第四話 テニスサークルは危険がいっぱい

9 テニスサークルに勧誘されました

嵐のようなショッピングから一夜明けた、瑞原大学・勧誘期間の最終日。

ボクは一人、アパートの自室で「ズボンルックス」のトラウザーを丁寧にハンガーにかけ、静かに溜息を吐き出した。昨日無理やり適合させられた下着の、慣れないホールド感と肌を撫でるレースの感触が、一晩経っても皮膚の裏側にこびりついている。


(……今日一日は、絶対にお出かけなんてしない。家から一歩も出ないぞ。溜まっていた家事を片付けて、駅前で買った猫缶を吟味して、一人の……そう、一人の静かな大学生としての『普通』を取り戻すんだ)


自分に言い聞かせるようにそう呟いた瞬間だった。


ガチャリ。

施錠していたはずの玄関の鍵が、あまりに滑らかで、あまりに絶望的な音を立てて回った。


ボクは反射的に枕元の六法全書(一番重かったからだ)を掴んで身構えた。泥棒か。あるいは昨日投げ飛ばした男の報復か。武道家としての緊張が走る中、ドアを蹴破る勢いで入ってきたのは、満面の笑みを浮かべた葛葉さんと、無表情にスマホを弄る蓮だった。


「翔様ぁぁぁ! おはようございますわ! 太陽も貴女の美貌を拝むために、わたくしの後ろから昇ってまいりましたわよ!」

「……ウチも来た。お前、いつまで寝てるの。もう昼だよ、昼。マップの更新時間過ぎてる」


ボクは呆然としながら、二人の手元……正確には葛葉さんが右手の指先でくるくると回している、真新しい銀色の鍵を見つめた。


「……葛葉さん。それ、何。なんでボクの家の鍵を持ってるの。ボクは貸した覚えも、預けた覚えもないんだけど」

「何って、翔様の合鍵ですわ! 昨日、貴女が試着室で悶絶して意識を飛ばしている隙に、バッグからこっそりお借りして駅前の合鍵屋で型を取らせていただきましたの。パートナーとして、非常時に駆けつけられないなどあってはならないことですもの。当然の『配慮』ですわ!」

「それは世間一般では『不法侵入の準備』って言うんだよ! 今すぐ返せ、というか怖すぎるだろ、その行動力!」


ボクの抗議など、葛葉さんの「愛」という名の暴走の前では、羽虫の羽ばたきにも等しい。彼女は「さあ、今日という記念すべき日に相応しい、あの『聖衣』を纏うのですわ!」と叫び、蓮と結託してボクをベッドへと追い詰めた。

結局、抗う術はなく、ボクは昨日買ったばかりの例のラベンダー色の多層フリルワンピースへと押し込められた。銀髪を丁寧にハーフアップにされ、同じく昨日買わされた最低限の化粧品(といっても5つも6つもあった)で化粧されれう。鏡の中にはどこからどう見ても、一ミリの隙もない「どこぞのお人形さんのような美少女」が立っていた。

葛葉さんは、非の打ち所がない名門令嬢風の紺色のアンサンブル。蓮はダボッとしたオーバーサイズのスタジャンにハーフパンツ。三人が連れ立って歩くと、まるで何かのファッション誌の撮影現場かと思われるほどに、華奢な美少女三人のアンバランスな調和が生まれていた。


小柄な二人(中身は人外だが)に両脇を固められ、ボクは晒し者のような気分で、人で溢れかえるキャンパスへと連行された。瑞原大学のメインストリートは、勧誘最終日ということもあって、熱気と喧騒が昨日以上に渦巻いている。だが、その中でもボクたちの周りだけは、モーゼの十戒のように道が開けていく。昨日までのジャージ姿とは訳が違う。すれ違う男たちが露骨に足を止め、女子学生たちが「あの子、どこのお嬢様?」「芸能人?」と囁き合う声が聞こえるたびに、ボクは内股で震えながら、いっそ一本背負いで地面を割って自分が埋まりたい気分になった。


「……ねえ、君たち。新入生だよね?」


声をかけてきたのは、白いポロシャツを爽やかに着こなし、日に焼けた肌に白い歯を輝かせる、いかにも「デキる大学生」という風貌の男だった。背後には似たような雰囲気の男たちが数人、余裕のある笑みを浮かべて控えている。


