第二話 3人目の新入生
4 それは春風とともに
翌日。新学期に向けて必要な書類提出を終えたボクは、気づけば再び、あの中庭へと足を向けていた。
キャンパス内の新入生の勧誘の喧騒が激化し、メガホンや音楽が鳴り響くメインストリートを抜けるのは、昨日以上に骨が折れる。さらに不躾な目線が向けられるのはどうも慣れない。銀髪が目立つのはわかるが、少々うんざりしてしまう。
(……別に、あのサークルに未練があるわけじゃない。うるさいのが苦手だし、猫が、そう。昨日撫でたあの猫が、ボクを待っているような気がしただけだ)
そんな、誰に聞かせるわけでもない言い訳を、必死に脳内で繰り返す。
だが、レンガ造りの旧校舎の影に入り、一本桜の枝先が見えてくると、不思議と気持ちが軽くなる気がした。
「ああっ、翔様! わたくしの魂の叫びが、ついに貴女を呼び寄せたのですわね! ああ、今日の銀髪も太陽の光を浴びて神々しいほどに……っ!」
気持ちが軽くなるといったな。あれは嘘だ。面倒なのに絡まれたという気持ちしか浮かばない。
ブースの前に辿り着くや否や、金髪を振り乱した葛葉さんが猛烈な勢いで突っ込んできた。
ボクはそれを無造作に、しかし的確に右手で制止する。葛葉さんの額がボクの手のひらにむにゅっと当たり、彼女は「ああん、この拒絶さえも慈愛に満ちて……!」と頬を染めた。……相変わらず、この子の情緒は理解不能だ。
「葛葉さん、うるさいよ。少しは落ち着いて」
「落ち着けるはずがありませんわ! 愛する翔様が、昨日言った『結婚』という名の婚姻届を書きにきてくださったと思えば……!」
「そんな話は一ミリもしてないし、書きにきてもいないし、そもそも結婚と婚姻届け意味がかぶってるから」
ボクは溜息をつきながら葛葉さんをぞんざいに退けると、足元に寄ってきた三毛猫をひょいと抱き上げた。
やはりこれだ。この毛並み、この喉を鳴らす音。これこそが、ボクが求めていた大学生活のオアシスだ。
「あら、翔くん。いらっしゃい。今日もありがとうね」
パイプ椅子に深く腰掛け、文庫本を片手に涼しげな顔をしている澪先輩が、薄く笑いながらボクを見た。
「あの……お邪魔でしたか?」
「まさか。ここは見ての通り、暇だけは売るほどあるから」
澪先輩が視線を向けた先には、昨日と同じように誰もいないブースがあった。他のサークルは一人でも多くの新入生を確保しようと必死だというのに、ここは時間が止まっているかのようだ。
「おや、鈴木くん。今日も来てくれたのか」
背後から、ボクの全身を覆うような巨大な影が差した。
振り返らなくてもわかる。鬼龍院先輩だ。
彼は今日も『瑞原スーパー』のレジ袋から、キンキンに冷えたオレンジジュースのボトルを取り出し、ボクに差し出してくれた。
「ほら、飲みたまえ。入学手続きというのは、心身ともに消耗するものだからね」
「……ありがとうございます。いただきます」
ボクがジュースを受け取ると、鬼龍院先輩はボクの隣にどっかと腰を下ろした。
そして、まるで妹を愛でるような穏やかな手つきで、ボクの頭を大きな手でぽんぽんと撫でる。
一年前、一八〇センチの巨漢だった頃のボクなら、反射的に背負い投げを決めていたかもしれない。だが、今のこの小さく華奢な体だと、会長のその動作には不思議な安心感があった。大きな手のひらの熱が、銀髪を伝わってじんわりと広がり、ボクの尖っていた神経を解かしていく。
「鈴木くん。昨日も言ったが、無理にこのサークルに入れとは言わないよ。君は君の望む大学生活を送ればいい」
鬼龍院先輩は、ボクの目を見て、誠実な、あまりにも男前なムーブで言葉を続けた。
