第21話*初めての刻印**
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オーディションの二次審査通過を知らせるメールが届いたのは、深夜のスーパーでのアルバイトを終え、疲労困憊で帰る電車の中だった。
『合格』
その二文字を、孝子(絵里奈)は液晶画面が消えるまで、何度も何度も見つめた。
吊り革を握る指先に、力がこもる。窓ガラスに映る自分の顔が、少しだけ緩んでいるのに気づき、慌てて口元を引き締めた。
「ただいま」
アパートの玄関のドアを開けると、リビングから夕食の匂いではなく、洗い終わった食器の冷たい音が聞こえてくる。母は、エプロン姿でキッチンに立ち、テレビのワイドショーをBGMに、小気味よい包丁の音を立てていた。
「お母さん、あのね」
孝子は、少しだけ弾んだ声で切り出した。
「この間のオーディション、また残ったの。結構、いいとこまで行ってるみたいで」
自分でも驚くほど、声が上ずっている。
「もしかしたら、ワンチャン、あるかも」
しかし、母の反応は、孝子の期待とは違っていた。
包丁を動かす手は止めないまま、肩越しに、冷めた視線を娘に向ける。
「あら、そうなの。…あんたも、よくやるわねぇ」
その声には、称賛よりも、呆れの色が濃かった。
「あんなに何度も何度も落ちて。いい加減にしなさいよ。はっきり言って、才能、ないんじゃない?」
ガチャン、とまな板の上に置かれた包丁の音が、リビングに響く。
母の言葉は、いつも正しい。現実的で、的確で、そして少しも夢がない。
孝子の心に灯りかけた小さな希望の炎が、冷水を浴びせられたように、ちりちりと揺らぐ。
「…ううん」
孝子は唇を噛み、俯かなかった。無理やりの笑顔を作る。
「今回は、なんか、行ける気がするんだ」
その「手応え」は、本物だった。審査員の、特にあの若い女性専務の視線。自分を見る時の、他の候補者とは明らかに違う、熱のこもった眼差し。
(あの人が、私を認めてくれている)
その確信が、孝子の折れそうな心を支える、唯一の柱だった。
**その日の夕方。**
孝子は、最終選考を通過した者だけが受けられる、**「事務所との面談」**という名の「初仕事」へ向かった。指定された場所は、江藤音楽事務所のオフィスフロアの一角にある、ガラス張りの小さなミーティングルームだった。
「契約の話かしら」
期待と緊張に胸を高鳴らせていた孝子だが、部屋に入った瞬間、空気が凍りついた。
江藤小百合が一人、窓の外の夜景を眺めて立っていた。彼女の手には、冷たい銀色の金属が握られている。
「…お疲れ様、絵里奈。素晴らしいパフォーマンスだったわ」
小百合の声は、いつもより少しだけ甘く聞こえた。
「ありがとうございます」
孝子が頭を下げた、その時だった。
カチャリ、と金属の冷たい音がテーブルの上に置かれた。
手錠だった。
「え…?」
孝子が状況を理解する前に、小百合は素早い動きで孝子の背後に回り込み、その両手首を掴んだ。
「ちょっと…! 何するんですか!」
抵抗しようとするが、小百合の力は、華奢な見た目からは想像もつかないほど強い。
ガチャン、という無機質な音と共に、孝子の両手は、手錠で固く拘束された。
「これから、私の言うことは絶対よ。それが、この世界で生きていくための、最初のルール」
パニックに陥る孝子を、小百合は椅子に無理やり座らせる。
ガラス張りの壁の向こう側では、残業している社員たちが、何事かとこちらを窺っている。しかし、誰も助けようとはしない。見て見ぬふりをしている。
小百合は、孝子の前に立つと、その顎を掴み、無理やり上を向かせた。
その瞳は、悦楽に濡れていた。
「大丈夫よ、パパには言ってあるから。今度の子は、**タフそうよ? 根性ありそうだし、簡単に壊れたりしないわ**って。…**わかるの、わたしには**」
小百合は、ゆっくりと顔を近づけてくる。
高級な香水の匂い。
孝子は、必死に顔を背けようとするが、手錠で拘束され、顎を掴まれていては、どうすることもできない。
唇が、触れるか触れないかの、数ミリの距離で止まった。
孝子は、屈辱と恐怖に、ぎゅっと目を瞑った。
「ふふっ…」
耳元で、嘲るような笑い声が聞こえた。
小百合は、寸前で顔を離すと、まるで面白い芝居でも見たかのように、楽しそうに言った。
「今日は、ここまで。おめでとう、絵里奈。あなたは、私のものになったのよ」
彼女は、手錠の鍵を開けると、呆然としている孝子の肩をポンと叩き、何事もなかったかのように部屋を出て行った。
廊下で待っていた父、江藤守が「ほどほどにしろよ」と呆れ顔で言うのが、ガラス越しに見えた。
小百合は、無邪気な子供のように父の頬にキスをすると、楽しそうに笑っていた。
一人、部屋に残された孝子は、まだ熱の残る自分の唇に、震える指で触れた。
キスは、されなかった。
しかし、その事実は、実際にされるよりも、何倍も深い屈辱と憎悪を、彼女の心に刻み付けた。
あれは、契約の儀式などではない。
魂に焼き付けられた、支配者の、最初の刻印だった。
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