いと、ドッと沸くような笑い声が広がった。背後からは「いいな、あれ……」「最前列で九〇条違反の百合実演とか、瑞原のレベル高すぎだろ……」という、下世話な囁きが潮のように押し寄せてくる。


教授のユーモアたっぷりの皮肉に、ボクは顔面から火が出るどころか、全身が爆発しそうな羞恥心に襲われた。腕の中では、葛葉さんが「翔様に抱きしめられて、わたくしの九〇条(こうじょりょうぞく)が完全に崩壊してしまいましたわ……!」と顔を真っ赤にして蕩けている。


「……す、すみません。彼女、その、いきなり筋肉の痙攣がひどくなったみたいで、ボクが抑えていただけなんです!」

「痙攣ね。それほどまでに私の講義が刺激的だったということにしておこう。……離れたまえ。公的な場であることを自覚し、秩序を守るように」


教授が再び教科書に目を落とすと、ボクはゆっくりと葛葉さんから手を離した。椅子の下に無理やり尻尾を押し込んだ彼女を睨みつけたが、彼女はまだ、ぼーっとした表情で自分の頬を抑えている。


どうやらボクは、普通の大学生活を送るはずが、この法学部の最前列という名の泥沼に、どっぷりと沈み込んでしまったようだ。しかも、公序良俗に反する美少女(?)を抱き抱えたまま。

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