【エピローグ】2本の哲学のバトン

21世紀初頭。



──アパートの一室。


どこから入ったのか、蝶がいた。


モニターの冷たい光が顔を青く染める僕の足元に、ひらりと降り、そして、音もなく一本のバトンに変わった。


僕は左手で拾い上げた。


掌の上で、それは何の重さもなかった。


風が鳴った。


遠い、遠い空の底から、誰かが笑っている。


荘子だった。


朝日の輝きを瞳に宿したまま、いつものように、ただ笑っている。


「握ったか。きれいだろ。いい玩具だ」


僕は首を振った。


「いいや。栄西と海を渡り、道元が黙して血を吐き繋いできたバトンだ」



荘子の笑いが、一瞬だけ止まった。

風が止まった。

部屋の空気が、音を失った。


──その時、床に、小さな金属音がした。


ニーチェの投げた最後のバトンの欠片が、闇を裂いて落ちてきた。


鈍く、血の色に光った。


僕は右手で拾い上げた。


掌の上で、切っ先が指を切りそうになる。



声がした。



ニーチェだった。


もう声とは呼べない、腐った喉の奥から絞り出されるような声だった。


「握ったな。お前が最後の一人だ。
さあ、血を吐いて踊れ。超人になれ」


僕は微笑み返し、左手に握られたもう一本のバトンを見せた。


「──奇遇だね。
ここに似たようなバトンがもう一本あるんだ。
これはね、東洋の風が運んできたバトン。
超人になれと言ったね。
超人なんて初めからない。
だから超人なんだ。」




ニーチェは一瞬訝しげに目を細め、
そして、ふっと微笑んだ。


「そうか。ありがとう。俺はここで、ついに死ねる。」



僕は荘子に向き直した。




「そしてこの西洋のバトンは教えてくれた。
醜さを愛せ。
人間は、蛾のように震えながら舞うから美しい」


荘子も一瞬訝しげに首を傾け、
次の瞬間、手を叩いて笑った。


「そうか。ありがとう。俺はまだ、死ねなくなった」


僕は2本のバトンを合わせた。


その音は遠くまで響き、今、あなたの耳に届いた。

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哲学のバトン 徳瀬 守 @youme07

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