【東洋編】 荘子 〜戦場が見た蝶の夢〜

遠く、東の国。


古代中国、周の末期。


すべてが腐り、すべてが終わりを迎えようとしていた。

礼は形だけ、道徳は口だけ、戦争は毎年のように起き、人民は犬のように死んでいった。


そんな時代に、一人の老人がいた。


名を捨て、文字すら捨てた。


──老子。


そう弟子に呼ばれた男。


髪も髭も真っ白で、目はまるで死んだ魚みたいに濁っているくせに、時々、底なしの井戸みたいに深い光を宿した。

彼はもう何も欲さなかった。



だから彼は一人、国を捨て、国境を超えようとしていた。


荷物は小さな布一枚。
杖一本。




──そして、ひんやりとした東洋哲学のバトンが握られていた。


老子は自身の哲学を残すつもりはなく、一つの書も作ってはいなかった。

だから彼が関所を越えれば、ブッダが菩提樹の下で至った、弟子たちが言葉を尽くして渡し合ってきた東洋哲学のバトンは永遠に失われる。



しかし彼は構わず歩みを進めた。


──いや、一歩だけ足を踏み出し、
立ち止まった。


そしてただ一言、風に乗せて呟いた。


「しょうがねえな」



ゆっくりと首を振って、東へ向いた。


──ただし。


彼は手の中のバトンを道に投げ捨てた。


「握れるものなら拾ってみろ」



風が止んだ。


彼は歩き出した。


誰も後を追えなかった。

歩いているのは道そのものだったからだ。



 *        *        *



老子が姿を消して200年後。


春秋戦国時代。

天下はもう、ただの肉片だった。


秦は西から、趙は北から、斉は東から、楚は南から、七つの巨大な肉挽き器が同時に回り始めていた。

国境線は毎月塗り替えられ、昨日まで味方だった軍は今朝には敵で、昼にはもう屍の山だった。


城は焼かれ、井戸には死体が詰められ、川は血で赤く染まり、その血の川を船で渡る兵たちは、「次の戦で死ねるかどうか」が唯一の希望だった。


儒家は「礼を復興せよ」と叫びながら自分たちが一番先に逃げ、


墨家は「兼愛」を説きながら兵器を売り、


法家は「法治」を叫びながら民を家畜より下に扱った。


誰もが「俺の正義が正しい」と叫び、


誰もが「俺の道が唯一」と叫び、


叫びながら人を殺し、殺されながら叫び、

叫び疲れて死んだら、次の奴が同じことを叫び始めた。


そんな地獄という言葉すら生ぬるい世紀末のど真ん中に、一人の男が、のんびり歩いてた。


手に、老子が投げ捨てたはずの、まだ少し温かいバトンをくるくる回しながら。


彼の名は、荘子。


死体の山を足で崩し、笑いながら歩いていた。




突然、喉に剣を突きつけられた。


この地獄を一身に背負ったような刃だった。



刃が皮膚を裂き、血が一筋垂れる。



相手は低い声で訊いた。


「おい、生きていたいのか。死にたいのか。どっちだ」


風が、血の匂いも、遠くの叫び声も、すべての音を殺した。



荘子はゆっくりと顔を上げた。


傷口から零れる血が、首筋を伝って鎖骨に溜まり、ぽたりと地面に落ちる。


「──生か死か。究極の問いだな」


「なら死ね」


兵は剣に体重を乗せた。


荘子はにこっと笑った。


荘子は首をわずかに傾けて、自分から刃をさらに深く食い込ませた。


「こんな老いぼれを殺してどうする」


「意味なんてない。こんな地獄で、生きることに意味などないだろ」


「お前、生きる意味を探しているのか」


「違う。生きていることに意味などないと言っているんだ」


荘子は大声で笑い出した。
喉の奥から、まるで血の泡が弾けるような笑い声だった。


「同じだ。意味がないと言うことは、意味があるということだ。


意味と無意味も、
価値と無価値も、
生と死も、
全部セットで成立してるのさ。

そのそういや、昔、その塩を使って作った団子を猿にやったことがあるんだ。


『朝に3つ、夜に4つやるぞ』って言ったら、猿どもは大層怒りやがってな。


吠えて、牙を剥いて、まるで俺を殺す気だった」


兵の眉が跳ねた。




「で、どうしたかと言うと、
『じゃあ朝に4つ、夜に3つでいいな?』って言ったら、
同じ7つなのに、今度は手を叩いて大喜びしやがった」


「てめえ、ふざけてんのか!」


「ふざけてる?
いやいや、俺は超真面目に答えてるよ。
朝に4つ、夜に3つ。おおもとが減るわけじゃないのに、人間は好き勝手に境界線を引いて、多い少ないとわめいてる。

