10 フリルと一本背負い
「……飲めって言ってるだろ。新入生の分際で、瑞原の先輩の誘いを断るつもりか?」
リーダー格の男の、余裕をかなぐり捨てた声が耳元で響く。ボクの肩を抱き込もうとするその手は、汗でわずかに湿っており、不快な熱を持っていた。
ボクの隣では、葛葉さんがベチャベチャの唐揚げを「お、お肉の鮮度が死んでいますわ! 救いようがありませんわ!」と喚きながら口に運び、蓮は「……次、それ。度数高いの持ってきて」と、既に五つ目のピッチャーを空にしようとしている。
「……言ったはずだ。ボクは飲まない」
ボクは、差し出されたオレンジ色の液体が入ったコップを、テーブルに静かに、しかし断固とした拒絶を込めて置いた。
かつてのボクなら、ここで胸ぐらを掴んで一喝していただろう。だが今のボクは、ラベンダー色の繊細なレースに包まれた、一見すれば華奢な美少女だ。その外見が、男の征服欲を余計に煽ってしまったらしい。
「あ? なんだよその目は。……お前さ、ちょっと顔がいいからって調子に乗ってんじゃねえぞ。……おい、お前ら。このお嬢様に、うちのサークルの『ルール』ってやつを叩き込んでやれ」
男の合図で、周囲にいた数人の男たちがニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら立ち上がった。窓のないパーティールームの出口には、見張りのように別の男が立つ。空気は一気に冷え込み、欲望が暴力へと形を変える特有の重圧が部屋を満たした。
「……やれやれ。これだからチンピラは」
ボクは深く、長く、溜息を吐き出した。
柔道家にとって、衣類とは「掴むもの」か「投げられるもの」だ。このフリル地獄のワンピースは、そのどちらにも適していない。だが、ボクの脳内の計算は、既にこの部屋の全員の「重心」を捉えていた。
「……触るな、と言ったんだ。その汚い手をどけろ」
男の手が、ボクの銀髪を掴もうと伸びてきた。
その指先がボクの毛先に触れるよりも早く、ボクの身体は「反射」の領域へと踏み込んだ。
「――っ!?」
男の手首を、ボクは左手で電光石火の如く掴み取る。そのまま右足を引き、相手の懐へと深く、深く滑り込んだ。
「……せやぁっ!!」
足で相手の内またを高く蹴り上げる。
内股。
ラベンダー色のシフォンが、満開の桜のように鮮やかに舞い上がった。
ドォォォォォン!! という、およそラグジュアリーなラウンジに相応しくない重量音が響き渡り、リーダー格の男が床に叩きつけられた。受け身も取れない雑魚にはずいぶん痛いだろう。
「な……!?」
「おい、今の動き、なんだ!?」
男たちが凍りつく中、ボクはフリルの乱れを優雅に整え、解けかけたリボンを締め直した。
床で白目を剥く男を一瞥し、次に向かってくる男の懐に飛び込んで、腰を掴んで投げ飛ばす。
払い腰。
体重が足りない今の体でも、チンピラ相手なら簡単に投げ飛ばせた。
「……次は誰だ? 全員まとめてかかってきてもいいぞ。今のボクは、この格好のせいで、かなり機嫌が悪いんだ」
そこからは、もはや「乱闘」ですらなかった。
ボクが動くたびに、繊細なレースの裾が舞い、それと同時に男たちの身体が宙を舞う。
掴もうとする手は関節を決められ、殴りかかろうとする腕は全て流される。足さばき一つで男たちの重心を奪い、コンクリートの床に沈めていく。
ワンピースのフリルは、ボクの動きを隠す目隠しの役目すら果たしていた。かつての巨体では不可能だった、神速の移動。
「ひ……バケモノかよ……っ!」
「……バケモノ? 心外だな。ボクはただの、普通の大学生志望だ。……お前らがボクの夢を壊したんだよ」
五分後。
パーティールームの中には、立ち上がれる男は一人もいなかった。
