7 ランジェリー・ウォーズ、あるいは計測という名の試練

 駅ビルのファッションフロア。

 そこは、かつて畳の上で汗を流し、野良猫と戯れることを至上の安らぎとしていたボクにとって、完全に未知の……あるいは、あってはならない「異界」だった。

 目に刺さるようなパステルピンクの照明。鼻腔をくすぐる甘ったるいサボンの残り香。そして何より、四方八方を埋め尽くすフリル、レース、リボンの洪水。

 ボクがこれまで「普通」だと思って守ってきた世界が、いかに無骨で色気のないものだったかを、この空間は無言のうちに突きつけてくる。


「……あの、ボクはやっぱり、下のフロアのスポーツ用品店で適当なサポーターでも買えば十分なんじゃ――」

「逃がさないわよ。基礎ができていない建物は、どんなに外壁を飾っても崩れるわ。まずは土台、つまり下着から。これが普通の大学生としての、最低限のインフラ整備よ、翔くん」


 澪先輩が、逃げようとするボクの肩を、柔道の「襟持ち」のごとき正確さで掴んで固定する。


「翔様! わたくし、昨晩から翔様のアンダーとトップの黄金比を夢想して、知恵熱が出るかと思いましたわ! さあ、今日はその正解をこの眼で……いえ、この全身で受け止める覚悟ですわ!」

「葛葉さん、目が怖いよ! あと、全身で受け止めようとするな!」


 一方で、この華やかなフロアにおいて、最も「場違い」な存在が一人。


「…………」


 鬼龍院剛毅。一九〇センチの巨躯を誇る「鬼」の先輩は、仕立ての良い三つ揃えのスーツに身を包み、繊細なランジェリーフロアの入り口で、まるでガラス細工の店に迷い込んだ重戦車のように固まっていた。


「……すまない、鈴木くん。さすがに私は、この区画の入り口で待機させてもらうよ。これ以上進むと、私の『鬼としての徳』が不審者通報という最悪の形で試されることになりかねないからね」

「あ、待ってください会長! ボクもそっちに――!」

「ダメですわ翔様! 会長は荷物持ち、わたくしたちは指導役。……さあ、参りましょう、聖域(フィッティング)へ!」


 無情にも葛葉さんに引き戻され、ボクはレディース下着の深淵へと引きずり込まれた。






「いらっしゃいませ。採寸をご希望でしょうか?」

「ええ。この子に合う、一番『機能的』で『映える』やつをお願い」


 澪先輩の淀みない依頼により、ボクは店員さんに促されるまま、カーテンで仕切られた狭い試着室へと押し込まれた。

 壁は全面鏡張り。そこに映るのは、澪先輩から借りた、少しサイズの大きなダサいジャージを着た、自分でもなかなか見慣れない銀髪の美少女だ。


「失礼しますね。……まずはアンダーから測らせていただきます」


 店員さんの冷たいメジャーがボクの肌に回される。

 その瞬間、店員さんの動きがピタリと止まった。


「……あら?」

「……何か、変ですか?」


 ボクが不安になって尋ねると、店員さんはメジャーを二度、三度と当て直し、驚きを含んだ声を漏らした。


「いえ……その、驚きました。お客様、失礼ながら……もの凄くスタイルが良いのですね」

「なんですって!?」


 カーテンの外から、葛葉さんが獲物を見つけた獣のような声を上げた。


「お客様、アンダーバストが信じられないほど引き締まっているのに、トップにはしっかりとしたボリュームがあって……。それに、このウエストのくびれ。……これまでたくさんのお客様を見てきましたが、ここまで絵に描いたような砂時計型(アワーグラス)のラインの方は、滅多にいらっしゃいませんよ」


 店員さんの感嘆の声に、ボクは改めて鏡の中の自分を直視した。

 元・重量級の体格だった頃の広背筋や腹筋は、妖怪の治療によって「しなやかで細い筋肉」へと再構成されている。その結果、腰回りは驚くほど細く締まっているのに、骨格のバランスゆえか、胸と、そして柔道の激しい足さばきで鍛えられた「尻」には、抗いようのない重みと丸みがあった。


「お客様、失礼ですが……ヒップの方も測らせてください。……うわ、やはり。このウエストの細さでこのヒップのボリュームは、既製品のセットアップだとサイズが上下で分かれるかもしれませんね。……素晴らしいポテンシャルです」

「ポテンシャルとか、そういうのはいいんです……。普通の、普通の大学生が着るやつを……」

「翔様! 聞こえておりますわよ! 店員さんも認めるそのダイナマイトな造形! ああ、神の仕業とはいえ、あまりにも尊いですわ! そのポテンシャル、わたくしが今すぐ開花させて差し上げます!」

「いや、妖怪の仕業だし、変なもの開花させないでほしいんだけど」


 そんなつぶやきは誰にも考慮されることなく中空へと消えていった。




 測定が終わると、次はさらに過酷な「ショーツ選び」が始まった。

 ボクがこれまで履いてきたのは、綿一〇〇パーセントで「ホールド感」だけを追求したメンズのボクサーパンツだ。だが、今ボクの目の前に並んでいるのは、布面積という概念を疑いたくなるような代物ばかりだった。