生と死も同じだ。今日死のうが、明日死のうが、それは境界線を引いて遊んでるだけなんだ」




兵の剣が小刻みに震える。


「……俺はただ、殺すか見逃すか訊いてるだけだ!」


「まだ訊くか。
こんなに老いぼれになっても、身体は生きたいと言っている」


兵士はニヤリとした。


「ようやく正直になったな」


荘子はその顔を笑ってじっと見つめた。


「もっともだろう。
身体などあるから生きたいと思ってしまう。それが苦しみなのさ。そして、お前も今、意味を求めて苦しんでいる」



荘子は、初めて真っ直ぐ兵の目を見た。
兵が持つ剣が僅かに震えた。

荘子は、


──動かすな


と剣の刃を握った。

手から血が吹き出し、剣をつたった。


「……痛くないのか」


「痛いさ」


荘子は笑った。


「でもそれは、この身体が勝手に痛がってるだけだ。
『俺』に相談もせず、勝手に叫びやがる。
礼儀知らずだろ?」


荘子はさらに剣を握った。


「この剣で俺を殺せても、『俺』は殺せない」



兵士の顔から汗が一筋、血と混じって落ちた。


「意味が分からない」


荘子はふっと息を吐いて、持っていたバトンをぽんと放り投げ、くるくる回るバトンを指一本で受け止めた。


「すぐ意味を求める癖があるな。
『殺される俺』と『生きてる俺』、どっちが本当の俺だ?」


荘子は兵の顔を覗き込んだ。


血の臭いと一緒に、静かな笑みが流れる。


「今朝、死体の上で、蝶になる夢を見たんだ。ふわふわ飛んで、花の蜜を吸ってた。
気持ち良かったぞ。
生まれたての娘の頬に止まったら声を出して笑ってた。
初めて笑ったと母親が喜んでいた」


兵の瞳が揺れた。


その眼をまっすぐ見て、荘子は優しく笑った。


「そんな、娘の頬に止まった蝶が俺が本当の俺で、
今ここにいる、殺されそうな俺が蝶が見ている夢かもしれない。
どっちも夢で、どっちでもないかもしれない。本当は区別なんてつけられないのに、俺たちはつけようとしてる」



風が、ふっと二人の間を抜けた。
血の匂いを少しだけ、薄めて。


兵は剣を下ろした。


手が震えて、もう握っていられなかった。


「……俺の、娘も同じか」


「ああ、同じだ」


荘子はにっこり笑って、兵の肩を優しく、ぽんと叩いた。
兵の肩は大きく揺れた。
視界が歪む。


「俺の娘は、生後3時間で殺された。
昨日まで『俺達は仲間だ』と酒を飲んでいたやつに笑って殺された。そんな人生に何の意味がある?娘が生きた意味は?
俺が生きた意味は?」