リーダー格の男から、見張りの男まで。全員が床に転がり、呻き声を上げているか、あるいは静かに眠りについている。
「……終わりましたの? さすがは翔様! あのフリルを舞わせながらの『大外刈り』、わたくしの脳内ディスクに永久保存いたしましたわ! 嗚呼、凛々しすぎて胃もたれしてしまいましたわ!」
「……お前、この格好だとリーチが分かりにくいから、対戦相手からしたらクソゲーだね。……あ、でも酒はまだ飲み足りない。次、どこ行く?」
葛葉さんは満足げにベチャベチャの唐揚げを最後の一口まで完食し、蓮はと言えば、結局一人で十個以上のピッチャーを空にして、平然とした顔で立ち上がった。
「……さて。どうしたもんか、これ」
ボクは、地獄の様相を呈したパーティールームを見渡し、頭を抱えた。
ボクたち以外の女性たちもぐったりしているし、男たちはみんなグロッキーだ。
警察か?大学当局か?どこにかければいいか迷ったボクはスマホを取り出し、連絡先の最上部にある名前に指をかけた。
今のボクが、最も信頼できる「男前」に。
十五分後。
ビルの階下で、一台の落ち着いたセダンが停まった。
ドアが開くと同時に、周囲の空気がピリリと引き締まる。現れたのは、不動明王のような威厳を纏い、しかしその瞳には深い憂慮を湛えた、鬼龍院先輩だった。
「……鈴木くん。無事かい?」
先輩の声を聞いた瞬間、ボクの強張っていた肩の力が、ふっと抜けるのを感じた。
「……会長。すみません、お迎えを頼んでしまって」
「いいんだ。君たちが連れ去られたと聞いて、心臓が止まる思いだったよ。……怪我はないね?」
会長は、ボクのラベンダー色のワンピースに汚れがないことを確認すると、安堵したように長い溜息を吐いた。
それから、ボクの背後に転がっている「SL」の成れの果てをちらりと見やり、それから優しくボクの頭を撫でた。
「……派手にやったようだね。だが、君の誇りを守るための戦いだったなら、私はそれを全面的に支持するよ」
「……はい。……ありがとうございます、先輩」
ボクは、その大きな手の温かさに、脳が茹だるような気恥ずかしさと、確かな安らぎを同時に感じていた。
「翔様、会長! わたくし、今度こそ美味しい唐揚げを食べに行きたいですわ!」
「……賛成。ウチ、次は度数の高い日本酒があるところがいい」
「やれやれ。……澪、この子たちの面倒、よろしく頼むよ。俺はこの『掃除』を終わらせてから行くから」
一緒に来ていた澪先輩に声をかけながら、鬼龍院先輩は冷徹な法学部の目をして、転がっている男たちの個人情報をスマホで記録し始めていた。彼女が「法的」にこのサークルを解体するのは、時間の問題だろう。
ボクたちは澪先輩の車に乗り込み、夕焼けに染まる瑞原の街を走り出した。
「……ボク、やっと分かりました」
後部座席で、葛葉さんと蓮の頭を左右の肩に乗せたまま(二人とも車に乗った瞬間に寝てしまった)、ボクはバックミラー越しに澪先輩の瞳を見つめた。
「ボクが求めていた『普通の大学生』っていうのは、きっと、あんな場所にあるんじゃないんです。……この、騒がしくておかしな人たちと一緒にいる、このサークルの中にあるんだって」
澪先輩は、優しく、そしてこの上なく美しい笑顔を浮かべた。
「そうね。翔くん。貴女を歓迎するわ……ようこそ、現代妖怪研究会へ」
ボクの「普通の大学生」への道は、思っていたよりもずっと険しく、そして思っていたよりもずっと温かいものになりそうだった。
銀髪を風に揺らし、ボクは初めて、このラベンダー色のワンピースが少しだけ、自分に馴染んでいるような気がした。
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