8 ファッションショーなんて柄じゃない
下着フロアという名の「精神的死地」を脱したボクの足取りは、生まれたての小鹿のように覚束なかった。
一九〇センチの巨躯を誇る鬼龍院先輩が、パステルピンクの、あろうことかリボンまで付いた紙袋を平然と持っている。そのあまりにもシュールな光景に、ボクは申し訳なさと羞恥心で、今すぐこのフロアのタイルに一本背負いを決めて自分ごと埋まりたい気分だった。
だが、そんなボクの絶望を余所に、女子陣のボルテージは最高潮に達していた。
「さあ、内装(インフラ)は整ったわ。次は外装、つまり『瑞原大学の学生』としてのガワを完成させるわよ、翔くん」
「翔様! わたくし、貴女をこの世で最も尊い『芸術』へと昇華させて差し上げますわ!」
澪先輩と葛葉さんに両脇を固められ、ボクは一般アパレルフロアへと引きずり込まれた。そこは、これまでのボクの人生において「掴みやすさ」や「破れにくさ」だけで選んできた衣類とは、全く別の理屈で構成された戦場だった。
「……鈴木くん。大丈夫かい? 少し顔色が悪いようだが」
鬼龍院先輩が、ボクの歩調に合わせてゆっくりと歩きながら、心配そうに覗き込んできた。その低く落ち着いた声は、狂乱の下着選びで逆立っていたボクの神経を、不思議と穏やかに撫でてくれる。
「……すみません、会長。ボク、こういう場所には慣れていなくて。……普通の大学生って、服を買うだけでこんなに魂を削るものなんですかね」
「はは……。まあ、初めは誰でも戸惑うものさ。……そうだ、あそこの店を覗いてみないか?」
先輩が指差したのは、他の店のような極彩色のディスプレイではなく、落ち着いたネイビーと白を基調とした、シンプルで上質な雰囲気のセレクトショップだった。
「……店員さん。あのマネキンが着ている、センタープレスのワイドトラウザーと、ハリのある白いバンドカラーシャツを。……彼女のサイズでお願いできるかな」
先輩が選んだのは、ボクがこれまで「女子の服」として恐れていたひらひらした代物ではなく、凛としたシルエットのズボンルックスだった。
渡された服を抱え、ボクは逃げ込むように試着室へと入る。
シャツに袖を通し、ボタンを一番上まで丁寧に留める。そして、すとんと落ちるようなラインの紺のパンツを履く。鏡の前に立ったボクは、思わず小さく息を漏らした。
(……これだ。これなら、ボクでも戦える)
女性らしい曲線はありながらも、武道家としての凛々しさを損なわないスタイル。何より、足さばきが良い。これなら急に背後から襲われても、即座に大外刈りを叩き込める。
試着室のカーテンを開けると、待ち構えていた四人から「おお……」という感嘆の声が上がった。
「……鈴木くん、やはりよく似合う。君の持つ静かな強さと、銀髪の清廉さが、そのシンプルな装いでより際立っているよ」
鬼龍院先輩が、満足そうに頷く。その真っ直ぐな称賛に、ボクは少しだけ、誇らしいような、くすぐったいような気分になった。
「……ありがとうございます、会長。これならボク、胸を張ってキャンパスを歩けそうです」
そう。ここで止めておけば、ボクの大学生活は「凛々しいイケメン女子」という、非常に安全なルートで確定していたはずだった。
「……待った。それだけじゃ、少し『攻撃力』が足りない」
それまでポテトチップスを咀嚼しながら無表情に眺めていた蓮が、スッと手を上げた。
「会長のは、確かに完璧。……でも、普段使いにはもう少し『バグ』というか、遊びが必要。……お前、元男だし中性的な方が、キャラデザが安定する」
蓮が隣のストリート系ショップから持ってきたのは、オーバーサイズの黒いパーカーと、膝上丈のカーゴハーフパンツだった。
「ほら、次。これ、ユニセックスモデルだから。……お前のその細い手足を、あえて太いシルエットで隠すのが、今のトレンド。……ポケットも多いよ」
再び試着室へ。
……ああ、これはさらに落ち着く。ダボッとしたパーカーは、ボクの「女になってしまった体」を物理的に隠してくれるような安心感があった。ハーフパンツも、柔道の稽古着のズボンを短くしたような感覚で、とにかく動きやすい。
「……これ、いいな。落ち着くよ。フードを被れば銀髪も隠せるし」
「ダメですわ! それでは翔様の『華』が隠れてしまいます! ただの引きこもりゲーマー二号ですわ!」
「二号って言うな」
「でも、蓮の選んだのも悪くないわね。……ただ、これだと大学のラウンジじゃなくて、秋葉原のゲーセンに馴染んじゃうわ」
澪先輩が腕を組んで、ボクを品定めするように見つめる。その目は、早くも次の「標的」を定めていた。
