第三話 翔のファッションショー
6 自宅への侵略者
「よし、これで正式に入部手続きは完了だ。今日から君たちは『現代妖怪研究会』、通称・現妖研の立派な仲間だ」
鬼龍院先輩が満足そうに書類をホルダーにまとめ、春の柔らかな陽光の下でサークルの解散を告げた。
ボクはその瞬間、心の底から安堵の息を吐き出した。ようやく解放される。
この数日間、ボクの身の回りではあまりに多くの「非日常」が起きすぎた。目的はただ一つ、アパートに帰って昨日からの泥のような疲れを熱いシャワーで洗い流し、誰にも邪魔されない一人の時間を取り戻すこと。そして、今の自分のスペック……この華奢すぎる指先や、細くなった腕を眺めながら、今後の「普通の大学生」としての戦略を練り直すことだ。
ボクは誰にも呼び止められないよう、最短距離で校門を目指して踵を返した。
だが、三歩も歩かないうちに、背後に凄まじい「圧」を感じて足が止まる。それは武道家としての直感というより、生存本能が告げる警報に近かった。
「……あの、皆さん。解散って言いましたよね? ボク、今日はもう帰るんですけど」
「ええ、言ったわ。サークルの『活動』は解散。でも、プライベートの『鈴木翔・生活再建委員会』は今から始動よ」
澪先輩が、至極当然といった涼しげな顔でボクの隣に並んだ。その横には、なぜか鼻から「ふしゅー」と熱い息を漏らし、「翔様のお家! わたくし、昨晩から間取りと家具の配置を百パターン予想して一睡もできませんでしたわ!」と目を血走らせる葛葉さん。さらには「ウチ、未知のマップの開拓は好きだから。あ、これ新作のコンソメ味ね」と、ポテトチップスの袋を小脇に抱えた蓮までが当然のように付いてきている。
「いや、来るな。本当に来るな。ボクの家には何もないし、もてなす茶菓子一つ置いてないから」
「何もないのが問題なのよ、翔くん。その格好……正直、貸した私の方の情緒が不安定になるわ」
「すまないね、鈴木くん。彼女たちが一度言い出したら聞かなくてね。私も、君が一人暮らしで不自由していないか、先輩として少し心配なのだよ」
鬼龍院先輩までが、まるで娘を嫁に出す父親のような、慈愛と憂慮が入り混じった目でそう言った。……あの巨躯でそんな顔をされると、邪険に追い返すのも気が引ける。ボクは半ば諦め、四人を引き連れて大学から徒歩数分の場所にあるアパートへと向かった。
アパートは、元・重量級の体格に合わせて選んだ、単身者用にしては広めのワンルームだった。かつて一〇〇キロを超えていた頃のボクが、狭い部屋で壁を抜かないように選んだ場所だ。
だが、今のボクがそのドアを開け、「……一応、ただいま」と呟くより早く、彼女たちは怒涛の勢いで『攻略』を開始した。
「いざ、尋常に捜索開始ですわ! 翔様が隠し持っているはずの不浄な本はどこですの!?」
葛葉さんは靴を脱ぎ捨てるなり、一直線にベッドの下へとスライディングで潜り込んだ。
恐ろしいことに、彼女の片手にはいつの間にか『狐耳巫女さんのいけないご奉仕』という、見るからにピンク色の過激な表紙の同人誌が握られている。ちらっと見えた表紙の着崩した女の子は葛葉さんとそっくりだ。
「おい、何を……! その手に持ってる物騒なものは何だ!」
「見つけ次第、わたくしへの信仰(エロス)が高まるこの『聖書』とすり替えて差し上げますわ! ああ、翔様の煩悩がわたくし一色に染まる……まさに最高ですわ!」
葛葉さんが「埃も翔様の成分……!」と床を這い回る一方で、蓮はボクのデスクにあるPCの前に陣取っていた。首にかけたヘッドセットを装着し、指先が機械的な速度で動き始める。
「……このパスワード、誕生日? 単純すぎて秒で抜けたよ。……さて、秘匿ディレクトリの解析を開始」
「ハッキングするな! っていうか勝手に見るな、プライバシーの侵害だろ!」
