【西洋編】 ニーチェ ~神の墓碑を立てた者~

カントが凍らせた哲学の墓に、もう誰も祈りに来ない。

瓦礫は冷えきっていた。

この場所は2000年の哲人たちの終焉の地。


しかしただ一人。

まるで高熱に浮かされたように、割れそうな頭を抱えて、彼はよろよろと歩いてきた。


彼の名は、フリードリヒ・ニーチェ。



生まれつき体が弱く、頭が軋む音を立てるほどの頭痛に苦しみ続けてきた彼は、今まさに死にかけていた。


彼はかすれた視界の中、カントが閉じた棺桶を蹴り飛ばした。

蓋が開くと、中から何かが転がり落ちた。

それはかつて「神」と呼ばれたものと、
カントが砕いた哲学2000年のバトンの欠片だった。



──ああ。


ニーチェは、冷たくなったその瞼に、そっと指を這わせた。

そして……静かに閉じた。


コペルニクスが地を奪い、
ガリレオが天を奪い、
ダーウィンが血を奪い、
ヴォルテールが舌を奪った。
その最後の息の根を、

今、俺が止めた。


──俺たちが殺した。


神は死んだ。



 *        *        *



これは私、フリードリヒ・ニーチェの遺書である──。


神が生きていた時代。
かつて、人はこう考えていた。

強いことは善い。
弱いことは悪い。
獅子は美しく、羊は醜い。

それが自然で、まっすぐな価値だった。


ところが、弱者どもが群れをなして叫んだ。

「暴力はいけない」
「憎しみはいけない」
「謙虚であれ、慈悲であれ」

彼らはまず、愛と純粋さをもって強く生きた一人の男を十字架にかけた。


彼こそ、自分の意思に忠実で、誰にも支配されない生を生き抜いた強人だった。



「自分を愛せよ」「敵を愛せよ」「抵抗するな」


そう言いながら、誰にも屈せず、誰も憎まず、十字架にかけられても呪わなかった。

人々が「弱者の象徴」と呼びたがる、その男は、実際には誰よりも自由だった。



しかしこうして、
「殺された強者」の名を借りて、
「殺させた強者」に罪を着せ、
自分たち弱者は「赦す側」に立った。

これは弱者の、人類史上最も狡猾で最も完璧な復讐だった。



こうして、価値観は永遠にひっくり返った。

強い者は憎まれ、弱さが美徳と呼ばれるようになった。

それは弱者のための世界だった。


しかし、弱者を守ってくれた神はもう死んだ。

──俺だって弱い。


孤独だ。


誰にも愛されない。



それでも毎朝、頭痛と嘔吐を押して原稿用紙に向かってきた。


なぜだ。

痛くても、愛されなくても、誰にも理解されなくても、
それでも『もっと強くなりたい』『もっと書きたい』『もっと生きたい』という、この胸の奥で燃える小さな炎が、死にかけた今も消えない。


これこそが、人間が最後に残した唯一の本物の衝動だからだ。



その炎を自覚し、目を背けず、
ただひたすらに強さを目指して生きる者。


──超人。

神という絶対的な審判者が消えた今、超人は堕落しない。
自分自身で価値を作り、自分自身で肯定し、虚無の大地に自分で勝利を刻みつけて生きていく。


逆に、
「ただ穏やかに生きたい」
「健康で、長生きできればそれでいい」
「争いは嫌だ、眠れれば十分だ」
と、熱も欲も失い、ぬるく生きてぬるく死ぬ者たち。


──末人。

何も欲さず、何も生み出さず、ただ「幸せでした」と呟いて終わる、最も軽蔑すべき存在。


俺は、そうはなりたくないんだ。


なりたくなかったんだ。



だから殺した。

お前らの代わりに俺が殺してやった。

血反吐を吐いて、神を殺した。




──俺はもう死ぬ。


だから、誰か。

俺の代わりに超人になってくれ。



まっすぐに生きろ!

神にも、国家にも、道徳にも、誰にも強制されず、
自分で価値を決め、自分で実行し、自分で肯定して生きろ!

それ以外に、俺達が本当に満足して生きる道はない!