「だからこれにしましょう。大学のキャンパスで浮かない、一番『瑞原の女子大生』らしい格好よ」
澪先輩が差し出したのは、タイトなリブニットに、流行りのプリーツロングスカートだった。
ボクは思わず一歩後退した。スカート。それは、ボクの「普通の大学生」という概念において、最も警戒すべき構造体だ。
「……澪先輩。これ、スカートですよね」
「そうよ。女の子がスカート履いて何が悪いの。ほら、あんたのその締まったウエストと、意外とボリュームのあるヒップラインを活かさない手はないわ」
無理やり試着室に押し込まれ、着替えさせられる。
……なんだ、これ。足元が、スースーする。
柔道着のズボンに慣れきったボクにとって、スカートというものは「無防備さの極み」に他ならない。一歩歩くたびに、裾から入り込む空気が、ボクの武道家としての警戒心を激しく刺激する。
「……澪先輩。これ、足払いを防げませんし、不用意に蹴りを出したら、全部見えます」
「だから! 誰が大学で蹴りを出してくるのよ! ほら、もっと胸を張って! ……あら、悔しいけど、本当にスタイルがいいわね……」
鏡の中の自分は、先ほどまでの凛々しさが霧散し、どこにでもいる「少し垢抜けた、けれどどこか自信なさげな美少女」になっていた。
蓮がスマホでボクを撮影し、無表情に親指を立てる。
「……バフ成功。……お前、自覚ないだろうけど、その『嫌がってる顔』自体がボーナスポイント高いよ」
そして。
ボクの「普通の大学生」という概念に、とどめを刺す者が現れた。
「……お待たせいたしましたわああああ!」
猛烈な勢いでフロアの奥から駆けてきた葛葉さんが抱えていたのは、もはや服というより、フリルとレースの多層構造体だった。
「見てくださいまし! この何層にも重なったシフォン! この精緻な刺繍! これこそが、わたくしの夢、わたくしの希望、わたくしの魂が求めた『翔様・完全体』ですわ!」
「待て、葛葉さん。それは……流石に、やりすぎだろ。ボクはコスプレをしに来たんじゃないんだ」
ボクは本能的な恐怖を感じて一歩下がった。
だが、今のボクの両脇には、逃げ道を塞ぐように澪先輩と蓮が立っている。
「いいじゃない、翔くん。一回くらい、こういう『お人形さん』みたいな格好も経験しておくべきよ。自分を知るためにもね」
「……限定イベントだと思えば、耐えられる。……ウチも、これが一番『バズる』と思う」
「いやだ! ボクは! ボクは普通の――!」
――十分後。
試着室のカーテンが、葛葉さんの震える手によって開け放たれた。
「…………ああ……」
葛葉さんがその場に膝をつき、祈るように手を組んだ。
鏡の中にいたのは、銀髪をふんわりとハーフアップにされ、贅沢なレースがあしらわれたラベンダー色のワンピースに身を包んだ、正体不明の美少女だった。
襟元には小さなリボン。袖口には繊細なフリル。そして、幾重にも重なったスカートの裾は、ボクが動くたびに、ふわふわと甘い花のように揺れる。
「……なんだ、これ」
ボクは、自分の声が少し震えているのに気づいた。
かつてのボクを知る誰かがこれを見たら、間違いなく腹を抱えて笑うだろう。あるいは、あまりの変わりように絶叫するかもしれない。
だが、目の前の四人の反応は、それとは全く違うものだった。
「……素晴らしい。鈴木くん、君は……自分では気づいていないかもしれないが、どんな装いも自分のものにしてしまうんだね。……とても、綺麗だ」
「翔様ぁ……! わたくし、もう死んでも構いませんわ! 今の貴女は、瑞原大学の全ての学生を跪かせる、真の女神ですわ!」
「……撮影完了。……これ、ギルドの掲示板に上げたらサーバー落ちるレベル。……買い、だね」
結局。
ボクはその後も、「そのままの方が買い物がスムーズよ」という澪先輩の謎の論理と、「着替える時間が勿体ない」という蓮の効率主義、そして葛葉さんの猛烈な懇願に負け、その「フリル地獄のワンピース」姿のまま、ショッピングを続行する羽目になった。
一九〇センチの鬼の会長が、ピンク色の下着袋を持ち、その隣を、お人形さんのような格好をした元・重量級のボクが、内股で、羞恥心に震えながら歩く。
ボクの足元には、先ほど「適合」してしまった下着の、慣れないホールド感が確かに存在していた。
(……ボクの目指していた『普通の大学生生活』って、一体なんだっけ……)
ボクは膝まで隠すフリルの重みを感じながら、遠い目をして、エスカレーターを登っていった。
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