「……ねえ、これ。ほとんど紐(ひも)じゃないか? これじゃ何も隠せないだろ」

「何を言ってるのよ、翔くん。これは『隠す』ためのものじゃなくて、『見せる』ためのシルエットを作るものなのよ」


 澪先輩が、涼しげな顔をして手のひらサイズのレースを持ち上げる。


「見てください、翔様! こちらの『ストリング・バタフライ』! 横が紐ですわ! 翔様の豊かなヒップラインを、このわずかな糸だけで支えるという背徳感……! これこそが普通の大学生(わたくしの願望)に相応しい逸品ですわ!」

「葛葉さん、落ち着け! それはもう服じゃなくてただの縄だろ! ボクは普通の、普通の大学生生活を送りたいんだ。……こんな、透けたり紐だったりするやつは『普通』じゃないだろ!」

「いいえ、翔様! 中身がこれだけ完璧なのですから、器も相応の攻撃力を持つべきですわ! ほら、この真っ赤なレース……! 銀髪とのコントラストが絶景ですわ!」


「ウチはこっちの、ハイレグ気味のやつがいいと思う。……翔は脚長いし、動きやすさ重視ならカットが深い方がバフかかるでしょ」


 蓮が淡々と、しかし確実に面積の少ない一着を勧めてくる。


「だから! バフとか攻撃力とか、下着に求めてないから!」


 結局、ボクはそのまま店内の個室で、澪先輩たちに「今すぐ履き替えなさい!」と強制執行を受ける羽目になった。

 ボクの抵抗など、三人の女子の「身だしなみに対する正義感」の前では、枯れ葉のように無力だったのだ。





 ――数分後。

 ボクは、借り物である澪先輩のジャージを再び羽織り、試着室から這い出してきた。


「……お、お待たせしました」

「あら、翔くん。どう? 感触は」


 待ち構えていた澪先輩が、品定めするようにボクを上から下まで眺める。ボクは顔が火照るのを感じながら、不自然に腕を組んで、ジャージの前をきつく合わせた。


 ……正直に言って、屈辱だった。

 だが、それ以上にボクを困惑させたのは、その「異常なまでの適合感」だった。


(……なんだ、これ。……信じられないくらい、動きやすい)


 これまでノーブラで過ごしていた時は、動くたびに胸の重みに重心を削られるような、落ち着かない感覚があった。だが、今、澪先輩が選んだワイヤー入りの器は、ボクの「重み」を完璧にホールドし、体幹のブレを最小限に抑えている。

 肩に食い込むストラップの感触も、柔道着の襟を掴まれているような不快感ではなく、むしろ全身の筋肉が正しい位置に固定されているような、アスリート的な安定感さえあった。


 さらに、下半身。

 長年愛用してきたメンズのボクサーパンツは、布が余ってゴワついていた。だが、今履いているこの「清楚な見た目のくせにハイテク素材らしい」ショーツは、驚くほど肌に吸い付き、足さばきを一切邪魔しない。


「……悔しいけど、フィット感だけは認めざるを得ないな。……なんか、帯を締め直した時みたいな、変な安定感がある」

「そうでしょ? あんた、スタイルが良すぎるから、ちゃんと支えてあげないと重心がバグるのよ。普通の女子大生っていうのはね、そういう見えないところの調整も完璧にするものなの」


 澪先輩が満足そうに頷く。一方で、葛葉さんはボクの様子を見て、床に膝をつきそうな勢いで拝み始めていた。


「ああ……! ジャージの隙間から微かに覗く、その可憐なストラップ! 翔様、今の貴女はまさに歩く聖域ですわ!」

「……もう何も言わないよ」



 ボクたちはようやく、フロアの入り口で待つ鬼龍院先輩のもとへ戻った。

 先輩は、通り過ぎる女子大学生たちからの視線に耐え忍びながら、不動明王のような威厳でそこに立っていた。


「……お待たせしました、会長」

「ああ、終わったかい。……おや」


 鬼龍院先輩の目が、ボクを捉えた。

 彼は何も言わずにボクを見つめ、それから優しく目を細めた。


「……鈴木くん。何というか、その。……姿勢が良くなったね。より凛々しくなったというか、本来の君の美しさが、より自然に引き立っているように見えるよ」

「…………っ!」


 一九〇センチの男前の鬼に、そんな風にさらりと「凛々しい」「美しい」と言われるのは、下着を選んでいる時とはまた別種の、脳が茹だるような気恥ずかしさがあった。


「……服が、中身に馴染んだだけですよ。……行きましょう。次は外側の服、ですよね?」

「ああ。君に似合う『普通の大学生』らしい服を、みんなで選ぼう」


 会長がボクの手から、およそ彼には似合わない「パステルピンクの袋」を預かってくれる。その中には、脱ぎたてのボクサーパンツと、今着ているものと同じ形の下着が数セット、あとは葛葉さんがどさくさに紛れて忍ばせた勝負下着が入っている。


 ボクは胸のあたりに感じる、初めての「支えられている感覚」に戸惑いながら、一歩一歩、普通の大学生としての階段を、重い足取りと軽い重心で登り始めた。

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