なぜなら。


神はもう死んだからだ。


古い価値はもう死んだからだ。


俺は神を殺し、墓標を立てた。

人類がよってたかって殺してきた神のとどめは、俺が刺した。



目を覚ませ。

神が死んだ世界だからこそ人間は舞える。

蛾のように醜くていい。
だから人間は美しい。



この先は自分で作れ。

価値は作れるんだ。



人間は強い。

踊れ。

虚無の上で、血を吐きながらでも、笑いながらでも、踊り続けろ。

それが人間に残された、唯一の尊厳だ。



遠くへ行け。


俺たち人間は、神が死んだ世界で、まだ舞える。



1889年1月3日 トリノにて


ツァラトゥストラはかく語りき



 *        *        *




ニーチェは砕けたバトンの欠片を握りしめた。
手に血が滲み、遺書に染み込んだ。




──いい拇印代わりになった。


そう言い、彼は遺書を投げ捨てた。

その代わりに、手に血が滲んだまま、カントが叩き割ったバトンの欠片をさらに強く握りしめた。


哲人たちが命をかけて繋いできたバトン。

その砕けた断片には、まだ光が残っている。



──頼む。


ニーチェは血の味を噛みしめながら、握りしめていたバトンの欠片を天に放り投げた。


ニーチェの投げたバトンは無数に砕け、鋭く光を放ちながら、遠く、天へと消え、

彼は倒れた。

血と涙と笑みを撒き散らして、彼が立てた神の墓標の下で。


1889年1月のことだった。



 *        *        *



ニーチェの投げたバトンの一本は、ハイデッガーが拾った。


1933年、フライブルク大学総長就任演説。

ハイデッガーは壇上で叫んだ。

自分にはニーチェが宿っていると信じていた。
そうだ、俺の手にはニーチェが渡してくれた光のバトンがある。


「総統は現在のドイツ的実存の唯一の可能性である!」



だが彼は気づかなかった。

握っているものが、
新しい、黒い、巨大な鉄の棒になっていたことに。

いつの間にか自分を握り返していることに。


ハイデッガーは講堂で胸を押さえて、倒れた。


1936年、講義室。

黒板に「ニーチェ 力への意志」と大きく書かれたその日、

ハイデッガーは突然胸を押さえて倒れた。



 *        *        *



また、別の時代にサルトルが拾った。



彼はニーチェのバトンを持ちながら、血の匂いを纏ったまま、永遠に踊り続けた。


転びながら、血を吐きながら、
誰かを殺しながら、誰かに殺されながら。

虚無の上で、ただ一人、いや、もう何万人と、踊り続けた。


これは、終身刑の、最も華麗な、執行だった。


──1950年代。

アルジェリアの砂漠。


一人の黒い男がサルトルの本を銃床に叩きつけた。


『抑圧された者は抑圧者になる』という彼の言葉を、砂漠の若者が文字通り実行した。


ページが血で貼りついた。


──1968年、パリ。


石畳を剥がす手が震えていた。

「サルトル! サルトル!」と叫ぶたびに、誰かの母親が泣いた。

その視線の一つひとつが俺を裁き、俺を殺し、俺を自由にした。


──1970年代。

空港のロッカーに爆弾を仕掛ける若者が、
 最後に開いたのは聖書ではなく、『存在と無』だった。


踊りが大きくなればなるほど、誰かが踏みつけられた。


誰かが「裏切り者」と呼ばれた。


誰かが「間違っている」と吊し上げられた。


誰かが「正義の名の下に」殺された。

踊りは、いつの間にか、行進に変わっていた。


バトンは、いつの間にか、鉄の旗竿に変わっていた。


炎は、いつの間にか、焼き尽くす火に変わっていた。


サルトルは踊りすぎた。


血の海の上で、完璧に踊りきって、それが地獄だったと、やっと気づいた。



サルトルはシガレットを落として、倒れた。



 *        *        *



──ハイデッガーとサルトルは、夢を見た。


目の前に、ニーチェが立っていた。
1889年のままの姿で。

目は澄んでいて、狂気はない。
ただ、静かに微笑んでいる。


サルトルは言った。

「俺は、踊れなかったよ、フリードリヒ」


ニーチェは微笑んだ。
まるで古い友に語りかけるように。


「あれほど見事に踊っていたじゃないか、まるで──そう、末人のようだった」



その言葉に、サルトルはバトンを自らの腹に突き立てた。

乾いた音を立てて、刃はパリの石畳に転がった。


それを横目に、ハイデッガーは言った。


「私はいつから間違っていたのですか」


声が掠れる。


「私は、あなたの──」


──後継者だ。


そう言い終える前に、ニーチェはハイデッガーが握っていたバトンを踏みつけた。


バトンの欠片が砕け散り、ハイデッガーの首を切り裂いた。


「いつから間違っていた? ──か」




まるで、優しく、まるで子供を諭すように言った。


「最初からだ」


ニーチェは背を向けて歩き始める。

灰が風に舞って、頬を打つ。
熱い。

でも、もう何も感じない。


最後に、ニーチェの声だけが、
静かに、確かに、響いた。


「早く俺を殺せ」



 *        *        *



21世紀初頭。


タイムラインは吐瀉物と絵文字と広告で詰まり、
「いいね」の数だけが心拍のように脈打つ世界。

インフルエンサーは今日も自撮りで蕩け、
信者たちはスクロールする指を血が出るまで動かし続ける。

誰もが「自分は特別だ」と信じながら、
誰とも目が合わない画面に顔を埋めて、
平和に、楽しく、ぬるく腐っていた。



──アパートの一室。

パソコンの青白い光が僕の顔を照らす足元に、
ニーチェの投げたバトンの最後の一片が落ちた。

僕はそれを拾い上げた。



キラリと、鈍く光った。


海の深淵から、腐った魚の腹みたいに濁った声が上がってきた。


ニーチェはニヤリと笑った。

歯はもう抜け落ち、目だけが白く光っている。
だがその奥には、まだ小さな炎が灯っていた。


「握ったな。それは、ハイデッガーが講堂で握り、サルトルを血を吐きながら踊っていた時に握っていたものだ。まだ熱を帯びているだろう。

さあ、お前も血を吐いて踊れ。超人になれ」


僕は微笑み返し、左手に握られたもう一本のバトンを見せた。


「──奇遇だね。ここに似たようなバトンがもう一本あるんだ。これはね、東洋の風が運んできたバトン。超人になれと言ったね。

超人なんて初めからない。だから超人なんだ。」



ニーチェは一瞬、訝しげな顔をし、そして、穏やかに微笑んだ。


「そうか。ありがとう、俺はここでついに死ねる」

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