「ウチにプライバシーを求めても無駄。ネットの海は繋がってるから。……ん、この『極秘』フォルダ……。期待して損した。中身は格闘技の世界選手権の試合動画ばっかり。バグかよ、エッチなデータの一枚も入ってないじゃん」
健全な男子大学生は大量のエッチなデータを持ってるって聞いたのに。そんなことをつぶやきながら蓮が心底つまらなそうにキーボードを叩く横で、澪先輩は洗面所を検分していた。棚を開け中身を確認しては溜息をついている。
「……終わってるわね、翔くん。化粧水どころか、まともな洗顔料すらないじゃない。……ちょっと、これ何よ。ウチの実家の古い神社の手洗い場にあるような、無骨な石鹸一個じゃない。あんたこれ一つで頭から足の先まで洗ってるわけ?」
「石鹸があれば十分だろ。汚れは落ちるんだ。そもそもボクは普通の人間なんだぞ、過剰なケアなんて必要ない」
「今のあんたはただの女の子で!女の子の肌は石鹸一つじゃダメなぐらい繊細なの!!」
澪先輩に怒られた。解せぬ。
女子陣が勝手気ままに聖域を蹂躙する中、唯一、鬼龍院先輩だけは台所に立ち、冷蔵庫を開けていた。
「ほう……。これは驚いた。鈴木くん、君は自炊を完璧にこなしているのだな」
会長が見つめていたのは、ボクが几帳面に作り置きしていた煮物や、丁寧に下処理された鶏胸肉の低温調理パックだった。アスリートとして、減量と増量を繰り返していた頃の食事管理は、今でもボクの血肉となっている習慣だ。
「野菜のカットも正確だ。栄養バランスも考えられている。……素晴らしい。君は女子大生というより、立派なアスリートの食卓だね。感服したよ」
「ありがとうございます。……って、感心してないで会長、彼女たちを止めてください!」
「それは……無理だね」
ボクの助けを鬼龍院先輩があきらめの表情で答えたその時、澪先輩がクローゼットの引き出しをガバッと開け放った。
「……ちょっと、翔くん。これ、何よ」
「何って、ボクの下着だろ」
そこには、ボクが以前から愛用している、綿一〇〇パーセントで通気性抜群の『メンズ用ボクサーパンツ』が、几帳面に、角を揃えて畳まれて並んでいた。黒のみ。色彩の欠片もないストイックな光景だ。
「……翔くん」
「な、何だよ。文句あるか」
「……ブラジャーは? 女の子の、その胸を支えるアレは一つもないの?」
澪先輩の問いに、ボクは首を傾げた。
「アレ? ……必要か? 前のボクなら大胸筋を支える必要なんてなかったし、今の体もそこまで邪魔じゃないだろ。Tシャツ一枚で十分だ」
「邪魔とかそういう次元の話じゃないのよ! あんた、昨日からずっとノーブラで、しかもメンズのパンツ履いて、ダサいTシャツで名門大学に通おうとしてたわけ!?」
澪先輩が頭を押さえてよろめいた。葛葉さんは「翔様の無防備な……ああ、素晴らしい……でも、重力で垂れてしまっては由々しき事態ですわ!」と、すり替え用の本を握りしめたままパニックになり、蓮は無表情にスマホを叩いてショッピングサイトのランキングをチェックし始めた。
「……決定。今から買い物に行くよ」
「賛成! 翔くん、あんたを今すぐ『まともな女子』に叩き直すわよ!」
「わたくしにお任せください! 翔様の全てを優しく、かつ官能的に包み込む、最高にエロ……いえ、気高き一着を選んで差し上げますわ!」
「おい、待て! ボクの意見は――!」
ボクの抗議は、三人の女子たちの「義務感」という名の猛烈な旋風にかき消された。
鬼龍院先輩は「……まあ、いい機会かもしれないね。君の安全と尊厳のためだ」と、苦笑しながら荷物持ち用のサブバッグを手に取っている。
こうして、ボクの「普通の大学生ライフ」への第一歩は、誇り高きアスリートのプライドをズタズタにする、屈辱の下着選びから始まることになったのである。
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