「俺たち、インカレ・テニスサークル『スーパー・リベラル』。略して『SL』って呼ばれてるんだ。……君たちみたいな、かわいい子たちが見つかるなんて、今日はツイてるな。瑞原のトップ層が集まるサークルなんだけど、今から歓迎ランチパーティーに行かない?」


男の笑顔は完璧で、勧誘に不慣れな新入生ならコロリと騙されてしまいそうな清潔感に溢れていた。


「テニスサークル! 自由を謳歌する名前ですのね! 翔様、これぞ王道の大学生ライフではありませんか!」

「……タダ飯食えるなら、いいよ。……ちょうどお腹空いてたし。ここのサークル、設備(ハードウェア)にお金かけてなさそうだしね」


世間知らずなお嬢様の葛葉さんと、食料という報酬に釣られた蓮が、あっさりと男の誘いに乗ってしまった。


「そうそう、自由がモットーなんだ。駅前の個室ラウンジを貸し切ってるんだよ。さあ、行こうか」


男たちのエスコートはあまりにも手慣れていた。ボクが口を挟む暇もなく、いつの間にかボクたちはキャンパスの喧騒を離れ、駅近くの雑居ビルへと誘導されていた。


案内されたのは、お洒落な内装を装った、しかし窓のないパーティールームだった。一歩足を踏みいた瞬間、ボクは反射的に顔をしかめた。

昼間だというのに薄暗く、重低音の音楽がズンズンと床を震わせている。空気中には、安っぽいアルコールのツンとした匂いと、タバコの煙。かつて柔道部の打ち上げで嗅いだ、あの清潔な熱気とは対極にある、欲望が腐ったような澱んだ匂いが漂っていた。


「さあさあ、座って! 新入生を歓迎する日だから、全部タダだよ! 遠慮しないで!」


ボクたちは部屋の奥、沈み込むような革張りのソファーへと誘導された。テーブルの上には、ラベルの剥がされたピッチャーや、色のついた怪しい液体が入ったコップ。そして、大皿に盛られた茶色い揚げ物が並んでいた。


「わたくし、お腹が空きましたわ!」


葛葉さんは着席するなり、お嬢様な見た目に反して猛然と唐揚げに箸を伸ばした。そして一口食べるなり、顔を露骨に歪めて吐き捨てるように言った。


「……何かしら、このお肉。衣はベチャベチャ、油は三日前の使い回しのような酸化した悪臭……! まずいですわ! 瑞原の学生ともあろう者が、このような低俗な餌を客人に供するなんて……! 信じられませんわ! ですが、空腹には代えられませんわね!」


そう言いながら、彼女は文句を言い続けつつも、凄まじい速度で唐揚げを胃袋に収めていく。そのギャップの激しさに、周囲の先輩たちが引きつった笑いを浮かべていた。


一方、蓮はと言えば、渡された怪しいカクテルのコップを一瞥するなり、一気に飲み干した。


「……薄い。これ、ほぼ水じゃん。効率悪い。……ねえ、そっちのピッチャー、まるごとちょうだい」


彼女は差し出されたビールやハイボールが混ざったような得体の知れない酒を、まるで喉が渇いた蛇のように、一切の表情を変えずに流し込んでいく。


「……ん、まあまあ。……ウチ、こういうの、前世や実家でいくらでも飲まされたから。……もっと強いのないの?」


底なしの酒量。まるでお化けの「蟒蛇(うわばみ)」の化身か、あるいはそのハーフかと疑いたくなるほどの飲みっぷりに、新入生を潰そうと目論んでいた男たちの顔色が、逆に青ざめていく。


だが、男たちの目的は変わらなかった。


「はは、元気だね……。でも、こっちの銀髪の君。君も飲まないと。……ほら、特製のオレンジカクテルだよ。これ飲んだら、もっと楽しくなれるからさ」


リーダー格の男が、ボクの隣にどっかと腰を下ろした。その腕が、ボクのワンピースの白いフリルに、無遠慮に伸びてくる。


「遠慮しないでよ。瑞原の先輩の言うことは、絶対なんだからさ……」


周囲を見渡せば、同じように連れてこられた数人の女子学生たちが、既に虚ろな目で笑い、身体を預けてしまっている。酒の度数を上げるか、何かを混ぜたのかは分からないが、不穏な空気は最高潮に達していた。


「普通の大学生生活」という青写真が、ボクの足元でガラガラと音を立てて崩れていく。

だが、代わりにボクの指先は、自然と「掴む」ための、鋼のような形へと固まっていた。

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