「ただ、君の今のその体……不慣れなことも多いだろう。妖怪や、そういった異質な事情が絡んで困ることがあれば、サークルに入る・入らないに関わらず、いつでも私を頼ってくれて構わない。私は、君の力になりたいと思っているんだ」
「…………」
その言葉は、計算された勧誘ではなく、本心からの善意であることをボクの直感が告げていた。名門大学の先輩として、そして同じ『普通ではない者』としての、深い思いやり。
……少しだけ、胸の奥が熱くなる。
「……ありがとうございます、先輩。そう言ってもらえると、少し楽になります」
「ふふ、剛毅は本当に甘いわね。でも翔くん、彼がそう言うなら甘えておきなさい。……でも、一つだけ釘を刺しておくわよ?」
澪先輩が本を閉じ、悪戯っぽく目を細めた。
「剛毅は私のものだから、惚れちゃだめよ」
「さすがに元男ですからそれはきついです」
「じゃあやっぱりわたくしのお嫁さんに」
「それはそれで話が別だから」
葛葉さんをぞんざいに投げ捨てると、綺麗な受け身を取る葛葉さん。
結構できるな、この子。
「そういえば、ここって人が全然いないけどどうしてですか?」
「ああ、ここは『認識阻害』に近い結界が張られている場所なの。妖怪か、妖怪に何か『縁』がある者しか、この中庭には辿り着けないのよ」
「ええ。ボクはただの、普通の人間ですがたどり着けました」
ボクがそう言い切った瞬間。
鬼龍院先輩が困ったように眉を下げ、葛葉さんは「翔様、その謙虚さも最高にクールですわ!」と騒ぎ出し、澪先輩は呆れたように肩をすくめた。
「翔くん、自覚しなさい。一年前の災害で死にかけ、巨漢から銀髪美少女に変貌した存在……。それを、現代の日本の法律や医学では『普通』とは呼ばないのよ」
「……呼びますよ。ボクがそう決めてるんですから」
「強情ねぇ。その頑固さは確かに重量級だわ」
そんな軽口を叩き合っていた、その時だった。
ヒュン、と。
サクラの花びらが、ありえない速度でボクの頬を掠めた。
風が鳴った。
いや、それは風ではない。ボクの直感が、鋭い「殺気」に近い風圧を捉えた。
「――チッ。またここで本当に合ってんのかよ。マップに載ってねー場所は、わかりにくいって」
ボクたちの視線の先。
古桜の太い枝の上に、一人の少女がしゃがみこんでいた。
首には巨大なゲーミングヘッドセット。手には最新型の携帯ゲーム機。
ダボダボのオーバーサイズパーカーから覗く細い腕には、風を切るような鋭い刃紋を思わせるアザが浮かんでいた。
「……誰だ?」
ボクの問いに答えるように、彼女はゲーム機の画面から目を離さないまま、枝からひょいと飛び降りた。
着地の音は、一切しなかった。
彼女が動くたびに、周囲の空気が微かにさざ波を立てる。まるで目に見えない刃がそこら中を舞っているかのような、独特の威圧感。
「あ、やっとみっけた……。ネットの掲示板で、ここに経済に詳しい『鬼』がいるって聞いたんだけど」
少女はようやくゲーム機をポケットにねじ込むと、ボクたちを一瞥した。
「ウチ、鎌切蓮(かまきり・れん)。一年。……プロゲーマーやってるんだけど、最近YouTubeの収益がバグってて。妖怪向けの『確定申告』とか、配信収益の『異種族控除』ってやつ、ここで教えてもらえるってマジ?」
鎌鼬(かまいたち)だ。
それも、現代の技術に染まりきった、今どきの妖怪。
「……また、面倒そうなのが来ましたね」
「ふふ、賑やかになるのは良いことだよ。……さあ、鎌切くん。君もまずは、オレンジジュースでもどうかな?」
鬼龍院先輩は、新しく現れた風のような後輩に対しても、相変わらず穏やかな、そして頼もしい笑顔を向けていた。
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