兵士は剣を握ったまま、足元の地面を見つめた。


剣の影が震えていた。


荘子は笑いながら言った。


「今、この瞬間も、蝶がお前の娘の夢を見ている。誰も蝶の夢を殺せはしない」

剣を握る手が、自分の手ではないみたいに震えていた。


剣が、がらんと音を立てて、地面に落ちた。

落ちた剣の先に荘子の血がぽたりと垂れた。


荘子は目を細くした。


「だから俺たちは、昼寝でもしよう。
死体が柔らかくて寝心地いいぞ」


兵士は膝から崩れた。


膝が地面にめり込む。


顔を上げて、空を見た。


荘子も同じ空を見上げて呟く。


「お前が今ここで剣をおろしたことで、
どこか遠くの知らない子供が、急にぱっと笑い出したかもしれない」


兵は顔を上げた。
頬を伝う熱いものが、涙だと気づくのに少し時間がかかった。



──俺に「泣く」という感情がまだあったのか。




荘子は相変わらず笑顔だった。




「俺が死ねば、どこかの誰かが急に生き返る。
俺が生きてれば、どこかの誰かが急に首を刎ねる。
そうやって、物事は全部繋がってるのさ。
お前と、娘も同じだ」


「……お前、本当に頭がおかしいな」


「ああ。
でもお前、今泣いてるだろ?──ほら、どこか遠くで誰か笑った」



荘子は満足そうに頷いて、またバトンをくるくる回しながら歩き出した。


背後には、さっきまでの殺気はもうどこにもなかった。



ただ、初めて「生きてる」という感覚の中で、子供のように泣いている一人の男がいるだけだった。



 *        *        *



その夜、兵は死体の山の上で寝た。


本当に寝心地が良かった。




翌朝、彼はまだ生きていた。



軍旗はもう別の色に変わっていた。


味方だったはずの部隊が、今度は自分を敵と呼んでいた。




彼は腰の剣を抜いて、自分の首に軽く当ててみた。



少し血が滲んだ。


痛かった。


「俺に断りなく身体が痛がりやがる──か」


そう呟いて、剣を地面に突き刺して立ち上がった。


ふと、落ちていた書簡が目に入った。

昨日の変な男が落としたものだ。




折りたたまれた書簡。


開いてみた。


彼に文字は読めなかった。


ただ、墨の線が竹の上で蝶のように跳ね、舞い、風に揺れているように見えた。



彼はしゃがみ込み、書簡を抱きしめた。


「ここにいたのか」


泣きながら、久しぶりに彼は、笑った。



 *        *        *




──これは兵士には読めなかった、
だが風だけが読めた、荘周最後の文字である。




夜は静かだ。


血の匂いも月明かりに消える。



どれだけ笑っても、今夜のように、すうっと胸の奥が冷たくなる夜がある。


──俺はそろそろ寝たい。


だから、誰も。



誰も俺の代わりになんてなるな。


何も背負わなくていいから、
ただ一緒に寝よう。




道も、真理も、悟りも、なんにもない。



だから、
自分で何も決めなくていい。


自分で何も実行しなくていい。

自分で何も肯定しなくていい。

それ以上も以下もない。


なぜなら、「俺」なんて最初からいなかったからだ。

「お前」なんて最初からいなかったからだ。


俺は蝶となり、飛んでいく。


人類がよってたかって「真理」を負い続けてきたなんて笑い話だ。

夢の中でこそ、蝶は自由に飛べる。

この先は作らなくていい。

価値なんて最初からない。

「私」なんて、そもそもいない。


蝶のような雪片となり舞え。


屍の上で、血の匂いの中で、笑いながら、そのまま好きなように。


俺たちは自由だ。



舞ってもいい。


どこにも行かなくていい。



夢の中で、何ももたず、蝶でいていい。




本名を名乗るのにも、もう飽きた。


ただ──風が求めるなら、こう書いておこう。


いつの世とも分からぬ誰かの夢の中で



荘周



 *        *        *



彼は無数の蝶のような白い影となって、夜空に優しく光を放ちながら、遠く、天へと消えた。



ただ誰かと一緒に寝るために。



荘子が残したバトンは、馬祖、百丈、臨済、雲門、沩仰……
次々と現れる怪物たちが握り、中国全土に雷鳴のような喊声を轟かせた。


東洋哲学が選んだ道は「多数に広める」ことではなかった。


「一灯が一灯に火を移す」だけ。


少数から少数へ。



だからこそ、どんな王朝の興亡も、どんな迫害も、芯を錆びつかせることができなかった。


純度100%のまま、火は消えなかった。


──時は流れ、鎌倉の風が荒々しく吹く頃。

二人の若者が、ほとんど同時に船に乗った。


一人は栄西。

一人は道元。



二人は顔を合わせたこともない。


しかし、二人とも同じバトンを握りしめていた。


こうして、荘子の哲学は、ついに海を渡った。

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